顔(散文について・02)
再掲です。
*「ジャンルを壊す、ジャンルを崩す(言葉とイメージ・07)」
*「壊れていたり崩れている文は眺めているしかない(散文について・01)」
今回は、上の記事の続きですが、以前に散文――「何をどんなふうに書いてもいいもの」と私はイメージしています――を模索=模作していたときに投稿した文章を再投稿します(少し加筆してあります)。
散文は眺めるものだ、とも私はイメージしているので、無理に読もうとなさらずに、ざーっと目を通していただいてかまいません。それだけで本望です。本当ですよ。
もちろん、じーっと眺めて――まばらにまだらにです――いただけば、そんな嬉しいことはありません。
*
まず、前回のまとめをします。
以下に再掲する記事と同じテーマで書こうと考えていたものの、今の体調では書き下ろしができそうもありません。どうか、ご了承願います。
顔
朝起きると、見知らぬ顔が鏡の中にいた。忘れもしない、二十年前のゴールデンウィーク最終日のことだ。驚いたのは言うまでもない。誰にも言わなかったのは、誰も気づいていないみたいだったからだ。家族も、学校でも。最も敏感であってほしい我が家の犬さえも。
翌日の午後、学校から帰る途中に、私を追い抜いていったバスの一番後ろの窓から見ていた私の顔と目が合った。私たちは互いに目を見開き、口を手で被った。驚いたのは言うまでもない。声を上げなかったのは、誰にも気づかれたくなかったからだ。私は心の中で、その顔にさようならと言った。
考えないように生きるのには慣れたつもりだが、一日に何度かは思い出すし、しばらく頭から離れないこともある。親にも友達にも言えなかったことは、今いっしょに暮らす夫にも子どもたちにも言えるわけがない。言って楽になれるとも思えない。生きていくためには心にしまっていたほうがいいものがある。
私に支えがあるとすれば、誰もが言えない秘密を抱えているにちがいないという確信だ。そう信じているから、私は深い孤独に耐えることができる。そう考えることで私はかろうじて笑顔になれる。
*
自分の顔が見えないと感じたのはいつなのか――正確に言うと、鏡に映る自分の顔のことなのですが――、よく覚えていません。以前にそうした意味のことを文章にしたことがあり、その日付を見ればわかるのでしょうが、あえてしないでいます。
こういうことが自分だけに起きるのか、それともそう感じる人がいるのか、不明なままです。
*
人の顔を見分けるのにどちらかというと苦労する私ですが、鏡で見る自分の顔ほど分からないものはありません。見ているのに見えないという気がします。刻々と更新しつつある「いま」であるとか、刻々と更新しつつあるズレであるとかいう、苦しまぎれのレトリックをつかったことがあるほどです。
つまり、目の前にある鏡を覗きこんだときに見ているのは形(自分の姿)ではなく「とき」(ときほぐせない記憶の塊)であるという意味なのですが、もしそうであるなら、自分はかなり動揺し困惑しているにちがいありません。他のものを見るのとは異なる次元にいると言いたいくらいのお話なのです。
*
ひょっとすると、鏡の前では見ているのではなく、おののいているとしか考えられません。それくらい鏡を覗くと緊張するのです。たとえば、鏡に映っているとされる自分を見つめながら、いきなり目をつむるとしますね。そのときに瞼の裏か頭の中か知りませんけど、自分の顔が浮かんでほしいのに浮かばないのです。
浮かべ浮かべと念じて、浮かぶのはいつか見た写真に映った自分の顔であり、ほんの数秒前に鏡に映ったはずの自分の顔ではないのが不思議でなりません。つまり私の頭の中にある自分の顔は、ぜんぶ写真で見た顔だということになります。
とにかく見えないのです。ひとさまのことは知りません。問いただすような親しい相手がいないからなのですが、たとえ親しい人がいたとしても、恥ずかしくて尋ねる気にはならないでしょう。親しい人とはこのたぐいの話はしたくはないのです。
顔*
朝起きると、見知らぬ顔が鏡の中にいた。
忘れもしない、二十年前のゴールデンウィーク最終日のことだ。
驚いたのは言うまでもない。
誰にも言わなかったのは、誰も気づいていないみたいだったからだ。
家族も、学校でも。最も敏感であってほしい我が家の犬さえも。
翌日の午後、学校から帰る途中に、私を追い抜いていったバスの一番後ろの窓から見ていた私の顔と目が合った。
私たちは互いに目を見開き、口を手で被った。
驚いたのは言うまでもない。
声を上げなかったのは、誰にも気づかれたくなかったからだ。
私は心の中で、その顔にさようならと言った。
考えないように生きるのには慣れたつもりだが、一日に何度かは思い出すし、しばらく頭から離れないこともある。
親にも友達にも言えなかったことは、今いっしょに暮らす夫にも子どもたちにも言えるわけがない。
言って楽になれるとも思えない。
生きていくためには心にしまっていたほうがいいものがある。
私に支えがあるとすれば、誰もが言えない秘密を抱えているにちがいないという確信だ。
そう信じているから、私は深い孤独に耐えることができる。そう考えることで私はかろうじて笑顔になれる。
*
鏡は自分の姿を見るためにあると思われますが、鏡に映っているのは自分でしょうか?
鏡に映っているのは姿や形というよりも時間だという気がします。正確にいえば、時間ではなく、ずれなのかもしれません。抽象である時間を、人は「見る」ことができません。「まえ」と「いま」とのずれとして感知するしかないのです。
ずれは印象ですから、計測も検証もできません。その意味で、ずれは「似ている」に似ています。ずれは鏡に映っているから「似ている」に似ているわけではありません。鏡は「似ていない」も映しますし、映りもします。
*
鏡を前にしてのお化粧は、刻々と目の前に現われるずれとの追っかけっこです。先を越されないように必死で見ていなければ、顔は見えないし、化粧品ののり具合を確かめることはできません。ですから、ずれを深く受けとめている暇も余裕もないといえます。
お化粧をするときには、鏡の中の自分、つまりずれとは妥協するしかないのです。いつまでも眺めているわけにはいかない。考えこんでいる暇もない。ま、いっか、と唇を噛んでつぶやいてその場を去るしかない。ずれとまともに向き合えば喜劇や悲劇や惨劇になります。
*
数年前の写真を見るのは恥ずかしいものです。恥ずかしくてまともに見られません。髪型も化粧も服装もださくて見るに堪えない。でも幸いなことに、顔そのものは見ないだけの体感的な知恵が、人にはそなわっているようです。というか、じつは顔そのもなんて見えないみたいです。
ずればかりがやたら目につくという意味です。そんなわけで、顔や姿は目に入らないというべきかもしれません。写真に写っている人を卒業したという優越感と、それがちょっと前の自分だったという屈辱感のあいだで揺れるともいえるでしょう。要するに、ちょっと前の自分は恥ずかしいと同時に憎い。ちょっと若いから小憎らしい。つまり、ライバルなのです。
免許証とか証明書の写真を思いうかべてください。撮りたくて撮ったものではなく、仕方なく撮ったもの。恥ずかしさと屈辱だけが映っています。だから正視できないし正視に耐えない。これは、ずれがダイレクトに襲ってくるからではないでしょうか。恥ずかしさと悔しさ、つまりずれを感じとるだけの余裕ができているということです。
*
昔の写真とか子どものころの写真になると、ずれをもろに受け入れる余裕ができていますから、見ていてもそれほど恥ずかしくはないし憎らしくもないし悔しくもありません。むしろ、懐かしくて見入ることがある。もはや、他人となった自分です。
まあ、かわいい。この子、誰? 天使を見る人もいますね。我が子や甥っ子や姪っ子や孫を見るのに似ているのです。似ているけど、自分ではない誰か。でも、ようやく自分を目にすることが可能になります。
晴れて自分にご対面というわけです。初めまして。Nice to meet you.
ただし、かなり昔、それも子どものころの自分の写真ですから、その晴れて目にした自分はもはや他人と同じでしょう。写真に写っている自分の像が自分と同一人物だと見なすのは、「実感」でも「体感」でもなく、むしろそうだと言われて分かるという意味での「知識」であり「情報」ではないでしょうか。
一方で、鏡に映ったいまの自分の顔が見えないという事態はいぜんとして続いています。鏡を覗きこんで目にしているのは、「まえ」と「いま」とのずれなのです。
顔**
朝起きると、見知らぬ顔が鏡の中にい
た。忘れもしない、二十年前のゴール
デンウィーク最終日のことだ。驚いた
のは言うまでもない。誰にも言わなかっ
たのは、誰も気づいていないみたいだっ
たからだ。家族も、学校でも。最も敏感
であってほしい我が家の犬さえも。翌日
の午後、学校から帰る途中に、私を追い
抜いていったバスの一番後ろの窓から見
ていた私の顔と目が合った。私たちは互
いに目を見開き、口を手で被った。驚い
たのは言うまでもない。声を上げなかっ
たのは、誰にも気づかれたくなかったか
らだ。私は心の中で、その顔にさような
らと言った。考えないように生きるのに
は慣れたつもりだが、一日に何度かは思
い出すし、しばらく頭から離れないこと
もある。親にも友達にも言えなかったこ
とは、今いっしょに暮らす夫にも子ども
たちにも言えるわけがない。言って楽に
なれるとも思えない。生きていくために
は心にしまっていたほうがいいものがあ
る。私に支えがあるとすれば、誰もが言
えない秘密を抱えているにちがいないと
いう確信だ。そう信じているから、私は
深い孤独に耐えることができる。そう考
えることで私はかろうじて笑顔になれる。
*
自分に会ったことがあるかどうか、と尋ねられると返事に困りますよね。哲学的な問いにもおふざけや冗談にも感じられますが、言葉の綾だとかレトリックだと言って一笑に付すこともできます。たしかに意味ありげな問いを真に受けると馬鹿を見ます。
自分を見たことがあるがあるかと尋ねられれば、「ありますよ。毎日鏡で見ています」という答える人が多そうです。
自分を直接肉眼で見たことがあるかと聞かれると、ちょっと困りますよね。私なんか、もじもじしながら「いいえ」と答えそうです。鏡や写真以外で、自分を直接目にした記憶がないからです。
私にとって、自分はまだ見ぬ人だと言えそうです。
*
人が自分を直接見たことがないというのは当たり前でありながら、ふつうは考えないことだと思われます。考えてもひとつもいいことがないからでしょう。おかしな気分になったり、気が滅入るだけです。
でも、こういうことが気になる人がいます。ひとりだけですが、私も知っています。私にとってきわめて近い人です。でも見たことはありません。会っているような気はしますけど。
レトリックはさておき、私にはお化粧をする習慣がありません。だから自分の顔や姿を鏡に映して、その鏡を覗きこむことはほとんどありません。朝、洗面所で顔を洗ったついでとか、シェーバーでひげをそったあとに確認のためにちょっと見るくらいです。
毎日、それも日に何度か、そこそこの時間を鏡の前で費やす人は大変だろうと想像します。お化粧なんて面倒ではないかと要らぬ心配をしてしまいます。お金もかかるにちがいありません。もちろん、お化粧が楽しいという方もいるはずです。お化粧という行為に何らかの価値を見出している人もいるでしょう。
顔***
朝起きると、見知らぬ顔が鏡の中にいました。
忘れもしません、二十年前のゴールデンウィーク最終日のことです。
驚いたのは言うまでもありません。
誰にも言わなかったのは、誰も気づいていないみたいだったからです。
家族も、学校でも。最も敏感であってほしい我が家の犬さえも。
翌日の午後、学校から帰る途中に、私を追い抜いていったバスの一番後ろの窓から見ていた私の顔と目が合いました。
私たちは互いに目を見開き、口を手で被いました。
驚いたのは言うまでもありません。
声を上げなかったのは、誰にも気づかれたくなかったからです。
私は心の中で、その顔にさようならと言いました。
考えないように生きるのには慣れたつもりですが、一日に何度かは思い出しますし、しばらく頭から離れないこともあります。
親にも友達にも言えなかったことは、今いっしょに暮らす夫にも子どもたちにも言えるわけがありません。
言って楽になれるとも思えません。
生きていくためには心にしまっていたほうがいいものがあります。
私に支えがあるとすれば、誰もが言えない秘密を抱えているにちがいないという確信です。
そう信じているから、私は深い孤独に耐えることができます。そう考えることで私はかろうじて笑顔になれるのです。
*
個人的な話をします。
私の場合には、鏡を前にすると、つまり自分の顔や姿を見ると、自分が見えなくなるのです。これは説明を要すると思います。自分であるはずの像は目に入っているのですが、見れば見るほどそれが何なのか分からなくなるのです。
自分だとは頭で分かっています。その形は見えていますが、見留められないのです。認められないのではなく、見留められないです。目に留まっていない感じなのです。ですから、鏡を前にしたまま目をつむると、目をつむる直前に見えていたはずの顔が像として残っていない、つまり残像がないのです。
特に顔なのです。着ている服とかは思い出そうとすれば何とか思い出せますが、顔を思い浮かべることができません。念のために言いますが、いま話しているのは目をつむる直前の自分の顔のことです。髪型や耳も思い出せません。首も自信がありません。
*
必死になっていまの自分、つまりさっき見たばかりの自分の顔を思い出そうとしているのですが、なかなか浮かばないうちに、かつて写真で見た自分の顔が浮かんできます。写真の像が優勢になってくるともう駄目です。そちらに意識が行くのか、写真の像ばかりが、頭か瞼の裏か知りませんが、浮かんでくるのです。
ちょっと待ってください。洗面所へ行って確かめてきます。いま書いていることが本当かどうか自信がなくなってきたのです。
顔**
朝起きると見知らぬ顔が鏡の中にいた――。
ある女性から聞いた話だ。
彼女は語る。
忘れもしない、あれは二十年前のゴールデンウィーク最終日だった、前日に家族で鎌倉に出かけて夜遅く帰った、そんなことは前にも後にもなかったのでよく覚えている。
その日、彼女は朝からゆっくりしていた。当然のことながら彼女は驚いた。誰にも言わなかったのは、家族の誰も気づいていないみたいだったからだ。台所で顔を合わせた母親も、廊下ですれ違った父親も、夕方になって部活から帰ってきた兄も、いつもと同様に視線を交わすことはないにせよ、互いの顔が視野に入っていたはずだ。それなのに、相手が声を上げるとかまじまじと見つめられる事態には至らなかった。
最も敏感であってほしい飼い犬さえ、夕方の散歩をさせても別段変わった反応を示さなかった。納得は行かないが、万事が普通に運んでいるのを目の当たりにすると勘違いではないかと彼女は思い始めた。
翌日学校でも取り立てて言うほどのことは起こらなかったが、下校の途中に大通りで追い抜いていったバスの一番後ろの窓から見ていた顔と目が合った。前々日までの自分の顔だった。
互いに目を見開き口を手で被った。鏡を見ているように同じ動作をしていた。彼女が驚いたのは言うまでもない。声を上げなかったのは、誰にも気づかれたくなかったからだ。まわりの目を気にする性格なのだ。心の中でその顔にさようならと言った。相手も同じ言葉をつぶやいている気がした、と彼女は言う。
考えないように生きるのには慣れたつもりだが、一日に何度かは思い出すし、しばらく頭から離れない日々もある。二十年も経つとあの日の出来事は偽の記憶ではないかと思う時もある。
記憶は鮮明なわけではなく、しだいに薄れつつある。アルバムを見れば前の顔には会えるはずだが、今の彼女には昔の写真を見る習慣はない。
これまでの間に親にも友達にも言えなかったことは、いまいっしょに暮らす夫や子どもたちにも言えるわけがない。言って楽になれるとも思えない。生きていくためには心にしまっていたほうがいいものがある。
そう彼女は述懐する。それが人生哲学のようになっている。
彼女にとって生きる上での支えは、誰もが言えない秘密を抱えているにちがいないという確信だ。そう信じているから、深い孤独に耐えることができるし、そう考えることでかろうじて笑顔になれると信じている。
*
鏡を前にしてのお化粧は、刻々と目の前に現われるずれとの追っかけっこです。先を越されないように必死で見ていなければ、顔は見えないし、化粧品ののり具合を確かめることはできない。だから、ずれを深く受けとめている暇も余裕もない。
お化粧をする時には、鏡の中の自分、つまりずれとは妥協するしかないのです。いつまでも眺めているわけにはいかない。考えこんでいる暇もない。ま、いっか、と唇を噛んでつぶやいてその場を去るしかない。ずれとまともに向き合えば喜劇や悲劇や惨劇になります。
数年前の写真を見るのは恥ずかしいものです。恥ずかしくてまともに見られない。髪型も化粧も服装もださくて見るに堪えない。ただし顔そのものはあえて見ないだけの体感的な知恵がそなわっているようです。というか、おそらく見えないのです。
ずればかりがやたら目につく。だから、顔や姿は目に入らないと言うべきかもしれません。映っている人を卒業したという優越感と、それがちょっと前の自分だったという屈辱感のあいだで揺れるとも言えるでしょう。要するに、ちょっと前の自分は恥ずかしいと同時に憎い。ちょっと若いから小憎らしい。つまり、ライバルなのです。
免許証とか証明書の写真が好例です。恥ずかしさと屈辱だけが映っている。だから正視できないし正視に耐えない。これは、ずれがダイレクトに襲ってくるからではないでしょうか。恥ずかしさと悔しさ、つまりずれを感じとるだけの余裕ができているとも言える気がします。
昔の写真とか子どもの頃の写真だと、ずれをもろに受け入れる余裕ができているから、見ていてもそれほど恥ずかしくはないし憎らしくもないし悔しくもない。むしろ、懐かしくて見入ることがある。
もはや、他人となった自分。まあ、かわいい。この子、誰? なんてぐあいに天使を見る人もいます。我が子や甥っ子や姪っ子や孫を見るのに似ています。似ているけど、自分ではない誰か。いまの自分以外に自分はいないはずなのに、自分がそこに映っている――。
*
人は鏡や鏡に似たものに取り憑かれているとしか思えません。
鏡に我が身を映し、どんなに頑張ってみたところで、しょせん鏡像は幻でしかない。鏡に映った像と、実像あるいは実物とは似ているが、同じではありません。鏡像を見て我が身を知ろうというのは、冷静に考えれば正気の沙汰ではない気もします。
絵や写真や映画や動画は、鏡に似ています。人はそれらを前にして、鏡に面するのと同じ反応をします。見る、見入る、かんがえこむ、かんがみる。ただ見るだけではないということですね。物思いにふけったり、考えるのです。
*
絵、写真、映画、動画は、実は自分を映すためのものではないでしょうか。世界は自分に似たもので満ちているから、風景を描いても撮っても、人以外の生き物を描いて撮っても、他人を描いても撮っても、そこに描かれている映っているものは自分なのです。広義の自分。複数形の自分。おそらく赤ん坊にとっての「自分」と同じ。
人は自分に似たものを目にすると、幼児返りや赤ちゃん返りをする。たぶん、ごく短い間だけ、またはとぎれとぎれに。人はいくつになっても、まばらな幼児、まだら状の赤ん坊なのです。私は赤ちゃんを卒業した人に会ったことはありません。誰もが卒業しないで終わるのです。中退と言うのでしょうか。
*
鏡の前で、人は普通ではない精神状態になります。簡単に言うと、緊張してびびるのです。恐怖でおののくと言えば、言い過ぎでしょうが、それに近い気がします。
鏡を前にして、人はびびるしかない――。
したがって、鏡の前の人は見ているのではありません。ビビっているのです。だから自分が見えないのです。見えていると思っているだけです。見えていない自分なんて気味が悪くて受け入れられないということでしょう。そんな荒唐無稽な、つまり馬鹿な話は拒否してしまうのです。
こういうことはよくあります。人が自分を守るために備わった習性だと思われます。錯覚や自己暗示を利用して、メンタルが受けるダメージを阻止するのです。
*
鏡、絵、写真、動画がどんどん増えていく。人が真似てつくり、複製するから、当然のこと。鏡は自然に増えるわけがない。人がつくる。
つくるだけはない。似せて、真似てつくる。何に似せ、何を真似るのかといえば、鏡。鏡に似せて、鏡を真似て、つくる。どんどんつくる。
世界は鏡に満ち満ちている。人は、ふだんは、それに気づかない。意識しない。だから、よけいに増えていく。
言葉も鏡。人も鏡。人は自分に似たものを真似てどんどんつくっていく。
*
人はそこにはないものを見ます。鏡、絵、写真、動画が、そうです。見えないはずのものを見ることもあります。可視化とか見える化なんて手品を発明したりもします(手品ですから種はあります)。
見えないものを見るのですから、人は見えているはずのものを見ていないことがあっても不思議ではない気がします。
顔*
朝起きると見知らぬ顔が鏡の中にいた。二十年前のことだ。誰にも言わなかったのは、誰も気づいていないみたいだったからだ。家族も学校でも。
翌日の午後学校から帰る途中に、私を追い抜いていったバスの一番後ろの窓から見ていた私の顔と目が合った。私たちは互いに目を見開き、口を手で被った。私は心の中でその顔にさようならと言った。
考えないように生きるのには慣れたつもりだが、一日に何度かは思い出すし、しばらく頭から離れないこともある。夫にも子どもたちにも言えるわけがない。生きていくためには心にしまっていたほうがいいものがある。
私に支えがあるとすれば、誰もが言えない秘密を抱えているという確信だ。そう信じているから深い孤独に耐えることができる。かろうじて笑顔にもなれる。
*
初めて目にする影、初めて見る鏡、初めて覗くカメラのファインダー、初めて見る写真――。思いつくままに並べたフレーズですが、どれもが「うつる」と関係あります。影に映る、鏡に映る、ファインダー越しの眼に映る、写真に写る。
こうした行為や身振りを個人レベルで初めて体験するさまを想像するとわくわくどころか、ぞくぞくしてきませんか? 自分の記憶の中の、そうした場面を思いだしてみてください。と言われても、なかなか覚えていませんよね。
*
人類のレベルで空想してみましょう。
初めて目にする影、初めて見る鏡、初めて覗くカメラのファインダー、初めて見る写真。影に映る、鏡に映る、ファインダー越しの眼に映る、写真に写る。
こうした身振りや行為を人類というレベルで初めて体験したさまを想像すると、これまた気が遠くなりそうです。不思議だったでしょうね。たまげたにちがいありません。
初めての鏡なんて、雨のあとの水たまりとか川とか湖の水面だったのではないでしょうか。水面に映った自分の姿を覗きこんだナルキッソスの話を思いだします。エーコー(エコー)の話もありましたね。こだまは、木霊、木魂、谺ですが、これも音声が遠くへとうつるわけです。
「うつる」には距離がともないます。その距離は空間的であったり時間的なものでしょう。そう考えると「うつる」は、「つたわる」「つたえる」に近そうですね。
*
「うつる」の漢字をまじえた表記には自信がありません。辞書や用字辞典で確かめながら書きますが、例文が同じだったりして、自分の書きたい文でどちらをつかったらいいのか、迷うことがよくあります。とくに「映る」と「写る」は迷います。
「にやけた顔で写っている」「裏のページの絵が写って読みにくい」「鏡に映った顔」「障子に映る人影」なんて複数の辞書やネット辞書でも見かける例です。孫引きというやつですね。辞書の例文や語義は、伝染んです。
きょとんとなさっている、お若いあなた、「うつるんです」と読んでください。とってもシュールで味わいのある漫画です。
うつる、写る、映る、移る、遷る、伝染る、流行る、孫引る、引用る、模倣る、写本る、写経る、印刷る、翻訳る、映画る、写真る、複製る、放送る、網路る、偽造る、剽窃る、盗作る、広告る、宣伝る、布教る、革命る――。こうしたものは、ぜんぶ、うつるんです。ですから、ぜんぶ「うつる」と読んでください。よくご覧ください。人類の歴史そのものでもあります。
*
初めて写す、初めて写る、初めて映す、初めて映る、初めて移す、初めて移る――。いま挙げたフレーズですが、英語に翻訳することができるでしょうか。その多義性のニュアンスや語感まで置き換えることが可能かという意味です。
文字どおり訳す(やけっぱちでしょう)、訳文に註を付けて説明する、説明を訳した文章に織りこむ、といった方法が考えられます。いずれにしても語感まで「うつす」のは至難の業です。そんなの、できっこありませんって。
言葉をうつすことは難しいです。思いをうつすことも難しいです。現実界において物理的にうつすのも不可能だらけにちがいありません。でも、そうやって人類はここまで来たのです。写本と印刷術と翻訳と学習にどれだけ負っているか(そして妄想と空想と錯覚と思いこみにも、です)。
何がって文明とか文化のことです――。うつるんです。人類のいとなみの底には、この身振りがあるようです。
顔
人のつくるものは人に似ているとよく言われますが、たしかに人に似せてつくっているとしか思えないものがあります。
器、スプーン、箸、椅子、寝台、座布団。手袋、シャツ、ズボン、靴下、ストッキング、衣服。
丸みを帯びたやかんの注ぎ口を見ていて、どきりとすることがありませんか? どことは言いませんが、人体のどこかに似ているんです。私なんか、ソファに体を沈めると懐かしさで涙ぐむことがあります。誰かを思いだしているのでしょうね。ソファは人に似ています。
*
人のつくるものは人に似ていると実感できるのは、何といっても、ホームセンターや電気製品の量販店です。店内に入ると、たちまち人に似ているものに囲まれます。
お茶わん、湯飲み、箸、スプーン、フォークといった「食」に関係のある物たち。椅子、テーブル、机、布団、ベッド、枕などの広義の「住」関連の物たち。そして、シャツ、上着、ズボン、スカート、下着、手袋、帽子といった「衣」に関する物たち。
こうした物たちを観察すると人に似ているなあと感動してしまいます。
なかでも、手袋なんて、手と激似です。湯飲みなんて、開いた口です。開いた口がふさがりません。椅子やソファやベッドを見ていると、四つん這いになった人に見えます。こうやってこじつけているうちに既視感を覚えて、何だろうと思ったのですが、被害妄想にそっくりな心もちがします。
そう考えるとそういうふうに見えてくるところが、似ているのです。
似ているは、比喩と同じで、似ているから出発するだけでなく、似ているという暗示から生まれることも大いにある気がします。「似ている」は知覚からだけではなく、想像からも生まれるとも言えるでしょう。
「似ている」は増える。エスカレートするのです。
*
似たような話ばかりしてごめんなさい。やっぱり似てくるんです。テーマに文章が似てくる、つまり擬態することはよくあります。しかも、「似ている」は増えます。いまそんなふうに書いていますが、実感していただいていますか?
シンクロですか? そんな洒落た言い方は私には似合いません。同期ですか? それをつかうと賢そうに聞こえますけど、私は「似ている」が「増える」でじゅうぶんです。
*
器類は、水をすくう時の片手あるいは両手の形に似ています。口をつける湯飲みやグラスには、口があります。やかんや急須の注ぎ口と管の部分は、人の食道の延長に見えてきます。
そもそも人の体は管だというレトリックを見聞きします。単純化すると、口から飲み食いした物が肛門や尿道から出て行くという消化器系を重視した比喩になりますね。食道、胃、腸という流れがあり、流れる場が管というイメージです。
循環器系だと液体が流れる血管やリンパ管があり、呼吸器系だと鼻から始まって気管と気管支という流れになるようです。気体が流れる管というイメージでしょうか。ストローやホースや笛みたい。
箸やフォークは指に似ています。椅子には背も足=脚もあります。ふっくらとした座布団の感触は、どこかお尻に似ています。衣類は、体に当てるわけですから、とうぜん、その当てる部分にそっくりにつくられています。
*
さらに、こじつけをするなら、自動車なんて正面から見ると、顔に見えてしかたがない方、いらっしゃいませんか? これこそまさに「人工の人面〇〇」です。人面魚や人面岩を見て、うわーっと驚くだけではなく、自分でつくった物を見て、うわーっとびっくりするわけですから滑稽な感じもします。
機関車や電車と言った乗り物も、そうですね。正面から見ると、表情をそなえた顔に見えます。あの不気味にも見えないこともないトーマス君なんて、とても分かりやすいイメージです。
テレビもそうですね。というか、そうでしたね。テレビ時代の初期には、受像機の上部にウサギちゃんのお耳みたいなアンテナが付いていたのをテレビで見たことがあります。
あと、こじつけると、銃なんて男性器に似てませんか? 水鉄砲はもちろんのこと。ロケットもそうかな。
その他に、人や人の身体のある部分に似たものを挙げるなら、口を開けたポスト、長針と短針が表情を刻々と変えるアナログ時計、先端に毛のついた歯ブラシ、鉛筆やペン(どういうこっちゃ)、チューブ入りのケチャップやマヨネーズ(ぐにゅっと出てくるさまを思い浮かべてください)、ケータイ、ゲーム機のコントローラー、ガラス張りのパチンコ台……。こじつけが、だんだん苦しくなってきましたね。
被害妄想と同じで、あれもこれもと人や人の一部と似ているものを感じるのは、つらいものがあります。そうやって見なければならないような義務感を覚えるようになるのです。誰に頼まれたわけでもないのに、です。
*
まるで擬人化地獄ですが、このオブセッションを克服するには、人でなしになるか人外境に逃れるしかないのかもしれません。
ヒトは太古から首尾一貫して擬人を基本とする呪術の世界に生きているのです。二十一世紀の四分の一を越そうとしている(越せるのでしょうか?)、現在も。
ところで、あなたは大切な人の写真を踏んづけたりハサミで切り刻めますか? 私にはできません。大切な人の名前さえ無理です。
自分は擬人を基本とする呪術の世界に生きている、と私は胸を張って言えます。
顔*
荒唐無稽な夢。荒唐無稽な想像。根拠のない空想。
たとえば、人は椅子をつくったために、椅子に合わせて腰かけるようになった。
物だけではない。たとえば、映画をつくったために、映画のような夢を見たり、空想をするようになった。
棺桶をつくったために、棺桶に合わせて埋葬するようになった。冷蔵庫をつくったために、冷蔵庫に合うようなものを食べるようになった。パソコンをつくったために、パソコンの従者や下僕になった。スマホをつくったために、スマホに嗜癖しスマホに合わせて生活するようになった。
それだけではない。
大量生産されたそっくりなものを使う人間は、地球のあちこちで同じ仕草同じ動作をするようになる。そっくりがそっくりを生む。そっくりをそっくりが真似る。シンクロ、同期、似ている、激似、酷似、そっくり、同じ。
*
つくったものに似せる、つくったものに似てくる。うつったものに似せる、うつったものに似てくる。ミメーシス、模倣、描写。
うつす、写す。似せる、真似る。かたる、語る、騙る。つたえる、伝える、つぐ、継ぐ、次ぐ、告ぐ、接ぐ。まねる、真似る、ふりをする、振りをする、えんじる、演じる。
*
もしもの話。戯れ言。
言語を習得させ、海を見せて、海を描写するように指示する。海についてのパーツである、波、浜、砂浜、沖、岩、砂、石、水、海水、大波、小波、しけ、なぎ、太陽、夕陽、朝日、雨、風、カモメ、魚、貝、流氷……といった言葉を覚えさせた上で。器用な人なら作文を書くだろう。お手本なしで。
絵の具と筆と鉛筆と紙を与えて、海を見せて、海を描くように指示する。器用な人なら描き始めるだろう。お手本なしで。
果たしてそんなに単純な話なのか。天才なら、書けるし描ける――そんな適当な話なのか。天才という魔法の言葉で思考停止と思考放棄をしているだけではないのか。
*
戯れ言のつづき。
お手本を見せたとする。さらには筆記具の使い方と書き方、画材の使い方と描き方を教える。大切なことは、たくさんのお手本、つまり文章や作品を読ませ、たくさんの絵を見せること。真似させること。たぶん、真似ることで、めきめき作文力がつき、絵の才能が伸びるのではないか。
*
言葉も絵も外から来るもの。借り物。だからこそ、真似る対象になり、真似ることで熟達する。もちろん才能もあるだろう。大切なのは、真似ること。まねる、まねぶ、まなぶ。
独創ではなく、引用と模倣と反復と変奏が芸術の実相ではないか。それにしてもオリジナリティ神話は強い。信仰ではないか。ないもの力は強い。ないからこそ強く信じる。
顔**
荒唐無稽な想像。荒唐無稽な夢。
人が物語を真似る、物語に似せる、物語に似る、物語に成りきる、物語に成る。
人が書物を真似る、書物に似せる、書物に似る、書物に成りきる、書物に成る。
人が演劇を真似る、演劇に似せる、演劇に似る、演劇に成りきる、演劇に成る。
*
写字、写経、写本、書写、筆写。書、書道、カリグラフィー。
書物や文字を写す職業。筆耕、写字生、写経生、スクライブ。
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言葉と言葉によってつくられている知の総体を信じ、その身振りを模倣し、言葉と知になりきろうとした二人の写す人(写字生・筆耕)についてのお話。
フロベール(フローベール)作『ブヴァールとペキュシェ』。
これほど表象に対しての深い洞察に満ちた私は小説を知らない。とはいえ、この作品の翻訳を、私は眺めたと言うより、ちらりと見ただけ。「読んだ」とか「読了した」は言葉の綾。
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ボルヘス作『『ドン・キホーテ』の著者、ピエール・メナール』なんてややこしい小説まであるらしい。あらすじは読んだことがあるが、作品を読んだことはない。これから読むこともないだろう。
死ぬほど退屈するに決まっている。退屈な作品を書き写して退屈して死ぬのはごめんだ。まだお経を写すほうがましかもしれない。
顔***
荒唐無稽で根拠なしの空想。馬鹿馬鹿しくてがっかりするしかないような話。
似せてつくったものに似せる、真似てつくったものを真似る。馬鹿馬鹿しい、馬鹿も休み休み言え、と言いたくなるような話。
そもそも物語は人がつくったもの。現実なり空想なりを見聞きして、それを「あたかも目の前にあるように」語るのが、物語。
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物語を模倣する人間についての小説。『ドン・キホーテ』。私にとってはちらりと見ただけで、あらすじしか覚えていない小説。読んだなんて言う勇気は私にはない。
物語というジャンルについての復習、小説というジャンルの予習。まさか、小説を壊しているのではないか。できたばかりのジャンルが既に壊れかけている。
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物語と小説をまねて、まがい、まげた作品を、さらにまねて、まがい、まげた作品。『トリストラム・シャンディ』。
この作品をまねる、あるいは無意識にまねることとなる来たるべき作品たち。まがい、まがるしかないのが小説というジャンルの運命であるかのように。似せるもの、似せもの、偽物。
とはいえ、読み物でもある。読み物は読み物を模倣して、書き継がれる。
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小説を模倣する人間についての小説。小説と現実を混同してしまう人間についての小説。『ボヴァリー夫人』。
小説というジャンルの始まりと洗練。律儀と愚鈍が同義であると誰かに見破られることになる。
小説を模倣するボヴァリーを人は笑えるだろか。映画を、テレビドラマを、CMを、アニメを、(演じる)俳優を、ストーリーを、ドラマを、キャラクターを、出来事を、事件を、報道を、ディスプレーに映った像やテキストを真似て、引用し、似せて、なりきる私たちは、そっくりな身振りをしていないだろうか。
ボバリズムとは、私たちのことではないか。
フロベールが「ボヴァリー夫人は私だ」と言ったという神話があるが、そう口にすべきなのは、私たち一人ひとりではないのか。ボヴァリー夫人は私たちなのだ。
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恋に恋する人間。物語にかたられてしまう人間。小説の登場人物と自分を同一視する人間。
小説や物語を、映画や演劇やテレビドラマやゲームに置き換えても事情はそれほど変わらないのではないか。あるいは、歴史や神話や信仰や哲学や生き方に置き換えても事態はそれほど変わらないのではないか。
仮に、政治や社会現象を、世界や国家や地域を舞台とした、物語や劇としてとらえるとすれば、これまた事情も事態も同じなのではないだろうか。
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登場人物と読者、演じる者と観客、舞台に立つ者とそれを眺める一般人。
人は観客や読者であることを忘れて自分が主人公だと思い込む。そうした観劇の仕方や読み方を否定するのではない。そもそも否定できるたぐいの問題ではない。
どんな子どもでも、読み聞かされた話に自分を重ねる。それがフィクションというものの仕組み。
観るとは、聞くとは、読むとは、そういうことなのだろう。そうした事態に自覚的であるかどうかは、趣味や気質や、その時の気分の問題なのかもしれない。
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荒唐無稽で根拠なしの空想。馬鹿馬鹿しくてがっかりするしかないような話。
似せてつくったものに似せる、真似てつくったものを真似る。馬鹿馬鹿しい、馬鹿も休み休み言え、と言いたくなるような話。
そもそも物語は人がつくったもの。現実なり空想なりを見聞きして、それを「あたかも目の前にあるように」語るのが、物語。
顔**
*うつったものに似せる、うつったものに似てくる
鏡を見る。鏡に見入るのは、誰でも毎日やっていそうなこと。そこに映っているのは自分だと疑わない。人前に出て恥ずかしくない顔と格好をしているか確かめる。お化粧をする。身だしなみを整える。
それだけなのか? 本当に、そんなふうに単純なものなのだろか? 世の中には、変なことを考える人がいる。変なことを書く人がいる。小説にまで書く人がいる。変だから書くのか。変だから小説なんて書くのだろうか? 人が小説に似る。小説が人に似る。
人のつくるものは人に似ている。やがて、人は自分のつくるものにだんだん似ていく。
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かがみ、鏡、かんがみる、鑑みる。見入る、魅入る、見入られる、魅入られる。ミイラ取りがミイラになる。うつる、映る、移る、入る
鏡の中に入る。そんな小説がある。『鏡の国のアリス』。
鏡の中に入る前に言葉という鏡に魅入る。言葉はかがみ、屈み、鏡、鑑。
かがみ、しなり、おれる。屈折、reflection、inflection。
写真術のパイオニアだったルイス・キャロル。数学者・論理学者でもあったルイス・キャロル。その符合と屈折ぶりはただ事ではない。
ちなみに、英語の figure には、「姿・人影」と「数字・計算」と「言葉の綾・比喩」という語義がある。この符号と屈折ぶりもただ事ではない。
*向こうへと落ちていく
水面に映った自分の姿を見る。鏡を見る。かがみ、かがむ、うつる、映る、写る、移る。
おちる、落ちる。墜ちる、堕ちる。
鏡像。姿。反射。自分のようで自分ではない。自分そっくり。自分に似ている。自分ではない。自分とちがう。
こっち、むこう。ここ、あっち。ここ、かなた・あなた・彼方・貴方。
水面、鏡の恐ろしさ。死へといざなう鏡、水面。おちる、落ちる、堕ちる、墜ちる。
落ちていく、向こうへと落ちていく。下へではなく、彼方へと落ちていく。空へと墜ちていく。天へと堕ちていく。
声がうつる、映る、写る、移る、遷る。響く、こだま、木霊、谺、エコー、空気の振動、音、音響、波。
録音、レコード、蓄音機、拡声器、マイクロホン、スピーカー、再生、再現、再演、反復、模倣。
ナルキッソス、エーコー、木霊、『ドリアン・グレイの肖像』。
*似る、似せる、成りかわる
似た小説や映画には事欠かない。ある小説を読んでいて、あるいは映画を観ていて、あれっというふうに既視感を覚えることは多い。前にも読んだことがあるような話、見たことがあるような身振りや行動、聞いたことのあるような科白、聞いた記憶のあるメロディー。
他人の家に入る。その家にある服を着る。物を食べる。座る、歩く、その辺にある本を読む、トイレに入る。その時、入った客は、その家の主を真似ることになる。
似た話、似た光景、そっくり、デジャビュの洪水。軽い目まいすら覚える。
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似ている、似せる、似る、成りかわる、成る。
誰かに似ている。その誰かに似せるように努力し、その結果似る。それだけでは済まない。その人物に成りかわるのだ。そしてついにその人に成る。お察しの通り、これはサスペンスであり犯罪小説。怖い話。
そんな小説がある。小説とは異なる部分もあるが映画にもなっている。パトリシア・ハイスミス作の『太陽がいっぱい』。
以下は、私の大好きなシーンが編集されている珍しい動画。何度見たか、わからない。人が人になるのは文字になるとき(2:41~)。
この小説にはそっくりな邦訳(翻訳だから似て当然)が二種類あり、映画化された作品も二種類ある。「似ている」や「そっくり」や「既視感」を楽しみたい人――そんな人がいるのか? ここにいるけど――には堪らない話。
続編に『贋作』や『リプリーをまねた少年』がある。これまた目まいのするような話。目まいのする読書の好きな方にお薦めしたい。
顔*
文学も芸術も映画もスポーツも「似ている」に満ち満ちている。世界は「似ている」に満ち満ちている。
何かを真似て似たものをつくり始めたのはいいが、人はそのつくったものに似たものをどんどんつくることを無意識に覚え、その結果、複製文化どころか、複製文明と大量生産文明を築き上げ、今日にいたるのではないか。
似ているの増殖、似ているの自動生産、大量生産。どうにもとまらない状態。そして世界はどんどん暖かく暑くなっていく。
とはいえ、誰も目まいを起こしたくないから、「似ている」ことには目を向けないし、耳を傾けないでいる。「似ている」や「そっくり」とは、ほどほどのお付き合いをするべきということか。
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「似ている」と「そっくり」――。何かに似ている、そっくりだと思い、何だろう何だろうと考えていて、文学も芸術も映画もスポーツ、複製文明と大量生産文明、大量生産と思いをめぐらしていて、はっとする。
「似ている」と「そっくり」は、お金に似ているし、そっくりなのだ。そして、その身振りは人に似ている、そっくりなのだ。
もし地球外生命体が、地球を見たとするなら、人はあちこちで同じ仕草と動作と表情を演じているように感じるのではないかと思えるくらい、そっくり。多量のさまざまなそっくりを生みだし、そのそっくりとそっくりな身振りを演じている。
自己引用、自己擬態、自己形態模写。ひょっとすると地球外生命体は笑ってしまうかもしれない。ギャグとしか思えなくて。
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究極の「似ている」と「そっくり」は紙幣、つまりお金。お金は「似ている」どころか「そっくり」どころか、「同じ・同一」に限りなく近くなければならない。精巧をきわめる。偽造を防ぐため。
ほぼ「同一」だから、計器によって計測可能。人の知覚だけでは真偽は判断できない。
お金は何に似ているのか? 数字ではないか。抽象度マックスな数字。似ているやそっくりの世界ではなく、同じ・同一の世界。
数字と同じく抽象だから、何にでもかえられる、換えられる、変えられる。こんな便利ですごいものはない。素晴らしいものをつくったものだ。だから、どんどん刷る。
真似てつくる。そっくりにつくる。間違いは許されない。似ていなかったらアウト。下手すると犯罪、いや下手しなくても立派な犯罪。
本物のお金をどんどん刷らなければならない、鋳造しなければならない。印刷機や鋳造機でどんどん刷る。究極の精巧さで複写し複製し、大量生産する。
刷ることができるのは一部の人だけ。政府だけ。正確に言えば、政府の銀行と造幣局だけ。こども銀行券は、こどもだけに許されているわけでもなさそう。
そっくりの本物がどんどん増えていく。実体なんて関係ない。人は存在しないもので動く。おとなのやることはほんまもんやからこわいわ。どんどん増やす、ついでに殖やす。実体はなくてかまわない。そんなところも数字と激似。
私には、印刷されていく紙幣のありようが人の身振りに見えてならない。
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電子マネー、ポイント、スマホ決済。
記号と化したお金、マネー、紙幣。触ることも見ることも匂いもしない記号。似ているやそっくりのない、おそらく同じや同一もない世界。
虚ろな記号。似ているやそっくりのない記号。実体のない、ふえる増える殖える。
ふえるという身振りだけが空転する。「人は存在しないもので動く」の進化であり洗練なのか? その新たな展開なのか? あるいは、その枠内での展開にすぎないのか?
紙幣のない印刷機、硬貨のない鋳造機。機械の音だけがむなしく響く工場。
何だろう?
何かに似ている気がするが、何に似ているのか、思いつかない。ひょっとすると、何にも似ていないのかもしれない。似ているが空転する。なぞるをなぞっている。なぞをなぞっている。
なぞるをひたすらなぞる、空(くう)をなぞるというのは、人の身振りそのものではないか。人はなぞるをつくりだし、それを無自覚かつ無意識に模倣しているのではないか。こんな荒唐無稽な空転が永遠に続くはずがない。ギャグは人の消滅とともに終わるはず。
顔
朝起きると見知らぬ顔が鏡の中にいた。二十年前のことだ。誰にも言わなかったのは、誰も気づいていないみたいだったからだ。家族も学校でも。
翌日の午後学校から帰る途中に、私を追い抜いていったバスの一番後ろの窓から見ていた私の顔と目が合った。私たちは互いに目を見開き、口を手で被った。私は心の中でその顔にさようならと言った。
考えないように生きるのには慣れたつもりだが、一日に何度かは思い出すし、しばらく頭から離れないこともある。夫にも子どもたちにも言えるわけがない。生きていくためには心にしまっていたほうがいいものがある。
私に支えがあるとすれば、誰もが言えない秘密を抱えているという確信だ。そう信じているから深い孤独に耐えることができる。かろうじて笑顔にもなれる。
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お付き合いいただき、どうもありがとうございました。
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