みんなでいっしょに見る(錯覚について・05)
江戸川乱歩の『押絵と旅する男』で私の目を惹くのは蜃気楼の描写です。この短編では本題に入る前の話として蜃気楼が出てきます。
本題として出てくる幻の怪しさにも、まして怪しくも妖しくもあるのが蜃気楼なのですが、蜃気楼は環境と条件がそろえば誰もが見ることができる点が幻との大きな違いです。
誰にも見える。その意味ではまことに平等で民主的な幻であり錯覚だと言えるでしょう。
具体的に見てみます。
私がいちばん気になる箇所を引用しました。
引用が「蜃気楼とは、(……)」で切れているのは、私が蜃気楼そのものの描写にはそれほど心が惹かれないからにほかなりません。
私の興味はむしろ引用文の冒頭、「魚津の浜の松並木に豆粒の様な人間がウジャウジャと集まって、息を殺して、眼界一杯の大空と海面とを眺めていた。」という一文の描写にあります。
みんなしていっしょに一つの錯覚による現象を「息を殺して」見る――このさまこそが、怪しく妖しくもあり、かつ不気味で不可思議にも思えてならないのです。
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いま私の頭にあるのは、映画であり、テレビであり、パソコンの画面に映る文書と映像です。さらには掌に載る板の画面に映る文書と映像でもあります。
「みんなでいっしょに見る」というのは、かつては同じ時間に同じ空間で起こっていたのでしょう。たとえば、映画館での上映や「街頭テレビ」のことです。
映画の前には、お芝居がありました。お芝居は、かつては同じ時間に同じ場所で、みんなしていっしょに見るものだったはずです。
生身の人間が誰かや「何か」――「何か」には動植物や架空の存在(神々や妖精)も含まれていたにちがいありません――を真似て演じる。誰かや「何か」の代わりにその姿を装い、その振りをする。
「真似る」「演じる」「代わり」「装う」「振りをする」「仮面を被る」「役になりきる」――これがお芝居や劇と呼ばれるものを構成する要素です。
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生身の人間が演じる劇を、みんなでいっしょに空間と時間を共有する形で観ていた時代はとてつもなく長いものだったにちがいありません。
いま述べた形の劇を、「まつり」や「まつる」という言葉とそのイメージに重ねることもできそうです。
まつりごと・政・祭事・歳事とずらしてみると、さきほど挙げた一連の言葉――「真似る」「演じる」「代わり」「装う」「振りをする」「仮面を被る」「役になりきる」――との親和性が浮かび上がってくる気がします。
代理人、つまり代りの人たち――または役を得た人という意味での役者や役人でもいいです――が、しきたりや慣例や定型にしたがって、その役やキャラクターを装い演じ、その振りをするわけです。
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話が大きくなりすぎましたので、小さくしますと、要するに「ごっこ」なのです。
こどもが「真似る」「演じる」「代わり」「装う」「振りをする」「仮面を被る」「役になりきる」のが「ごっこ」ですが、「ごっこ」はそのままおとなの世界に重なります。
ひいては世界に重なります。
そう考えると、現実世界は「ごっこ」だという短絡と飛躍になります。
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話を戻します。
かつて同じ場所と同じ時間に、みんなしていっしょに見た、広い意味でのお芝居では、生身の人間が演じて生身の人間が見るわけですから、そこには交流があっただろうと想像できます。
双方向的なかかわり合いです。
演じる者たちは観る者たちの反応を目にし耳にし、おそらく匂いや気配といったものを感じながら、それに応える形で演じていったのでしょう。
広義のプレイ(演技・遊戯・演奏・賭け・play)ではないでしょうか。
play、プレイ、演じる、演奏する、遊戯する、競技する、賭ける。
play、プレイ、演技・芝居・上演・放映、演奏・旋律、遊戯・戯れ・ゲーム、競技・競争・パフォーマンス、賭け・博打、占い・祭事・呪術。
(play と pray が韻を踏んでいるのは興味深い事実です。)
プレイとは、ある役(役割・役目・役柄)を演じる行為だと言えるでしょう。比喩的に言うと、与えられた「仮面」を被るのです。
(プレイが「板、ボード、盤、版、画、面」と親和性があるのは興味深い事実です。⇒「人が物に付く、物が人に付く」&「タブロー、テーブル、タブラ(『檸檬』を読む・02)」)
ただし、こうした広義のプレイも、いまではライブの形で、つまり観る者たちとプレイする者たちが同じ時空を共有しての、双方向的なかかわり合いとしておこなわれることは少なくなった気がします。
現在は一人ひとりがどこかに接続された板を掌に載せてうつむきながら眺めるのです。「みんなでいっしょに見る」の「新しい形態」=「携帯」です。
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「ごっこ」、「真似る」、「演じる」、「代わり」、「装う」、「振りをする」、「仮面を被る」、「役になりきる」が、生身の人間たちによるパフォーマンスから、描かれた物たち、映った物たち、写された物たちによるパフォーマンスへと徐々に移り変ってきて、現在はその頂点に達したかのような気がしてなりません。
主役は代理である物(影)たちなのです。
薄っぺらい面や板の上で物たちが振りを演じる影(文字・像)のパフォーマンス(影絵)を人がひたすら一人で観るのが現在の「ごっこ」だと言えます。
各人が各自の時間と空間で、です。分断化された(ずれた)時と場所で、と言うべきかもしれません。こうした時空での影絵の鑑賞と閲覧に費やされる時間が急激に増えているのは確かでしょう。
これが頂点であるどころか、この「ごっこ」はまだ続くのでしょうか。
影絵を観るヒトたちは、そもそも生き延びることができるでしょうか。
描かれた物たち、映った物たち、写された物たちを影にたとえるなら、ヒトはその影に先立つことがあってはならないと思います。
描き映し写した責任、つまり作った責任があるという意味です。
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その影絵は蜃気楼のようであっても蜃気楼ではありません。ヒトが蜃気楼――おそらくこの蜃気楼はヒトの中にあります――を演じさせている影だと言うべきでしょう。
そうした影たちが蜃気楼という役を演じる場が薄っぺらい面や平たい板であるのは興味深い事実です。
面ですから、たいてい表と裏があります。つまり、面は人に似ているのです。目のあるほうが表です。表と裏というのは、視覚を最優先するヒトの捏造した「意味」(ここでの「意味」とは「ヒトの頭の中にしかないもの」くらいの「意味」です)だと思います。本物の蜃気楼に裏と表があるでしょうか?
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読書感想文のつもりが、余談だけの記事になってしまいました。
きょうは四月一日です。いまや毎日が四月一日に思えてならないのは私だけでしょうか?
『押絵と旅する男』は青空文庫でも読めます。
ところで、タイトルにあるのが「押絵」であって「影絵」ではないところが味噌だと思います。薄っぺらい平面ではなく半立体の押絵だからこそエロチシズムがあり、切なさがあるのです。押絵でなければ、あの結末の哀しみは説得力に欠けるものになったのではないでしょうか。
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Carpenters - This Masquerade(by Leon Russell)
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