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客「である」、客「になる」、客「を演じる」(「物に立たれて」を読む・07)

「「物に立たれて」(「物に立たれて」を読む・01)」
「月、日(「物に立たれて」を読む・02)」
「日、月、明(「物に立たれて」を読む・03)」
「日記、日記体、小説(「物に立たれて」を読む・04)」
「「失調」で始まる小説(「物に立たれて」を読む・05)」
「転々とする、転がる、ころころ変わる(「物に立たれて」を読む・06)」

 古井由吉の『仮往生伝試文』にある「物に立たれて」という章を少しずつ読んでいきます。以下は古井由吉の作品の感想文などを集めたマガジンです。

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 引用にさいしては、古井由吉作の『仮往生伝試文』(講談社文芸文庫)を使用します。

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 まず、前回の記事をまとめます。

「十二月二日」の「日記」の前半では、段落で分けられる形で、三種類の「客」が出てきます。それぞれの「客」が指す人物が異なるのです。「客」⇒「客」⇒「客」とありながら、その中身が変わっている、移ろっている、転じていると言えるでしょう。「客」には「まろうど・客人」の意味がありますが、この作品の冒頭に出てくる「客」は、その中身が「転じる」ことで「まろぶ・転ぶ」に通じる身振りと動きを演じているかに見えます。転々とする、転がる、ころころ変わる、というイメージです。まるで、ここで用いられている「客」という「語と文字」が、その「意味とイメージ」に擬態しているかのような印象を受けます。

 では、今回の記事を始めます。今回は、古井由吉の小説の読書案内も兼ねています。


*引用


 物に立たれて

 十二月二日、水曜日、晴れ。
 深夜の道路端に車を待って立つの姿は、ひょんな場所ところだろうと、商売柄、遠くから目に入るものだが、たまに、すぐ近くに来るまでその人影のまるで見えないがある、とタクシーの運転手が話したのを聞いたことがある。いま、そこに立ったのはないことは、気がついた時に一目でわかる、という。その辺の光線のぐあいや運転するほうの目のせいばかりでなく、服装や体格にもあまり関係なく、とにかく姿の見えにくい、そんなはあるものだ、と。
 それでも早目に気がつけば車を寄せる、ぎりぎりになっても寄せられないことはないのだが、なんだか運転の呼吸が狂わされそうで、悪いけど通り過ぎてしまうこともある、と。
 それはたまらないぞ、と腕をもうひとつはっきりと伸ばして大きく振ると、車はつと速度を落として寄ってきた。の姿ににわかに気がついたわけでなく、のほうの目に、閑散とした未明の道路を来る車のライトは、停まるとも過ぎるとも、ぎりぎりまでその表情は読みにくかった。よろこんで乗りこんだあと、それにしてもひと気もない道端でひとり大騒ぎする姿は、車の内からは妙なものに見えただろうな、と前方からたぐりこまれてくる歩道に人影を探す目をやり、なにか言訳をしなくてはいけないような、言訳をするのも変なような、落着かぬ心持でいるうちに、寒くはありませんか、と運転手のほうから声をかけてきた。ガラスが曇ったので、空気を入れ換えたばかりのところなもので、と。いやあ、外に立つのにくらべれば、極楽だあ、とそれに頓狂な調子で答えて、バッグを膝の上に抱き寄せると、ジッパーの口の端からすっと、鞄の内に溜まっていた冷たい空気が流れ出た。
「いま、K病院まで、を運んだその帰りなんですよ」と運転手は言った。(……)
(古井由吉「物に立たれて」(『仮往生伝試文』・講談社文芸文庫所収)・pp.259-260・太文字と(……)は引用者による)

 今回も「客」という言葉にこだわります。しばらく、こだわりつづける予感があります。

*客「である」、客「になる」、客「を演じる」


 前回紹介した「客」の語義として辞書に載っている文字と文字列を、もう一度並べてみます。

*「きゃく・客」
 ・訪問してくる人、まろうど。
 ・旅人。家から離れ、旅館などにとまる人。
 ・自己や主たるものと別にあって対立するもの。←→主。
 ・商売で、料金を払う側の人。
 (以上、広辞苑より)

*「きゃく・客」
 ・霊(たま)祭などの、祭の場に来る死霊・霊魂。
 (以上、日本国語大辞典より)

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 どうやら「客」とは、訪ねて来て一時的にある場を借りる人のようです。

「借りる」という行為は、「かりそめ・仮初(め)・苟且・こうしょ」に通じます。つまり、「仮・かり」です。言い換えると、まにあわせとか、その場限りです。

 借りっぱなしでは、借りではなくなってしまいます。

 借りる、借り、仮。

「仮に・かりに」という言い回しにそのニュアンスがうかがわれます。「もしも」という意味あいよりも、「仮に付けた名前」(広辞苑の例文)というときの「仮に」です。

「仮免許」の「仮」もそうでしょう。「仮面」となると、「隠す」というニュアンスが出てきて遠ざかる気がします。

 要するに、「借りる」も「仮」も一時的なのです。一箇所に長くとどまらない感じ。

「客人・まろうど」も一時的に立ち寄る存在であり、一方の「主人・しゅじん・あるじ」は、ある場所にとどまっている人だと言えます。

「物に立たれて」の冒頭である、「十二月二日」の「日記」では、終わりのほうに「主人おやじ」(p.261)という言葉が見えます。深夜や未明でも営業しているラーメン屋などの屋台の「主人・(おやじ)・あるじ」を指しています。

 ただし、そこでは特定の誰かを指すわけではなく、語り手とタクシーの運転手との会話のおりに話者の思いとして、一般論の文脈で出てくるだけです。

 この場面においては、運転手こそが「主人」であり、語り手が「客」なのです。語り手はあくまでも客の立場でいます。

 ところで、「借りる」と「仮」が同源、つまり語源的に同じだと明記されている辞書はあまりないようです。ただし、ネット上の goo辞書 では「仮」の解説に「「借り」と同語源」という記述がありますけど。

「仮の宿」は「宿借り」に激似だし(まるで駄洒落ではありませんか)、「借りる」には「仮押さえ」が付き物ですから、その一致感からしても同源なのだろうと勝手に思っています。

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 古井由吉の小説では、語り手や作品の視点的人物が「客」である場合が多いと感じます。ひょっとすると全部がそうではないかと思えるほどです。

「客」とは立場や役割ですから、見方によってはどんな人も「客」だし「まろうど・客人」だと言えます。そもそも人は誰もが「まろうど」だと私は考えています。

 人は誰もが常に何らかの客「である」、誰もが時と場合に応じて何らかの客「になる」、つまり誰もが何らかの客という役「を演じる」のだ、と言いたいです。

 同様に、人は時と場合に応じて何らかの主人という役「を演じる」のでしょう。ただし、一時的に、です。

 おそらく不動の「主」は「神」だけなのです。一方の人は常に浮動する「客」。私は「神」には詳しくないのですが、きっと絶対的な存在なのでしょう。

 もしも世界に「主語」があるとすれば、人をふくめた万物は「述語」なのではないでしょうか。

 万物は流転する。万物は過客なり。森羅万象は、「である」、「になる」、「を演じる」なのではないでしょうか。

 引用文にある、うつろう「客」たちを眺めていると、そんな気がします。

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 話を戻します。

「客」とは立場であり役割だという意味で、古井の諸作品だけでなく、あらゆる小説、物語、映画、戯曲においてそこに登場するあらゆる人物が「客」になりうると考えることができます。

 ある「主人」役が、見方を変えると、あるいはある瞬間や場面から「客」に転じることがあるのです。身も蓋もない話になりましたが、私はそう思います。

 主客転倒です。

 今のは冗談です。主客転倒とは、みなさんご存じのように、今述べたような場合につかう言い回しではありませんが、私は文字通りにつかいたいです。

*古井由吉の諸作品における「客」


 古井の小説に登場する「客」を具体的に見てみましょう。

*『杳子』

 たとえば、『杳子』ではその冒頭で、作品に一貫した視点的人物である「彼」と杳子は、二人とも旅に出ています。登山というか山歩きをしているのですから、家を離れて歩き回っているわけです。

 その二人が出会い、そして再会し、あちこちを街や公園や郊外を転々とします。喫茶店の客となることが多いです。

 一時的に「旅館」の「一室」に客としていることもあります。家に入るのは、最終章にあたる「八」くらいです。

 そこは杳子の家で、「彼」(S)は客の立場になりますが、その家での杳子の立ち振る舞いは主人らしくはありません。むしろ、杳子の姉のほうが主導権を握っている気がします。杳子は二階の部屋に隔離されている印象が強いのです。食客であるという感じがします。

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 この最終章では、「彼」(S)と杳子の二人が、杳子の姉が階下から運んできたケーキと紅茶を飲食するのですが、「客」をキーワードにして改めて読んでみると、この小説の最後を飾る象徴的な儀式に思えてきます。

 杳子の姉が「主人」だとはぜんぜん感じられません。ある意味、二人にそっくりなのです。「主人」の役割を演じているだけです。

 この章で執拗に反復される「反復」と「癖」という言葉で指されている「何か」が「主人」なのではないか。ふとそんな考えが浮びました。

 この部分は、もう一度読んでみたいです。

*『妻隠』(つまごみ)

 おそらく古井の作品のなかで最も知られ、読まれてもいると思われる『杳子』と同じ文庫本に収められている『妻隠』を見てみましょう。

 舞台は、大都市の郊外です。視点的人物である寿夫(ひさお)は妻と二人でアパートに住んでいます。

 若い男女が都市の郊外のアパートに「間借り」しているというのは、古井の初期の作品でくり返し出てくる設定です。もちろん、借家ですから主人である大家がいます。

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 なお、『夜の香り』には、今述べた設定の完成度の高い短編が集められています。

*『聖』(ひじり)

「客」という言葉と文字を転がしてみます。

・客、主客、主体・客体、主語・述語、主人・客、主人・従者、主・信者、聖・俗、神・信者、政・まつりごと、祭り・まつる・崇め奉る

 今並べた文字列というか一連の言葉は、『聖』という作品を思いうかべながら連想したものです。

 そのお堂の前を私は一度は通り過ぎた。
(……)
 あれなら、雨露を十分にしのげるな、と私は思ったものだった。
(『ひじり』(『ひじりすみか』新潮文庫)所収・p.8・(……)は引用者による省略)

 村に流れて来た男が、野宿のつもりで入った「お堂」(その作りから茶室を連想させますが、そう考えると「客」とつながります)で、村の「聖(ひじり)」として扱われていく話です。この小説では、客人(まろうど)である男が食客(しょっかく)でありながら、いわば崇め奉られる対象にもなるとも言えます。

 客という存在が確固とした属性ではなく、立場であり、役割でもあり、それゆえに、その基盤は脆弱であって、ある出来事がきっかけとなって、容易に主従が逆転する(文字通りの主客転倒です)こともある――。

「客」というものを考えるうえで、興味深い作品ではないか。そんな気がします。

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 前回に書いた次の「客」という言葉と文字のイメージも浮びます。

・まろうど・客人、過客、まろぶ・転ぶ・ころぶ・転がる、万物流転
・転々とする、転がる、ころころと変わる
 
・うつわ・うつわもの、うつろう・うつりかわる
・かりる・借りる、かり・仮・かりそめ

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「客」というものは、民俗学や文化人類学や社会学とも親和性がありそうですが、私はそういた分野が苦手なので、言葉を転がしたり、言葉を掛けるという「言葉のあやとり(言葉の綾取り)」をしながら、私らしく「語・騙」っていこうと思います。

『聖』が気になる作品であることは確かです。

*下宿、集合住宅

 初期の初期というのは変な言い方ですが、古井が小説を書き始めた頃の作品では、下宿に住んでいる若い男がよく出てきます。金沢を思わせる雪の多い小都市が舞台の一連の作品がそうです。

 私がいちばん好きなのは、短編『雪の下の蟹』(『雪の下の蟹・男たちの円居』(講談社文芸文庫)所収)です。

 なお、この小説と『杳子』と「雪の下で」というエッセイにおける描写を比較した「エッセイ、一人称の小説、三人称の小説」という記事があります。よろしければお読みください。

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 以後、古井の年譜にある記述と歩を合わせるようにして、東京の郊外にあるアパートに住む若い男女、そして集合住宅(団地やマンション)に妻子と住む男が語り手であったり、視点的人物である小説が増えていきます。

 今ここで読んでいる『仮往生伝試文』も、そうした設定の小説ですが、私が特にお薦めしたいのは『白髪の唄』です。

 いつか、この作品の読書感想文を書いてみたいと思っています。複数の書き分けられた文体からなり立っていて、素晴らしい作りになっています。

*「客小説」、「ゲスト・ノベル」

 興味深いのは、古井の小説では一軒家に住む人物が語り手や主要な視点的人物になることはまずありません。

 集合住宅に住む語り手や視点的人物が、人を住まいにもてなすという設定もない気がします。

 主要な人物が主人になるとか、主人の立場になることはまずないのです。たいていどこかに出かけます。

 タクシーや電車や新幹線や飛行機の乗客になったり、登山者をふくむ観光客になったり、弔問客になったり、いわば病院の客である患者になったり、競馬場で観客になったり、どこかの家に招かれる客になります。

 古井由吉の小説は「客小説」であるとか、「ロードノベル」ならぬ「ゲスト・ノベル」だという言い方ができるかもしれません。

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 とはいうものの、さきほど述べたように、

「客」とは立場であり役割だという意味で、古井の諸作品だけでなく、あらゆる小説、物語、映画、戯曲においてそこに登場するあらゆる人物が「客」になりうると考えることができます。

というわけですから、そうした考えにしたがえば、

あらゆる小説、物語、映画、戯曲が「客○○」であり、「ゲスト○○」になりうる

と言えそうです。

「ほんまかいな?」と自分でツッコみたくなる話ではありますけど。

*まとめ


 古井由吉の小説では、語り手や作品の視点的人物が「客」として設定されることが多いどころか、ほとんどがそうであるような印象を受けます。それは冒頭を読めば、はっきりとわかります。たとえば、タクシーや電車や新幹線や飛行機の乗客になったり、登山者をふくむ観光客になったり、弔問客になったり、いわば病院の客である患者になったり、競馬場で観客になったり、どこかの家に招かれる客になるという形で、小説が始まるのです。古井の小説を「客小説」とか「ゲスト・ノベル」と呼びたくなります。しかし、「客」とは立場であり役割だという意味で、誰もが「客」になりうるわけです。そう考えると、古井の諸作品だけでなく、あらゆる小説、物語、映画、戯曲において、そこに登場するあらゆる人物が「客」になりうるという理屈になり、「客小説」などという呼称は勇み足であり言い過ぎだという気もします。そもそも、世界には絶対的な不動の「主人」などいないのかもしれません。おそらく「主」である「神」以外には。人は誰もが常に浮動する「客人・まろうど・過客」なのだろうという気がします。ひょっとすると、万物がそうなのかもしれません。

 かりにきて かりたやどには あるじなし

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