「カフカ」ではないカフカ(反復とずれ・05)
名前は複製として存在します。文字であれば、複製、拡散、保存が簡単にできるし、名前は最小の引用でもあります。だれでも、簡単に引用できるのです。
でも、ほんとうにそうでしょうか? 今回は、反復と「ずれ」を、名前で考えてみます。
最強最小最短最軽の引用
名前は最強で最小最短最軽の引用です。なかでも固有名詞、とくに人名は最強で最小最短最軽の引用なのです。
固有名詞の中でも人名や作品名にそなわったというか、名前が放つパワーと光はすごいものです。その人物や作品への愛や敬意や親しみが強いほど、人はその名前を大切にするし、その名前を唱えるだけで力が湧いたり癒やされたりするのではないでしょうか。
What's in a name? たかが名前だなんて侮れません。犬や猫やムササビに向かってその名前を唱えても通じないとはいえ、ヒトのひとり相撲だなんて身も蓋もないことを言うべきではないでしょう。
たったひとり感、たったひとつ感
同姓同名があったり、同じ文字列のタイトルが「使用中」であったとしても、人名や作品名、とりわけ有名人や歴史上の人物の名前や、有名な作品のタイトルであれば、「たったひとり」感と「たったひとつ」感はきわめて強いだろうと考えられます。
なにしろ、固有名詞なんて名前が付いています。名前は固有の名詞――。名前に名前が付いているのです。念を押しているのでしょう。駄目押しとも言いますね。
ヒトにしか体験できない魔法
もはやこの世にいない人物、遠く離れていてなかなか会えなかったり目にすることができない人物であっても、その名前を唱えるとか文字にするという形で引用すれば、あるいはその名前を見聞きすれば、ふとあたかもその人物がここにいるような感じがするものです。
一方で、絵画や楽曲や文学作品の場合には、複製や再生や再演でしか鑑賞できないにしても、その作品名を唱えたり、目にしたり耳にすることで、その作品の一部や断片(場合によっては全体像)がよみがえってくるにちがいありません。
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その意味で、固有名詞は最強で、最小最短最軽の引用だと言わざるをえません。これはヒトにしか体験できない魔法だと言っても過言ではないでしょう。
たぶん、この魔法は呪術なのです。擬人――詳しく言うと「生きていない文字」に魂を吹きこんで人や人のようなものに擬する――を基本とする呪術です。
たとえば、私は自分の名前や大切な人の名前の書いてある紙を踏むことができません。ましてや、はさみで切り刻むことなど絶対にできません。
ツッコミを入れる
私は自分の過去の記事にツッコミを入れながら、新しい記事を書くという癖があります(論理的思考が苦手な私は矛盾だらけの文章を書いているからです、また、つねにブレていたいからでもあります)。
また自己引用をしてパッチワークを作ることも頻繁にやっています(横着なのです)。
さらに言いますと、そっくりそのまま再投稿することも珍しくはないのです(常時ネタ切れで金太郎飴状態なのです)。お恥ずかしい限りです。
なお、現在のこのアカウントでは、書き下ろしの記事が多くなっています。
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というわけで、さっそく上で述べたことにツッコミを入れようと思います。ある気づきを得たからです。
フランツ・カフカ
固有名詞が最強で最小最短最軽の引用だなんて、嘘だとは言いませんが、言い過ぎではないでしょうか。
ある例を挙げます。
فرانس كافكا
これが、フランツ・カフカなんだそうです。アラビア文字らしいのです。
「らしい」なんて言うのは、私が検索して引用した(ようするにコピーペーストした)だけだからなのですが、かろうじてKに見える部分が識別できるくらいで、これがカフカだなんて予備知識がなければ分かるはずがありません。
弗朗茨·卡夫卡
中国語だそうです。恥ずかしい話ですが、私は可不可だと思いこんでいました。お察しのとおり、「可もなく不可もなく」からの類推です。
Кафка, Франц
これはロシアで用いられているアルファベットです。
ฟรันทซ์ คัฟคา
タイ語だそうです。
「こんなの私ではない」
こういうのは、ウィキペディアで検索できます。引用したというか「うつした」のです。
ちなみに、ウィキペディアの解説の日本語バージョンでは、
とあります。
恥ずかしい話ですが、チェコ語が出てくるとは、思いもしませんでした。生い立ちを考えれば、なるほどと唸るしかありませんけど……。
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さて、上で挙げた複数の言語の文字による複数の表記ですが――フランツ・カフカさんには連絡が取れそうもないので確認はできないので、想像するだけですけど――、「こんなの、私ではない」とおっしゃる気がします。
もちろん、
フランツ・カフカ、ふらんつ・かふか、Furantsu Kafuka
もです。
「えっ! 三種類もあるの? スゲー!」
なんて感動なさるかもしれません。
ごめんなさい
ここに、カフカさんの名前の日本語での表記(文字列)をいじって何本も記事を書いた大馬鹿者がいます。⇒ 「【モノローグ】カフカとマカロニ」・「であって、ではない(反復とずれ・03)」
私のことです。
Kafka さん、ごめんなさい。
反省の意味を込めて、この記事を書いています。
上で書いた「フランツ・カフカ、ふらんつ・かふか、Furantsu Kafuka」についても、ごめんなさい。← ぜんぜん反省していないではないか!
自分の名前には見えないし、聞こえない
みなさん、ご自分の名前で想像してみてください。日本語とは異なる文字が使われている言語で、あなたのお名前が書かれていたとします。
それをいきなり、予備知識なしに目の前に出されたとしたら、どんな気持ちがするでしょう?
「何ですか、これ? えっ! 〇〇語で私の名前を書くとこうなるのですか?」
(一瞬絶句)
「こんなの私じゃないです」
こんな感じではないでしょうか。少なくとも、私なら、そんなリアクションをしそうです。
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そう見えないのです。
自分なのに自分には見えない。
正確に言えば、自分の分身だと言ってもいい自分の名前には見えない。
また訛りやアクセントの違いがありますから、発音されたとしても、そう聞こえないのです。
つまり、自分なのに、正確には自分を指す音声なのに、自分にはそう聞こえない。
複製であると同時に、置き換えと翻訳
Franz Kafka、František Kafka、Кафка, Франц、弗朗茨·卡夫卡、فرانس كافكا、フランツ・カフカ、ฟรันทซ์ คัฟคา
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固有名詞は最強で最小最短最軽の引用である――。
そうは言えるかもしれませんが、引用は複製であると同時に置き換えであり、翻訳でもありうることを忘れてはならないようです。
言語や文字や発音の違いを失念している、もっと厳しく言えば、「ずれ」や差違をあっさりと切り捨てているのです。
うつしてならないものがある
これは抽象に他なりません。「うつす」行為である引用は、同一の再製という意味での複製だとは限らないのです。
簡単には「うつせないもの」や「うつしてはならないもの」もあるのです。
おそらく「うつせるもの」よりずっと大切なものだという気がします。
自分の名前が置き換えられる、うつされる
ある日とつぜん、自分の名前が、知らない言語の訛りで発音されたり、知らない文字で記録される。
大切な自分の名前が、置き換えられる、うつされるのです。
そんなことがありえます。あります。過去にもありました。いまもあります。これからもあるでしょう。
そうです。侵略や戦争のことです。
じっさいには、自分の名前を記録されることもなく、自分が消されることのほうがずっと多いと思います。
「うつる・うつす」に満ちた歴史
人類の歴史は「うつる・うつす」に満ちています。
うつる、写る、映る、移る、遷る、伝染る、流行る、孫引る、引用る、模倣る、写本る、写経る、印刷る、翻訳る、映画る、写真る、複製る、放送る、網路る、偽造る、剽窃る、盗作る、広告る、宣伝る、布教る、革命る――。
反復る。差違る。
こうしたものは、ぜんぶ、うつるんです。ですから、ぜんぶ「うつる」と読んでください。よくご覧ください。人類の歴史そのものでもあります。
自分の名前、愛する人や大切な人の名前
いずれにせよ、名前は大切です。とりわけ、愛する人や大切な人の名前と自分の名前は、自分の生まれ育った土地の発音と文字で、愛でたいものですね。
あ、そうそう、地名つまり土地の名前もです。
世界を見まわすと、言葉と土地が奪われたり、言葉と土地が失われたり、言葉と土地が変えられたりする例には事欠きません。
これまでにいくつの言語や文字が、いくつの故郷が失われたかを考えたり想像するだけで、悲しい気持ちになります。恐ろしくもあります。いまじっさいに世界のあちこちで起きていることも含めての話です。
「うつせるもの」より大切なもの
「うつる・うつす」の裏には、恐ろしい現実があります。それを失念してはならないと思いあたりました。
うかつでした。
簡単には「うつせないもの」や「うつしてはならないもの」もあるのです。おそらく「うつせるもの」よりずっと大切なものだという気がします。
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フランツ・カフカさんの名前の複数の表記を見ていて、気づきを得た私は、反省を込めてこの記事を書きました。
「フランツ・カフカ」という名前は、Franz Kafka および František Kafka さんから遠ざかったものなのですね。
「カフカ」ではないカフカーー。「カフカ」という表記も発音も、世界的規模で見れば、自明でも当たり前でも標準でもない。
でも、だからこそ、私たちは翻訳をつうじて、カフカの作品に触れることができるのも事実です。
「うつる・うつす」の問題は一概にいい悪いと言えるたぐいの問題ではなさそうです。それだけは確かでしょう。
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人類の歴史は翻訳の歴史でもあると言えるでしょう。私もずいぶんお世話になっています。
そもそも日本語における漢字と漢語の使用そのものが、広義の「うつす」であり、翻訳の産物です。
文字のなかったらしい和語(大和言葉)に漢字と漢語を当て、同時に漢字と漢語に和語を当ててきたと言われています。
祈り
「うつせないもの」「うつしてはならないもの」を武力でうつそうとしている人(たち)がいますね。いま、まさに。
言語の問題の深さと根深さに途方に暮れているわけにはまいりません。
平和を祈ります。
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