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「どこでもない空間、いつでもない時間」(「物に立たれて」を読む・08)

「転々とする、転がる、ころころ変わる(「物に立たれて」を読む・06)」
「客「である」、客「になる」、客「を演じる」(「物に立たれて」を読む・07)」

 古井由吉の『仮往生伝試文』にある「物に立たれて」という章を少しずつ読んでいきます。以下は古井由吉の作品の感想文などを集めたマガジンです。

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 引用にさいしては、古井由吉作の『仮往生伝試文』(講談社文芸文庫)を使用します。

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 まず、前回の記事をまとめます。

 古井由吉の小説では、語り手や作品の視点的人物が「客」として設定されることが多いどころか、ほとんどがそうであるような印象を受けます。それは冒頭を読めば、はっきりとわかります。
 たとえば、タクシーや電車や新幹線や飛行機の乗客になったり、登山者をふくむ観光客になったり、弔問客になったり、いわば病院の客である患者になったり、競馬場で観客になったり、どこかの家に招かれる客になるという形で、小説が始まるのです。
 古井の小説を「客小説」とか「ゲスト・ノベル」と呼びたくなります。しかし、「客」とは立場であり役割だという意味で、誰もが「客」になりうるわけです。そう考えると、古井の諸作品だけでなく、あらゆる小説、物語、映画、戯曲において、そこに登場するあらゆる人物が「客」になりうるという理屈になり、「客小説」などという呼称は勇み足であり言い過ぎだという気もします。
 そもそも、世界には絶対的な不動の「主人」などいないのかもしれません。おそらく「主」である「神」以外には。人は誰もが常に浮動する「客人・まろうど・過客」なのだろうという気がします。ひょっとすると、万物がそうなのかもしれません。

 では、今回の記事を始めます。


*引用


 物に立たれて

 十二月二日、水曜日、晴れ。
 深夜の道路端に車を待って立つの姿は、ひょんな場所ところだろうと、商売柄、遠くから目に入るものだが、たまに、すぐ近くに来るまでその人影のまるで見えないがある、とタクシーの運転手が話したのを聞いたことがある。いま、そこに立ったのはないことは、気がついた時に一目でわかる、という。その辺の光線のぐあいや運転するほうの目のせいばかりでなく、服装や体格にもあまり関係なく、とにかく姿の見えにくい、そんなはあるものだ、と。
 それでも早目に気がつけば車を寄せる、ぎりぎりになっても寄せられないことはないのだが、なんだか運転の呼吸が狂わされそうで、悪いけど通り過ぎてしまうこともある、と。
 それはたまらないぞ、と腕をもうひとつはっきりと伸ばして大きく振ると、車はつと速度を落として寄ってきた。の姿ににわかに気がついたわけでなく、のほうの目に、閑散とした未明の道路を来る車のライトは、停まるとも過ぎるとも、ぎりぎりまでその表情は読みにくかった。よろこんで乗りこんだあと、それにしてもひと気もない道端でひとり大騒ぎする姿は、車の内からは妙なものに見えただろうな、と前方からたぐりこまれてくる歩道に人影を探す目をやり、なにか言訳をしなくてはいけないような、言訳をするのも変なような、落着かぬ心持でいるうちに、寒くはありませんか、と運転手のほうから声をかけてきた。ガラスが曇ったので、空気を入れ換えたばかりのところなもので、と。いやあ、外に立つのにくらべれば、極楽だあ、とそれに頓狂な調子で答えて、バッグを膝の上に抱き寄せると、ジッパーの口の端からすっと、鞄の内に溜まっていた冷たい空気が流れ出た。
「いま、K病院まで、を運んだその帰りなんですよ」と運転手は言った。(……)
(古井由吉「物に立たれて」(『仮往生伝試文』・講談社文芸文庫所収)・pp.259-260・太文字と(……)は引用者による)

*二人の運転手


 誰かが話したことを鉤括弧でくくると直接話法と言い、鉤括弧でくくらないと間接話法と言うそうですが、私は文法用語には詳しくありません。大切なのは用語ではないと考えています。

 学術用語や専門用語はそれを知ることで、わかった気分に陥りやすいので要注意です。大切なのは文章をよく読むこと(眺めること)ではないでしょうか。

 いずれにせよ、古文と呼ばれているかつての日本語の文章では、鉤括弧や句読点といった約物がなかったことを思いだしましょう。ある意味、引用文はそれに近い書き方がしてあるとも言えそうです。

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 引用文を眺めていると、「 」が少ないですが、(……)の後にはもっと出てきます。どうか、本をお買い求めになってください。とはいえ、本がなくても読めるように書いていきますので、ご安心ください。

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 引用文を眺めていると、太文字がほどこしてある「運転手」という文字が三つあるのに気づきます。

1)「とタクシーの運転手が話したのを聞いたことがある。」

「話したのを聞いたことがある。」と終わっていることから、日記の書き手が以前にどこかで出会った運転手の話だとわかります。「十二月二日」の深夜に出会う運転手ではありません。

 その以前に出会った運転手の話が、第一段落の「、という。」と「、と。」、そして第二段落に「、と。」というふうに引用されています。

2)「寒くはありませんか、と運転手のほうから声をかけてきた。」、「「いま、K病院まで、客を運んだその帰りなんですよ」と運転手は言った。

 これが、「十二月二日」に書き手が出会った運転手です。

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 以上、二人の運転手が出てきます。「十二月二日」以前に書き手が出会った運転手と、「十二月二日」の深夜に出会った運転手ですから、時も場所も人物も異なるわけです。

 それなのに同じ「運転手」という言葉が当てられているのです。素っ気なく、です。説明的な修飾がほどこしてないという意味です。

 これは「転々とする、転がる、ころころ変わる(「物に立たれて」を読む・06)」で述べた三人の「客」ほどではありませんが、異なる人物に同じ言葉が素っ気なく当てられている点では同じです。混同しやすいのではないかと思います。

*二人の「運転手」
 ・
「十二月二日」以前の深夜に書き手がどこかで出会った運転手。
 ・
「十二月二日」の深夜に書き手が出会った運転手。

 この二人に書き手の心理が重ねられている気がします。書き手は相手に染まりやすいのです。ともぶれ(共振)しやすいとも言えます。

*三人の「客」


 三種類の「客」について、もう一度ここでも説明します。引用文では「客」という文字というか言葉にも太文字をほどこしてあります。

1)「深夜の道路端に車を待って立つ客の姿は、」から「そんな客はあるものだ。」

 この段落の「客」は、「十二月二日」の深夜より以前に、書き手が、どこかのタクシーの運転手から聞いた話に出てくる「客」です。

2)「それはたまらないぞ、」から、「鞄の内に溜まっていた冷たい空気が流れ出た。」

 一方で、この段落の「客」は、「十二月二日」の深夜の書き手を指しています。つまり、「私」と書き換えることも可能な「客」です。

3)「「いま、K病院まで、客を運んだその帰りなんですよ」と運転手は言った。」

 他方、この一文にある「客」は、「十二月二日」の深夜に書き手を乗せることになったタクシーの運転手が、ついさきほどまでそのタクシーに乗せていた「客」です。 

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「客」 ⇒ 「客」 ⇒ 「客」

「客」(まろうど)は、「まろぶ・転ぶ・転がる」存在です。三人の(三種類の)「客・まろうど」という言葉の「まろぶ」さまは、その意味とイメージに擬態しているかのように感じられます。

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*二人の「運転手」
 
・「十二月二日」以前の深夜に書き手がどこかで出会った「運転手」。
 ・「十二月二日」の深夜に書き手が出会った「運転手」。
*三人の「客」
 ・「十二月二日」の深夜より以前に、書き手が、どこかのタクシーの運転手から聞いた話に出てくる「客」。
 ・「十二月二日」の深夜の書き手を指す。つまり、「私」と書き換えることも可能な「客」。
 ・「十二月二日」の深夜に書き手を乗せることになったタクシーの運転手が、ついさきほどまでそのタクシーに乗せていた「客」。

*「運転手」、「客」、「姿」、「人影」


 引用文に出てくる人物に注目すると、言葉で指される形で、日記の書き手、二人の「運転手」、三人の「客」がいるのですが、あと二つ付け加えるべき言葉があります。

・「よろこんで乗りこんだあと、それにしてもひと気もない道端でひとり大騒ぎする姿は、車の内からは妙なものに見えただろうな、と前方からたぐりこまれてくる歩道に人影を探す目をやり、なにか言訳をしなくてはいけないような、言訳をするのも変なような、落着かぬ心持でいるうちに、寒くはありませんか、と運転手のほうから声をかけてきた。

 上の引用箇所に出てくる「姿」は、書き手が「十二月二日」の深夜に乗ったタクシーの「運転手」から見た書き手を指し、「私の姿」と書き換えることもできそうです。

 同じ引用箇所に出てくる「人影」は、タクシーに乗りこんだ書き手が車窓から歩道に目をやって探している「架空の人物」だと取れます。

 引用箇所はこれで一センテンスですから、長いと感じる人もいるにちがいありません。このセンテンスは、古井由吉の文章の特徴がよくあらわれていると私は思います。

 日記体の文章の一節ですから、書き手が主語だということはわかります。「私」がどこかにあってもいいセンテンスです。でも、一人称の代名詞はありません。

 上で述べたように「姿」が「私の姿」と書かれていれば、いくぶん読みやすいかもしれません。でも、そう書かれていないのです。

 また、主語が変わっているところで二つに分けることもできたしょう。

 つまり、

・「よろこんで乗りこんだあと、それにしてもひと気もない道端でひとり大騒ぎする姿は、車の内からは妙なものに見えただろうな、と前方からたぐりこまれてくる歩道に人影を探す目をやり、なにか言訳をしなくてはいけないような、言訳をするのも変なような、落着かぬ心持でいるうちに、」

・「寒くはありませんか、と運転手のほうから声をかけてきた。

の二つに分けることもできたセンテンスなのに、これで一文なのです。

 途中で主語が変わっていますが、書き手の視点が運転手に傾いている(染まっている・ともぶれしている)ために、つながっていても違和感は覚えません。

 よく読むと不思議なセンテンスです。妙な言い方になりますが、俳句とか連歌とか付合(つけあい)を感じます。折れているとか転じている感じがするのですが、それでいてつながっているのです。

「いやあ、外に立つのにくらべれば、極楽だあ、とそれに頓狂な調子で答えて、バッグを膝の上に抱き寄せると、ジッパーの口の端からすっと、鞄の内に溜まっていた冷たい空気が流れ出た。」

 ここもそうです。二つに折れています。その転じるさまが、長めの俳句のようだと私は感じます。「鞄」というが分身(あるいは愛玩動物・ペット)のようで、くすりと笑う自分がいます。「物に立たれて」いるのではないでしょうか。

     *

 ここまでを、整理しましょう。

*二人の「運転手」
 
・「十二月二日」以前の深夜に書き手がどこかで出会った「運転手」。
 ・「十二月二日」の深夜に書き手が出会った「運転手」。
*三人の「客」
 ・「十二月二日」の深夜より以前に、書き手が、どこかのタクシーの運転手から聞いた話に出てくる「客」。
 ・「十二月二日」の深夜の書き手を指す。つまり、「私」と書き換えることも可能な「客」。
 ・「十二月二日」の深夜に書き手を乗せることになったタクシーの運転手が、ついさきほどまでそのタクシーに乗せていた「客」。
*「姿」
 
・書き手が「十二月二日」の深夜に乗ったタクシーの「運転手」から見た書き手を指す「姿」。「私の姿」と書き換えることも可能。
*「人影」
 ・タクシーに乗りこんだ書き手が、車窓から歩道に目をやって探している架空の人物の「人影」。

     *

 実は、引用文がどのように読まれるのかを知りたくて、ある人に読んでもらったことがあります。「十二月二日」の日記体のところだけです。かなりの読書家で、小説は読みなれている人なのです。

 途中でわからなくなり、前後を読みかえしたりしてなんとか読めた、とその人は言っていました。

 なんだか、古文みたいな気がした、とも。

 上で述べた二人の「運転手」、三人の「客」、「姿」、「人影」について、その人にそれとなく尋ねてみましたが、私と同じ解釈で読んでいました。

「読めと言われたから読んだけど、正直言って、自分から進んで読みたい小説じゃないなあ。日記の出だしのところから、「何これ?」って感じだったし。こんなエッセイみたいな日記を書く人っているの? 書くとしたら、なんのためなの?」と私が逆に質問されてしまいました。

「エッセイみたいな日記」という印象は、私も同じだったので嬉しくなりました。

*多重的な自分、多層的な意識、多元的な場所


 引用文とそれに続く「十二月二日」の日記体の文章を読んで、私の頭の中に浮ぶのは、次の言葉とそのイメージです。

(自分の)分身たち、ともぶれ・共振、相手に染まりやすい人物、複数化された自分(意識)、多層的・多重的な自分(意識)、多元的な場所――。

 この文章を書いている書き手は、どこにいるのでしょう?

 日記の書き手は、

・記憶の中にいる、話をしてくれた二人の「運転手」たちの心理に分け入り、

・その「運転手」の話に出てくる三人の「客」たちに、その夜に道路端に立った自分を重ね、

さらには、

・乗りこんだタクシーの運転手の目になって、道路端にいるかもしれない自分と同じ立場の人物(自分の分身とも言える架空の人物)まで目で探している、その時の自分に、今の自分(日記を書きつつある自分)を重ねている。

 そんな気がします。

 私は、次の一節を思いださずにはいられません。『妻隠』で、作品の視点的人物である寿夫(ひさお)が熱にうなされていたときの自分を回想している箇所です。

 そんな事が一晩じゅう繰返された。ときには彼はいくつもの場所に同時にいるような気がした。すると彼はもうどこかにいるという確な感じの支えをはずされて、途方もないひろがりの中に軀ごと放り出され、自分のコメカミの動悸どうきを、ただひとつの頼りとして、心細い気持ちで聞いていた。動悸の音を細々と響かせて空間どこまでもひろがっていき、四方に恐ろしい深みをはらんだ。しかも、その空間のどの部分も、それ自身は空虚でありながら、ちょうど大きな岩の中に閉じこめられた紋様のように、永遠で、そのくせどことなく淫靡いんび相貌そうぼうを帯びている。
(古井由吉『妻隠』(『杳子・妻隠』新潮文庫・所収)p.196)・太文字は引用者による)

 深読みできそうな細部に満ちた段落です。

 深読みかどうかはともかく、そこに書かれているイメージは、古井の文章の構造とよく似ていると私は感じます。

     *

 大切なのは、この日記体の文章が、日記ではないことです。小説なのです。もしも日記であれば、その日の出来事の報告であるとも言えます。

 そうではなくて、日記の書き手を装ったこの小説の語り手は、さらにはこの小説の作者は、言葉の中にいるのです。文字の世界にいるのです。

 執筆中の作品の中にいるという言い方もできるでしょう。ここで、ある言葉が浮んでくるのですが、それはある人の言葉なので、次の章で引用します。

*「どこでもない空間、いつでもない時間」


 古井由吉の文章を読んでいて、あるいは眺めていて私が感じるのは、たどり着ける「いま、ここ」であり、同時に、たどり着けない「かなた」にいる自分なのですが、それは蓮實重彥の言葉を借りれば、「どこでもない空間、いつでもない時間」なのです。

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『白髪の唄』の作者は、そのように、屈折したいくえもの時間のゆきかいを語りでひとつに融合させながら、語られていることのあやうさにもかかわらず、すべてをなめらかに書きついでゆく。実際、テレビ画面が伝えていた火災の光景から、炎を避けて母親と逃げまどった空襲の晩へと藤里自身の連想が移り、進退きわまって飛び込むしかなかったという見知らぬ防空壕の中で、病身だった五歳の妹が命を落としたことまで語り始めるとき、それを記述する言葉は、朝の電話口での彼との対話や、「私」の日常化した午前中の散歩という状況からはゆるやかにそれて、どこでもない空間、いつでもない時間に書きつがれてゆく非人称の言葉のつらなりへと、いつのまにか変貌して行くかのように見える。その結果、「……と話した」や「……と打ち明けた」という間接的な言辞の律儀なまでの挿入にもかかわらず、語られていることがらは、読者としての「私」の間接的な記述というより、あるとき思いたった作者が揺るぎなく筆を進めて書きつけてゆく生まれての言葉のように読めてしまう。あるいは、書きつつあるその瞬間に生成されてゆくかのようなこうした言葉と出会うための口実として、作者が、あえて説話的な間接構造をつくりだしているかのようにみえさえするのだ。
(蓮實重彥「古井由吉 狂いと隔たり 『白髪の唄』を読む」『魅せられて 作家論集』(河出書房新社)所収pp.172-173・太文字は引用者による)

 上の引用文は、伝聞をもちいた、古井由吉に特徴的な語り方を的確に言葉にした文章だと思います。

     *

「どこにもない空間、いつでもない時間」に関連して、引用したい文章があります。

 この論考の中でもっとも刺激的だったpp.237-238から、次の箇所を引用するだけにとどめます。

「人は仕事にかかる前に起こっていたことを書くこと(あるいは描写すること)はいたしません。そうではなく、書くのは創作中に起きたこと(それはあらゆる意味においてです)であり、あらかじめの漠然とした意図と言葉との葛藤ではなく、それとは逆に、意図と言語の共生なのであり、それは少なくともわたくしにおいては、あらかじめの意図よりも遙かに豊富なものをもたらすのです」(1986, p.25)と引用した後、シャック・ネフによる『フランドルへの道』をめぐる美しい論文を引きながら、彼女は、クロード・シモンの「文体的な力の一つは、断片的なものの表現(構文的、語彙的、音韻的論的な)を持続性の網の目に包括するかどうかにかかっている」(p.59)と述べており、エルシュベール=ピエロは『フランドルへの道』の作者においても、散文のテクストというものが、「生まれたばかり」のものであるという現実を威厳に満ちたやり方で示しているのです。
「蓮實重彥「散文は生まれたばかりのものである――『ボヴァリー夫人』のテクストに挿入された「余白」についての考察」(雑誌「群像2024年3月号」)

 上の引用文で引用されているのは、「ノーベル文学賞受賞時におけるクロード・シモンの『ストックホルムでの演説』」の一節ですが、これは「傑出したフローベール研究者」である、アンヌ・エルシュベール=ピエロの著作『散文の文体論』からの引用という形を取っています。

 創作中において「意図と言語の共生」が起きる具体的な場であり形となっているものが、作品の細部なのではないでしょうか。当たり前のことですが、それ以外には考えられません。ただし、今述べたことが実現されている作品はきわめて少ないのです。稀だと言うべきかもしれません。

 どれでもというわけではなく、ある種の作品の細部こそが私にとって、始まりと途中と終わりのない「いまここ」(拙文「始まりと途中と終わりがないものに惹かれる」より)であり、同時に「いまここ」でもない、としか言いようのない、宙吊りされた動きと揺らぎの場であり形だと言えます。

 そのある種の作品の細部とは、たとえば、本記事で取りあげた古井由吉作『仮往生伝試文』所収の「物に立たれて」の冒頭なのです。

*まとめ


(自分の)分身たち、ともぶれ・共振、相手に染まりやすい人物、複数化された自分(意識)、多層的・多重的な自分(意識)、多元的な場所――。
「物に立たれて」の冒頭の日記体の文章では、伝聞による視点の揺らぎとも言える細部が複数見られます。具体的には、二人の「運転手」、三人の「客」、日記の書き手を指す「姿」、深夜のタクシーに乗った書き手が車窓から目で探した「人影」――と、人物だけでも、これだけの言葉と文字があり、多重的、あるいは多層的な作りになっているのです。それだけに、ゆっくり読むとか、何度か前後を読みかえす必要がでてきます。少なくとも私にはそうです。読むと言うよりもあちこち眺めていると言うのが適切だと思います。私にとってある種の散文とは、視覚芸術であり、眺める対象なのですが、この連載で読んでいる古井の文章はまさにそれに当たります。ストーリーをたどってそれで終わるという読みは私にはできない作品なのです。

 とはいえ、人それぞれです。何をどう読もうとその人の自由です。読まない自由もあります。

 なんて、愛想のないというか、身も蓋もない言い方になりましたが、なるべく読みやすい連載を心がけますので、これからもお付き合いいただければ嬉しいです。

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