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ジャンルを壊す、ジャンルを崩す(言葉とイメージ・07)

 今回は、以下の記事の続きです。

「こわれる・くずれる(文字とイメージ・05)」
「壊れる、崩れる(文字とイメージ・06)」 

     *

 小説でも、詩でも、絵画でも、音楽でも、映画でも、芸でも、あるいはスポーツでも、何でもかまいません。そのジャンルを壊したり、崩すということがあるのではないでしょうか?

 これまでに、そうした「壊す」や「崩す」が起きてこなかったでしょうか? そうした傾向や運動が見られなかったでしょうか? 

 個人が、あるいは集団が、または集団はつくらなくても複数の人たちが、壊したり、崩そうと試みたことがあったのではないでしょうか?


*壊す、崩れる


 壊す、壊れる
 崩す、崩れる

 壊す<壊れる<崩す<崩れる
 壊す<崩す<壊れる<崩れる

「壊す」と「崩れる」は遠いというイメージが私にはあります。両極にある気がしてなりません。

「壊す」が開始なら、「崩れる」は終了なのです。

*かたち、かた、かた(ち)

 
 言葉を転がしてみます。

 かたちを壊す
 かたちが崩れる

 かたを壊す
 かたが崩れる 

 かたちは見える
 かたは見えない

     *

・かた(ち)
・かたち、形、フォーム、ありよう、姿
・かた、型、スタイル、ルール、定型

 連想するのは、芸、学、プレイです。

 芸、芸術、芸道
 学、学問、学術
 プレイ、パフォーマンス

     *

 どんな芸術、学問、プレイにも、具体的に目に見える「形(フォーム)」があり、「形(フォーム)」を支えている抽象的な「型(スタイル)」があるように思います。

 形と型という言葉をいったん忘れて、フォーム、形式、ルール、スタイルという言葉で考えてみましょう。

*ルール、フォーム


 たとえば、スポーツや音楽にはフォームや形式やルールやスタイルがあると思います。

 ルールやフォームは、どうして、あるのでしょう?

 ルールなら「破る」ためにある、フォームなら「崩す」ためにあるのではないでしょうか?

 半分冗談はさておき(半分は本気です)、ルールは「守る」だけではなく、フォームなら「保つ」だけではないという気がします。

 ルールを守る、ルールを破る
 フォームを保つ、フォームを崩す

 現に、ルールもフォームも変化します。それが、そのジャンルの進化だと言えそうですし、実際、そう考えられることもあるようです。

 進化、進歩、発展
 改革、刷新、変化
 革命、破壊、崩壊

 今、上に挙げたものは、どんなジャンルや分野や組織にもあるのではないでしょうか。

 そうした要素や現象が見られないものは、保守と延命に走り、挙げ句の果てには腐敗するのではないでしょうか。

 保守、延命、腐敗

*分ける、別れる

 
 自分がなんらかの芸、学、プレイにかかわったり、熱中しているとします。

 芸、芸術、芸道
 学、学問、学術
 プレイ、パフォーマンス

 それぞれには、ジャンルがあり、派があるでしょう。人は「わける・分ける・別ける」ことが得意です。

 以下は、私が記事を書くさいによくつかう図式的なイメージです。

*わける:人が得意な行為。ヒトの歴史は「わける」の連続。分割、分離、別離、分断、分類、区別、差別、分岐、分別、分解、分節、分担、分裂、分配、分け前、身分、親分・子分。言葉と文字の基本的な身振りは「わける」。つかう道具は、縄と刃物とペン。線を引き、切り、しるす。

 どんな芸術、学問、プレイにも、次のような要素があるのではないでしょうか。

 分割、分離、別離、分断、分類、区別、差別、分岐、分別、分解、分節、分担、分裂、分配、分け前、身分、親分・子分。

「分ける、別れる」と「出会う、結ばれる」は、同義とは言いませんが、意外と近いのです。同時に、あるいは少しだけ間を置くだけで起きることも珍しくありません。

 新陳代謝とか再生とか再出発という形で、編成が起きるわけです。

 なんだかきな臭い話になってきたので、話を少し変えます。

*流れに沿う、流れに逆らう


 上の話がきな臭くなったのは、「分ける」と「別れる」という行動が、ジャンル、組織、団体に特有のものだからです。これは致し方ないと言えるでしょう。

 個人のレベルで考えてみましょう。

 自分がなんらかの芸、学、プレイにかかわったり、熱中しているとします。

 芸、芸術、芸道
 学、学問、学術
 プレイ、パフォーマンス

 芸術であれ、学問であれ、広義のプレイであれ、個人としてその活動に携わるときに経験するのは、揺らぎや迷いではないでしょうか。

 具体的に言うと、「流れに沿う」と「流れに逆らう」のあいだの揺らぎです。これは、次のような形を取ります。

 ルールを守る、ルールを破る
 フォームを保つ、フォームを崩す

 いちばん分かりやすいのはプレイ(play)です。 

・play、プレイ、演じる、演奏する、遊戯する、競技する、賭ける。
・play、プレイ、演技・芝居・上演・放映、演奏・旋律、遊戯・戯れ・ゲーム、競技・競争・パフォーマンス、賭け・博打。

 どんなプレイにも「身振り(動き)」があります。そしてその「身振り(動き)」には「フォーム(形)」と「ルール(型)」があるはずです。

 プレイにおけるキーワードは、「演じる」と「パフォーマンス」です。要するに、身体をもちいて、ある身振りや動作や振りをする、これがプレイにほかなりません。

 振りを演じる、振りを装う
 流れに沿う

・プレイ(身振り・動き)は、ルールや流れ、たとえば旋律とかコードやストーリーやシナリオといった、広義の筋書きのようなものに沿い従う。

・プレイヤー(演奏者や俳優や演技者や競技者や駒など)とプレイの場(舞台やステージやフィールドやグランドやフロアーやリングやマットや畳やボードやスクリーンやディスプレイ)で、プレイする。

     *

 どんな活動に携わっていても、迷いがあります。「このままでいいのか?」という迷いです。

 迷いは、プレイ(パフォーマンス)に揺らぎというかたちで現れます。

 ルールを守る or ルールを破る
 フォームを保つ or フォームを崩す

 その揺らぎが大きく振れると次のような衝動と行動が生まれます。

 ルールを守る ⇒ ルールを破る
 フォームを保つ ⇒ フォームを崩す

 衝動(衝き動かされること)は心の中の激しい動きです。行動は、衝動が実行に移されたとして起こります。

 やぶる、破る、壊す
 くずす、崩す

 ルールや型は目に見えない掟(おきて)ですから抽象的なものです。抽象論に走っていては、現状を打開することはできないでしょう。 

「このままでいいのか?」――これは、具体的なフォーム、つまり目に見える身振りを崩すことでしか、その切っ掛けをつくることはできないのではないでしょうか。

 文章で言えば、目の前にある文字と文字列です。それ以外の具体的なフォーム、形、身振りはありえません。

 型(かた)を破るためには、自分の持つ、自分に身に付いた形(かたち)を崩すしかないのです。

 今述べたことは、一人ひとりにおいて異なるはずです。何に携わっているか、何に熱中しているか、何に命を懸けているか――で異なるはずです。

*散文というジャンル


 私にはジャンルと言えるものがありません。強いて言えば散文でしょうか。

 散文は新しいジャンルであるとか、小説は文学史の中では新しい(novel=new)ジャンルである、という意味のことを言われることがあります。

 蓮實重彥による「散文は生まれたばかりのものである――『ボヴァリー夫人』のテクストに挿入された「余白」についての考察」という、雑誌「群像2024年3月号」の論考(講演の活字化)を思いだしますが、ここではその内容に立ち入る余裕がありません。

 この論考の中でもっとも刺激的だったpp.237-238から、次の箇所を引用するだけにとどめます。

「人は仕事にかかる前に起こっていたことを書くこと(あるいは描写すること)はいたしません。そうではなく、書くのは創作中に起きたこと(それはあらゆる意味においてです)であり、あらかじめの漠然とした意図と言葉との葛藤ではなく、それとは逆に、意図と言語の共生なのであり、それは少なくともわたくしにおいては、あらかじめの意図よりも遙かに豊富なものをもたらすのです」(1986, p.25)と引用した後、シャック・ネフによる『フランドルへの道』をめぐる美しい論文を引きながら、彼女は、クロード・シモンの「文体的な力の一つは、断片的なものの表現(構文的、語彙的、音韻的論的な)を持続性の網の目に包括するかどうかにかかっている」(p.59)と述べており、エルシュベール=ピエロは『フランドルへの道』の作者においても、散文のテクストというものが、「生まれたばかり」のものであるという現実を威厳に満ちたやり方で示しているのです。

 引用文で引用されているのは、「ノーベル文学賞受賞時におけるクロード・シモンの『ストックホルムでの演説』」の一節ですが、これは「傑出したフローベール研究者」である、アンヌ・エルシュベール=ピエロの著作『散文の文体論』からの引用という形を取っています。

「いま」目の前にある既に書かれた文字と、まだ文字が書かれていない空白と、これからも文字が書かれることがないかもしれない空白――この三つが創作中において「意図と言語の共生」が起きる具体的な場であり形なのではないでしょうか。

 その文字と二つの空白は、確定されたものではなく、始まりと途中と終わりのない「いまここ」(拙文「始まりと途中と終わりがないものに惹かれる」より)であり「いまここ」でもない、としか言いようのない、宙吊りされた動きと揺らぎの場であり形でもある気がします。

     *

 なお、「小説にあって物語にはないもの(文字について・03)」での以下の一節は、上記の蓮實重彥による論考を意識して書いたものです。

もし、たとえば小説において一行が空いていたとすれば、その空白を無視するべきではないと私は考えています。ある意味「空白」でもある、句読点の位置や有無についても同じです。

     *

 私は今では小説を書く体力も気力もありませんが、自由な形式という意味での散文は書いています。言葉を添えると、どんなことをどんな形で書いてもいいという意味で、散文は文字で書く作品の極北だ(最初から壊れているから崩しようがないのに、そうではないと考えられている)と私は考えています。

 とはいうものの、実際には金太郎飴のような散文しか書いていません。どこを切っても同じ顔をしている文章しか書けないのです。

 これは、自分の過去の文章を引用の引用のように、あるいは複製の複製のようにして継ぎ合わせて書いているからにほかなりません。

 たまに書き下ろしで書いていても、途中で既視感を覚えて、調べてみるとそっくり同じことを以前の文章に見つけて唖然とすることが頻繁にあります。すっかり忘れているのです。

 これは、正直言って恐ろしい体験です。年を取ると、この種の恐怖を実生活で日に何度も経験するのです。ひやりとします。

     *

 note で投稿している自分の記事が、過去の文章のコラージュやパッチワーク、つまりごった煮状態になっている。それが、今の私の書くものの形であり、同時に型になっているようだ――。

 こうした思いが強くあります。

 自分の「かた(ち)」を壊したり崩すどころか、壊れて崩れていく自分に追いつかれてしまう、と言えばおわかりいただけでしょうか。

 私は note では極力本音を言ったり弱音を吐かないようにしているのですが、今回はわりと素直に気持ちを出しました。

     *

 みなさん、おたがいに体を壊さないように、体調を崩さないように気をつけましょう。最後は言葉のあやとり(言葉の綾取り)ができたようで嬉しいです。

 ところで、こういう言葉のあやとりは一種のジャンルでしょうか? 自分がピン芸人であり、自分のやっている「あやとり」が一芸ではないかという思いはあります。


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