「同じ」に憧れる「似ている」
今回は「文字を書いてもらう」と「複製としての文字」という記事の続きですが、その二つを読まなくてもいいように、以下にまとめます。
*二つの記事のまとめ
まず、「文字を書いてもらう」でお話ししたことを箇条書きにまとめてみましょう。
・機械は「同じかどうか」を基本とする「はかる」世界にいる複製である。だから、杓子定規に作動する。
・人は「似ている」を基本とする印象の世界で生きている。だから、適当であり、いい加減である。
*
続きの「複製としての文字」では、次のようなことを書きました。
「同じ」かどうかの世界は、「似ている」を基本とする印象の世界にいる私たちはなかなか体感しにくいものです。
でも、たとえば、ある文字列が「フェイクかどうか」を機械やシステムに検索させることで体感できます。
"マカロニ"
"マ力口二"(フェイク)
"カフカ"
"力フ力"(フェイク)
上の文字列のペアをネットで検索する、つまり「同じか」どうかの判断を機械やシステムに外部委託(外注)すれば、ちゃんと正しく判断してくれるのです。
*「同じ」に憧れ、崇め、ひれ伏す
今回は、私たち人間、つまり、
「似ている」を基本とする印象やイメージの世界で生きているために、適当であり、いい加減である――私たち人間が、
「同じかどうか」を基本とする「はかる」世界にいるために、杓子定規に作動する――機械やシステム、
だけでなく、
自分は適当であり、いい加減であるくせに、杓子定規に作動する――機械やシステムの振りをした人間に、
憧れたり、崇めたり、ひれ伏したりする、
というお話をします。
*
別に複雑であったり、ややこしかったりする話ではありません。身のまわりを見れば、また、この国をはじめ、世界のニュースを見れば、パッとわかるたぐいの話なのです。
また、胸に手を当てれば、「そう言えば……」なんて感じでわかるかもしれません。
とはいえ、人それぞれなのは言うまでもありません。
*言葉転がしと言葉のあやとり
私は言葉を転がすのが好きです。言葉の綾取り(あやとり)も好物です。
具体的にやってみます。
あやまっても、あやまらない。
誤っても、謝らない。
機械は、あやまっても、あやまらない物である。
人には、あやまっても、あやまらない者がいる。
人は、あやまっても、あやまらないもの(物・者)に、憧れる。
人は、あやまっても、あやまらないもの(物・者)を、崇め奉り、それにひれ伏す。
*
機械は、あやまっても、あやまらない物である。
人には、あやまっても、あやまらない者がいる。
機械はそのようにつくってあるのですから致し方ないにしても、人の場合には、一部にそういう人がいるということですから、致し方ないでは済ませられる話ではないと思います。
人が機械やシステムを装っている、振りをしている、化けているのですから。要するに、「同じ」に憧れる「似ている」はフェイクなのです。
*
あやまったらあやまる、これが人間ではないでしょうか。あやまった責任を負う、場合によっては、罪をつぐなうべきなのです。
あやまっても、あやまらないどころか、あやまってもあやまっていない。
誤っても謝らないどころか、謝っても謝っていない。
振りをするだけが激増していませんか? これが現在最大の問題かもしれません。
いずれにせよ、人は誤ったら謝るべき。
誤っても謝らない物の振りをしてはならない。
謝っても謝っていない振りをするのは人だけ。
*
「誤っても謝らない」というのは、ブレないことです。ブレない、振れない、揺れない、迷わない。
誤ったけれど「誤った」とは言えないし、まして誤ったことを認めて謝ることができない。ブレるわけにはいかない。
こうした状況におちいって困るのは、人の上に立つ人でしょう。
*
人が二人以上になると、必ず上下関係が生まれます。
パートナー同士、友だち同士、きょうだい、親子、家族、学校、職場、自治体、共同体、政府、国家、地域。
どの集団であっても、上に立つリーダーであれば、やたらむやみにブレるわけにはいきません。
*
誤っても謝らない。謝らないというよりも謝るわけにはいかない。
ぜったいにブレない。ブレないというよりもブレるわけにはいかない。
こうした立場にいる人は、どの集団にもいます。でも、ブレないは程度問題でしょう。ちょっとくらいのブレは許されるものです。
でも、文字どおり、ぜったいにブレることができない人がいます。
*
どんな人でしょう?
そうです。お察しのとおり、独裁者や独裁体制です。たった一人、そしてその取り巻きが牛耳る、組織、団体、自治体、共同体、国家、地域です。
*
「黒いカラスは白いサギである」
「御意」、「おっしゃるとおりです」、「至言でございます」、「そういえば、以前もそうおっしゃっていましたね」、「異議なし」
*
独裁者が、「黒いカラスは白いサギだ」と口にすれば、黒いカラスは白いサギになります。
いったん、リーダーが口にした以上、ブレるわけはいきません。誰がって、リーダー以外の人たちが、です。
リーダーはブレない。そのリーダーの言葉に人びとが付きあわされるわけです。
こんなことをしていると、もちろん矛盾が起きます。
そういうときには、「黒いカラスは白いサギだ」という言葉の辻褄を合わせる、つまり言葉をいじって取りつくろうのに長けた人たちが必要になります。
この人たちが、ぜったいにブレない、というか、ぜったいにブレることのできないリーダーのブレーンになるという意味です。
言葉のスペシャリストですから、黒を白と言いくるめたり、白を黒と言いくるめたり、サギをカラスと言いくるめたり、カラスをサギと言いくるめたりするなんて、お茶の子さいさいなのです。
もちろん、リーダーが「誤っても謝らない」のは、そもそもリーダーは「誤っても誤らない」からだ、なんてことになります。
あやまってもあやまらないのは、あやまってもあやまらないからだ――。
しかも、絶対権力(人を合法的にあやめる権利さえ持っています)の後ろ盾がありますから、言いくるめる前に、人びとが自主的に気を使ってくれます。いわゆる忖度です。
こうなると楽です。忖度こそが独裁のオートメーション化(自動化)であり、つまりは完成形なのです。
気をつけましょう。
*
あやまっても、あやまらない。
あやめても、あやまらない。
*ブレない、ブレないに付き合う
ぜったいにブレることができないリーダーがトップにいる社会は、迷えない社会、つまり振れたり揺れたりブレることができない社会になるという、恐ろしい皮肉があります。
そこでは、人は指示(絶対的な命令のことです)どおりにブレない機械の一部にならなければなりません。
私たちは「同じ」ではなく「似ている」し「まちまち」である、つまり「一人ひとりが違っている」と私は言いたいです。⇒「はからずもはかられる、はからずにはかられる」
*
では、まとめます。
*
「黒いカラスは白いサギである」
「御意」、「おっしゃるとおりです」、「異議なし」
これは、まだましです。
*
「黒いカラスは白いサギである」
「御意」、「おっしゃるとおりです」、「異議なし」
こうなったら、おしまいです。
「異議なし」が文字通りの「異議なし」、つまり「異義なし」になります。ブレないのです。
*関連記事
くさっていると、さらにくさる、という話について書いてあります。
私たちが(ふてくされて)くさっていると、あの人たちがさらにくさる、という意味です。
#この経験に学べ #多様性を考える #忖度 #独裁 #辻褄 #権力 #リーダー #上下関係 #映画 #チャールズ・チャップリン #独裁者 #モダン・タイムス #言葉転がし #言葉のあやとり