「どこでもない空間、いつでもない時間」(「物に立たれて」を読む・08)
*「転々とする、転がる、ころころ変わる(「物に立たれて」を読む・06)」
*「客「である」、客「になる」、客「を演じる」(「物に立たれて」を読む・07)」
古井由吉の『仮往生伝試文』にある「物に立たれて」という章を少しずつ読んでいきます。以下は古井由吉の作品の感想文などを集めたマガジンです。
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引用にさいしては、古井由吉作の『仮往生伝試文』(講談社文芸文庫)を使用します。
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まず、前回の記事をまとめます。
では、今回の記事を始めます。
*引用
*二人の運転手
誰かが話したことを鉤括弧でくくると直接話法と言い、鉤括弧でくくらないと間接話法と言うそうですが、私は文法用語には詳しくありません。大切なのは用語ではないと考えています。
学術用語や専門用語はそれを知ることで、わかった気分に陥りやすいので要注意です。大切なのは文章をよく読むこと(眺めること)ではないでしょうか。
いずれにせよ、古文と呼ばれているかつての日本語の文章では、鉤括弧や句読点といった約物がなかったことを思いだしましょう。ある意味、引用文はそれに近い書き方がしてあるとも言えそうです。
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引用文を眺めていると、「 」が少ないですが、(……)の後にはもっと出てきます。どうか、本をお買い求めになってください。とはいえ、本がなくても読めるように書いていきますので、ご安心ください。
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引用文を眺めていると、太文字がほどこしてある「運転手」という文字が三つあるのに気づきます。
1)「とタクシーの運転手が話したのを聞いたことがある。」
「話したのを聞いたことがある。」と終わっていることから、日記の書き手が以前にどこかで出会った運転手の話だとわかります。「十二月二日」の深夜に出会う運転手ではありません。
その以前に出会った運転手の話が、第一段落の「、という。」と「、と。」、そして第二段落に「、と。」というふうに引用されています。
2)「寒くはありませんか、と運転手のほうから声をかけてきた。」、「「いま、K病院まで、客を運んだその帰りなんですよ」と運転手は言った。」
これが、「十二月二日」に書き手が出会った運転手です。
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以上、二人の運転手が出てきます。「十二月二日」以前に書き手が出会った運転手と、「十二月二日」の深夜に出会った運転手ですから、時も場所も人物も異なるわけです。
それなのに同じ「運転手」という言葉が当てられているのです。素っ気なく、です。説明的な修飾がほどこしてないという意味です。
これは「転々とする、転がる、ころころ変わる(「物に立たれて」を読む・06)」で述べた三人の「客」ほどではありませんが、異なる人物に同じ言葉が素っ気なく当てられている点では同じです。混同しやすいのではないかと思います。
*二人の「運転手」
・「十二月二日」以前の深夜に書き手がどこかで出会った運転手。
・「十二月二日」の深夜に書き手が出会った運転手。
この二人に書き手の心理が重ねられている気がします。書き手は相手に染まりやすいのです。ともぶれ(共振)しやすいとも言えます。
*三人の「客」
三種類の「客」について、もう一度ここでも説明します。引用文では「客」という文字というか言葉にも太文字をほどこしてあります。
1)「深夜の道路端に車を待って立つ客の姿は、」から「そんな客はあるものだ。」
この段落の「客」は、「十二月二日」の深夜より以前に、書き手が、どこかのタクシーの運転手から聞いた話に出てくる「客」です。
2)「それはたまらないぞ、」から、「鞄の内に溜まっていた冷たい空気が流れ出た。」
一方で、この段落の「客」は、「十二月二日」の深夜の書き手を指しています。つまり、「私」と書き換えることも可能な「客」です。
3)「「いま、K病院まで、客を運んだその帰りなんですよ」と運転手は言った。」
他方、この一文にある「客」は、「十二月二日」の深夜に書き手を乗せることになったタクシーの運転手が、ついさきほどまでそのタクシーに乗せていた「客」です。
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「客」 ⇒ 「客」 ⇒ 「客」
「客」(まろうど)は、「まろぶ・転ぶ・転がる」存在です。三人の(三種類の)「客・まろうど」という言葉の「まろぶ」さまは、その意味とイメージに擬態しているかのように感じられます。
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*二人の「運転手」
・「十二月二日」以前の深夜に書き手がどこかで出会った「運転手」。
・「十二月二日」の深夜に書き手が出会った「運転手」。
*三人の「客」
・「十二月二日」の深夜より以前に、書き手が、どこかのタクシーの運転手から聞いた話に出てくる「客」。
・「十二月二日」の深夜の書き手を指す。つまり、「私」と書き換えることも可能な「客」。
・「十二月二日」の深夜に書き手を乗せることになったタクシーの運転手が、ついさきほどまでそのタクシーに乗せていた「客」。
*「運転手」、「客」、「姿」、「人影」
引用文に出てくる人物に注目すると、言葉で指される形で、日記の書き手、二人の「運転手」、三人の「客」がいるのですが、あと二つ付け加えるべき言葉があります。
・「よろこんで乗りこんだあと、それにしてもひと気もない道端でひとり大騒ぎする姿は、車の内からは妙なものに見えただろうな、と前方からたぐりこまれてくる歩道に人影を探す目をやり、なにか言訳をしなくてはいけないような、言訳をするのも変なような、落着かぬ心持でいるうちに、寒くはありませんか、と運転手のほうから声をかけてきた。」
上の引用箇所に出てくる「姿」は、書き手が「十二月二日」の深夜に乗ったタクシーの「運転手」から見た書き手を指し、「私の姿」と書き換えることもできそうです。
同じ引用箇所に出てくる「人影」は、タクシーに乗りこんだ書き手が車窓から歩道に目をやって探している「架空の人物」だと取れます。
引用箇所はこれで一センテンスですから、長いと感じる人もいるにちがいありません。このセンテンスは、古井由吉の文章の特徴がよくあらわれていると私は思います。
日記体の文章の一節ですから、書き手が主語だということはわかります。「私」がどこかにあってもいいセンテンスです。でも、一人称の代名詞はありません。
上で述べたように「姿」が「私の姿」と書かれていれば、いくぶん読みやすいかもしれません。でも、そう書かれていないのです。
また、主語が変わっているところで二つに分けることもできたしょう。
つまり、
・「よろこんで乗りこんだあと、それにしてもひと気もない道端でひとり大騒ぎする姿は、車の内からは妙なものに見えただろうな、と前方からたぐりこまれてくる歩道に人影を探す目をやり、なにか言訳をしなくてはいけないような、言訳をするのも変なような、落着かぬ心持でいるうちに、」
と
・「寒くはありませんか、と運転手のほうから声をかけてきた。」
の二つに分けることもできたセンテンスなのに、これで一文なのです。
途中で主語が変わっていますが、書き手の視点が運転手に傾いている(染まっている・ともぶれしている)ために、つながっていても違和感は覚えません。
よく読むと不思議なセンテンスです。妙な言い方になりますが、俳句とか連歌とか付合(つけあい)を感じます。折れているとか転じている感じがするのですが、それでいてつながっているのです。
「いやあ、外に立つのにくらべれば、極楽だあ、とそれに頓狂な調子で答えて、鞄を膝の上に抱き寄せると、ジッパーの口の端からすっと、鞄の内に溜まっていた冷たい空気が流れ出た。」
ここもそうです。二つに折れています。その転じるさまが、長めの俳句のようだと私は感じます。「鞄」という物が分身(あるいは愛玩動物・ペット)のようで、くすりと笑う自分がいます。「物に立たれて」いるのではないでしょうか。
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ここまでを、整理しましょう。
*二人の「運転手」
・「十二月二日」以前の深夜に書き手がどこかで出会った「運転手」。
・「十二月二日」の深夜に書き手が出会った「運転手」。
*三人の「客」
・「十二月二日」の深夜より以前に、書き手が、どこかのタクシーの運転手から聞いた話に出てくる「客」。
・「十二月二日」の深夜の書き手を指す。つまり、「私」と書き換えることも可能な「客」。
・「十二月二日」の深夜に書き手を乗せることになったタクシーの運転手が、ついさきほどまでそのタクシーに乗せていた「客」。
*「姿」
・書き手が「十二月二日」の深夜に乗ったタクシーの「運転手」から見た書き手を指す「姿」。「私の姿」と書き換えることも可能。
*「人影」
・タクシーに乗りこんだ書き手が、車窓から歩道に目をやって探している架空の人物の「人影」。
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実は、引用文がどのように読まれるのかを知りたくて、ある人に読んでもらったことがあります。「十二月二日」の日記体のところだけです。かなりの読書家で、小説は読みなれている人なのです。
途中でわからなくなり、前後を読みかえしたりしてなんとか読めた、とその人は言っていました。
なんだか、古文みたいな気がした、とも。
上で述べた二人の「運転手」、三人の「客」、「姿」、「人影」について、その人にそれとなく尋ねてみましたが、私と同じ解釈で読んでいました。
「読めと言われたから読んだけど、正直言って、自分から進んで読みたい小説じゃないなあ。日記の出だしのところから、「何これ?」って感じだったし。こんなエッセイみたいな日記を書く人っているの? 書くとしたら、なんのためなの?」と私が逆に質問されてしまいました。
「エッセイみたいな日記」という印象は、私も同じだったので嬉しくなりました。
*多重的な自分、多層的な意識、多元的な場所
引用文とそれに続く「十二月二日」の日記体の文章を読んで、私の頭の中に浮ぶのは、次の言葉とそのイメージです。
(自分の)分身たち、ともぶれ・共振、相手に染まりやすい人物、複数化された自分(意識)、多層的・多重的な自分(意識)、多元的な場所――。
この文章を書いている書き手は、どこにいるのでしょう?
日記の書き手は、
・記憶の中にいる、話をしてくれた二人の「運転手」たちの心理に分け入り、
・その「運転手」の話に出てくる三人の「客」たちに、その夜に道路端に立った自分を重ね、
さらには、
・乗りこんだタクシーの運転手の目になって、道路端にいるかもしれない自分と同じ立場の人物(自分の分身とも言える架空の人物)まで目で探している、その時の自分に、今の自分(日記を書きつつある自分)を重ねている。
そんな気がします。
私は、次の一節を思いださずにはいられません。『妻隠』で、作品の視点的人物である寿夫(ひさお)が熱にうなされていたときの自分を回想している箇所です。
深読みできそうな細部に満ちた段落です。
深読みかどうかはともかく、そこに書かれているイメージは、古井の文章の構造とよく似ていると私は感じます。
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大切なのは、この日記体の文章が、日記ではないことです。小説なのです。もしも日記であれば、その日の出来事の報告であるとも言えます。
そうではなくて、日記の書き手を装ったこの小説の語り手は、さらにはこの小説の作者は、言葉の中にいるのです。文字の世界にいるのです。
執筆中の作品の中にいるという言い方もできるでしょう。ここで、ある言葉が浮んでくるのですが、それはある人の言葉なので、次の章で引用します。
*「どこでもない空間、いつでもない時間」
古井由吉の文章を読んでいて、あるいは眺めていて私が感じるのは、たどり着ける「いま、ここ」であり、同時に、たどり着けない「かなた」にいる自分なのですが、それは蓮實重彥の言葉を借りれば、「どこでもない空間、いつでもない時間」なのです。
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上の引用文は、伝聞をもちいた、古井由吉に特徴的な語り方を的確に言葉にした文章だと思います。
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「どこにもない空間、いつでもない時間」に関連して、引用したい文章があります。
この論考の中でもっとも刺激的だったpp.237-238から、次の箇所を引用するだけにとどめます。
上の引用文で引用されているのは、「ノーベル文学賞受賞時におけるクロード・シモンの『ストックホルムでの演説』」の一節ですが、これは「傑出したフローベール研究者」である、アンヌ・エルシュベール=ピエロの著作『散文の文体論』からの引用という形を取っています。
創作中において「意図と言語の共生」が起きる具体的な場であり形となっているものが、作品の細部なのではないでしょうか。当たり前のことですが、それ以外には考えられません。ただし、今述べたことが実現されている作品はきわめて少ないのです。稀だと言うべきかもしれません。
どれでもというわけではなく、ある種の作品の細部こそが私にとって、始まりと途中と終わりのない「いまここ」(拙文「始まりと途中と終わりがないものに惹かれる」より)であり、同時に「いまここ」でもない、としか言いようのない、宙吊りされた動きと揺らぎの場であり形だと言えます。
そのある種の作品の細部とは、たとえば、本記事で取りあげた古井由吉作『仮往生伝試文』所収の「物に立たれて」の冒頭なのです。
*まとめ
とはいえ、人それぞれです。何をどう読もうとその人の自由です。読まない自由もあります。
なんて、愛想のないというか、身も蓋もない言い方になりましたが、なるべく読みやすい連載を心がけますので、これからもお付き合いいただければ嬉しいです。
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