敬体小説を求めて(散文について・04)
「敬体・常体、口語体・文語体(散文について・03)」の続編です。
*敬体と常体
あれは「です・ます調」で書かれていた、とはっきり記憶している小説があります。童話や昔話を除いての話です。
どんな文体だったかを覚えている小説はそんなには多くないのですが、敬体で書かれた小説として、それがとくに印象に残っているのは、お手本にしたからなのです。
私はエッセイのたぐいはだいたい「です・ます体」で書いていますが、一編の文章をすべて敬体で通しているかというとぜんぜんそうではなく、常体をまじえて書きます。
これは意識的にそうしているのです。もっとも段落ごとにけじめをつけるとか、ある種の効果を計算して混ぜます。
印刷物やネット上にある文章を観察すると、基本が敬体で、そこに常体をまじえるという書き方は、プロアマを問わず広く行われていることに気づきます。ただし、その配分というか塩梅は決して簡単ではありません。
もっとも敬体に常体を忍びこませるというのは、作文上の工夫の一例であり、敬体で書くさいの文章の呼吸(句読点の打ち方や改行や段落分け)、単調にならないための語尾の処理(体言止めを含む)、丁寧さの度合い、漢字とひらがなやかたかなのバランスなど、注意点はたくさんあります。
こうしたものは見よう見まねで要領を覚えていく必要がありそうです。多読が必要ですね。
*『日の名残り』
敬体で文章を書く際の手本にした小説で忘れられないのは、カズオ・イシグロの『日の名残り』 です。翻訳なのですが、私は訳者の土屋政雄さんの大ファンであり尊敬もしていて、土屋訳の本を買い集めていた時期があり、しかも勉強のためにその原書まで入手していたのです。
そのころには翻訳家を志していて、その対訳の本たちはいまも二階の書棚や段ボール箱に入っています。
特に印象に残っているのは、下の写真にも見えますが、M・オンダーチェ作『イギリス人の患者(原題:The English Patient)』です。
あまりにもの面白さに引きこまれてどんどん読み進んだのを覚えています。土屋政雄さんの翻訳と原著を対照しながら、文字通り寝食を忘れて読みふけったのを覚えています。
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もちろん土屋さんの訳書のすべてが敬体で書かれているわけではありません。土屋さんによる訳書の数々や経歴については、ウィキペディアの解説がそこそこ詳しいので、そちらをお読みいただくのがよろしいかと思います。「ああ、これは読んだことがある」という発見があるのではないでしょうか。
同業者である翻訳家だけでなく、小説家や編集者からもその卓越した訳業は高い評価を受けています。なお、邦訳『日の名残り』の解説は丸谷才一による読みごたえのあるものなのですが、そこでもこの土屋訳が激賞されています。
いま手元に『日の名残り』があります。英国の執事が話者である一人称による語りになっているため、日本語にする際には敬語をきちんと処理する必要があり、これを敬体で訳すとなると日本語の達人でない限り、悲惨な翻訳になるのは必至です。
なにしろこの作品に登場するのは、話者が仕える貴族をはじめ、その貴族が屋敷に招いた他の貴族や政界のお偉方たちなのですから。そのため、語り手文章の文体が単なる敬体で済むはずがなく、日本に華族や貴族がいた時代のやや古めかしい日本語を再現する必要が出てきます。
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どうでしょう。想像してみてください。現在の英語には原則として敬語はないのです。それなのに、まるで最初から日本語で書かれたかのような、滑らかで正確な敬語を使った文章になっていることに驚かされます。
さらにいうなら「煮えきらない態度」という訳語は少なくとも私の頭にはない表現で、原文ではどうだったのだろうと首をかしげざるを得ません。
土屋氏は、センテンス単位ではなく、おそらく段落単位で、あるいは段落の前や後ろの展開を汲んで日本語を組み立てていらっしゃるにちがいありません。さもなければ、あのような自然な日本語は書けないでしょう。
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私が土屋氏の訳文で感心するのは、まず英語の読解力がネイティブ並みであること、つぎに日本語の達人であること、この二点に尽きます。あっさり書きましたが、この二つを兼ね備えた訳者はめったにいません。
たとえいたとしても、文芸翻訳という経済的に恵まれることはまずないであろう世界に身を置く人は少なく、他の分野に進むに違いありません。好きでなくてはできない職業のようです。
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ところで、英語と日本語で見た "The Remains of the Day" と『日の名残り』からの引用箇所を眺めていると、日本語の文章として比類のない完成度を持つ土屋訳と、英国で教育を受け英文学を糧とし英語で小説を書いているイシグロの原文とを同列に扱っていいのだろうかという疑問を私はいだいてしまいます。
だいいち階級差が言葉に表れるといわれる英国の英語と日本語の敬語や丁寧語は別物なのです。
英文学に反映されている階級については、新井潤美さんの『階級にとりつかれた人びと』(中公新書)と『不機嫌なメアリー・ポピンズ』(平凡社新書)が具体例が多く詳しいです。
後者には「マイノリティたちのイギリス」という章があって、その中でカズオ・イシグロの『日の名残り』についても興味深い考察がなされているのですが、とても勉強になりました。
新井潤美さんのお書きになった啓発的な著作を読むたびに、私は外国文学を翻訳で鑑賞するさいの限界を感じないではいられないのですが、素人である一個人の読書においては致し方ないことだとも思います。
もちろん学術論文や批評であれば言及する箇所は逐一原文に当たってみる配慮が不可欠ですね。
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「ドナルド・キーンのライフワークの一つに「日本文学史」というシリーズがあるんだけど、そこに訳者として名前を連ねている人たちには注目したほうがいいよ。あのキーンが信頼を置いた人たちで、英語と日本語の両方に秀でているだけでなく、古今東西の文学に通じたすごい人物ばかりなんだ。只者じゃないよ」
私が翻訳家を志していたころに、ある先輩からこういう意味のことを聞きました。以下の資料(日本文学史・中央公論社)に名前が明記されていますが、徳岡孝夫、角地幸男、新井潤美、土屋政雄(敬称略)です。この人たちの手掛けた翻訳や研究書は信頼できると、僭越ながら私も思います。
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話を戻します。
翻訳と原著は別物だというのは、突拍子もない言い方に聞こえるかもしれませんが、夏目漱石の『我輩は猫である』の東北弁訳と関西弁訳を想像してみると分かりやすいのではないでしょうか。
そんな「翻訳」が二つあったとして、原文というものがあり、その翻訳は原文と「等価なもの」であるはずだ(原著と翻訳が「等価である」かないかというのは感想であり印象であって、ある作品の細部をめぐって複数の人のあいだで意見が一致することはまずないと思います)と頭で理解していても、原文を含めた三者が同じものであるとは日本語の語感が許さないのではないでしょうか。
語感とは体感にきわめて近く、身体的なものだと思います。理屈や知識でねじ伏せるわけにはいかないという意味です。
ある文学作品に数種類の日本語訳がある場合、原文と「等価なもの」が数種類あるというのは著者と訳者に対して失礼だとさえ思います。原著と翻訳は別物であり、それぞれが別個の文学作品として評価されていいという意味です。
どんな翻訳も訳者の苦労の賜物であり、訳者の言語観と価値観が表れています。私はどの訳書にも敬意を払い、有難く読ませていただいています。
話を戻します。
語弊のある言い方になり恐縮ですが、素晴らしい日本語で書かれた作品として土屋訳を読むというスタンスもあっていいのではないかと、土屋訳の大ファンのひとりである私は考えています。
*『わたしを離さないで』
もう一冊、土屋政雄氏の訳である素晴らしい敬体小説、いや敬体で書かれた小説を紹介させてください。カズオ・イシグロの『わたしを離さないで』です。
『わたしを離さないで』の敬体は、『日の名残り』とそれと異なる気がします。
上で触れたように『日の名残り』は英国の階級社会が舞台になっているために、翻訳のさいには上下関係を適切に日本語に置き換える必要があります。
日本語の「財産」ともいえる敬語や丁寧語を駆使すれば素晴らしい訳業になることは、土屋氏の訳書が証明しています。
一方、『わたしを離さないで』で描かれているのは、1990年代末という設定ではありますが、十分に近未来的な細部を持つパラレルワールドめいた現代の英国の恐ろしい社会です。
あえて土屋氏が敬体という文体を選択して訳したからには理由があるはずだ。そんなふうに私は想像しないではいられません。なぜ、敬体が選ばれたのでしょう。
作家は出だしに心血を注ぐものです。翻訳家も同じであるにちがいありません。敬体が選ばれた理由が、ひょっと『わたしを離さないで』の冒頭にあるのではないか。私はそう考えて、冒頭を英語と日本語で比べてみました。
なお、日本語訳は、カズオ・イシグロ著土屋政雄訳『わたしを離さないで』(早川書房)から、英語の原文は "Never Let Me Go" (Vintage International))by Kazuo Ishiguro から引用させていただきます。
親しみやすい出だしですね。対訳で読んでも、うんうん分かるという感じです。次にいきましょう。
ため息が出ます。私みたいな者には絶対に出てこない訳文です。学校の英語の時間にやる英文和訳と翻訳の違いが、これでよく分かると思います。英語の文章には英語の呼吸が、日本語の文章には日本語の呼吸があることを痛感します。
きっと土屋さんの頭の中では、センテンス単位ではなく、段落、場面、章という具合に、もっと広くとらえながら、文章を組み立てていらっしゃるのでしょうね。さもなければ、こういう文章は出てこないと思います。
短いですが、ここに話者の性格上の屈折が表れていますね。日本語訳でも、それがさりげなく出た文章になっていると思います。この「さりげなく」が大切です。
屈折がもろに出ては読者の反感を買うでしょう。何しろ、この文は長編小説の冒頭の段落にあるのですから、訳者も心血を注いだはずです。小説は商品なのです。
この小説の日本語と英語の文章を対訳で読む進めるにつれ、翻訳と原著は別物であり、別の作品だという感がますます強くなってきます。
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それにしても、土屋政雄氏はどうしてこの作品をあえて敬体で訳したのでしょう。その謎の鍵を冒頭に求めたわけですが、次のような理由を考えました。
語り手が女性である(安易な根拠です)。長い手紙にも読めないことがない。(ネタバレになりそうなので抑えた言い方になりますが)この作品は現代の英国社会における――もちろんフィクションですが――一種の「告発」をおこなっている(告発は「です・ます調」でした方がドスが効いて迫力が出ます)。冒頭の引用箇所にも見られる(全体には随所に見られます)、語り手の当てこすりや、じらした言い方や、皮肉っぽい口調をやわらげるため――。
要するに、「あのさあ、大きな声では言えないだけど、実はこの国でこんなことがあったのよ」という感じの、長い告げ口の手紙にも読める「わたし」の語りをストレートに響きがちな常体で書くより、日本語の丁寧語を使うことによって、話者の皮肉っぽい性格や、意地が悪いとも取れるじらしをオブラートに包むことが可能な敬体が選ばれたのではないか。
つまり、語り手の好感度を高めるためです。屈折した物言いをする嫌な性格の「わたし」の長話など読者は読みたくありません。まして愚痴なんか聞くのはご免でしょう。
大切なことなので繰り返しますが、小説は商品なのです。お客さまは神さまなのです。
さらに言うなら、敬体で語る口調のほうがサスペンス(時には扇情)をいや増すという訳者の計算があったのではないか。そんなふうに勘ぐっています。
この妄想じみた勘ぐりを他人のせいにする気持ちはないのですが、新井潤美さんの上記の本を読んでいると、英国の小説が一癖も二癖もあるものに思えてきて、つい想像をたくましくしてしまいました。
以上は、あくまでも、素人である個人の意見および感想です。
いずれにせよ、日本語訳『わたしを離さないで』は敬体の抑制がサスペンスを盛り上げ、実に読みごたえがある作品に仕上がっています。土屋訳、恐るべし。これは敬体で書かれた優れた日本語の作品です。ぜひ、お読みください。
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そういえば、『わたしを離さないで』の巻末にある解説は、柴田元幸氏によるものです。柴田氏の訳したポール・オースター著『最後の物たちの国で』(白水社)を読みましたが、とても優れた日本語の文章だと思いました。ちなみに、この邦訳も敬体で書かれています。
*「敬体小説」
敬体で書かれた小説には独特の味があり、敬体という日本語特有の口調、あるいは文体は、当然のことながら、日本語でしか味わえないものです。古文に見られる微妙なニュアンスがいまも残っていて、それが常体にはない味を醸しだすとも言えそうです。
尊敬語と謙譲語と丁寧語からなる敬語を基盤とする敬体には大人しいイメージがありますが、敬体で語る口調がかえってサスペンスを盛り上げたり、ときには扇情をいや増すことがあります。ぞくぞくするような凄みが出る場合も珍しくありません。
敬体の名手である谷崎や乱歩や太宰、そして宇能鴻一郎や湊かなえの諸作品が思い出されます。敬体のファンである私は、敬体で書かれた小説をあえて「敬体小説」と呼びたいくらいです。
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話を戻します。
ここで一つ指摘しておかなければらないのは、『日の名残り』と『わたしを離さないで』に限らず、イシグロの小説では事実や思いを遠回しに語ったり、真実を曲げて語る話者が目立つということです。話者ではなくも、ストレートにものを言わない登場人物が多い気がします。
それが英国の小説っぽさなのかもしれません。さっと読んで意味を取ろうとしても、一筋縄ではいかないのです。英国製の小説を読んでいて、ある箇所で詰まってしまい、考えこむことが私にはよくあります。いったい何を言いたいのだろうと裏の意味を考えているのです。
白を白と素直に言わない屈折した人物の心の機微を表すには、陰影に富む言い回しが可能な敬体が適しているのかもしれません(これもまた個人の感想であり意見ですけど)。さらにいうなら、だからこそ、私は敬体に惹かれるのかもしれません。
ほのめかしの多い言い方で申し訳ありません。
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あまりにも突拍子もなく荒唐無稽な意見なので、言うか言うまいか迷ったのですが、率直に言います。
要は「敬体小説」なのです。今回の記事のテーマはあくまでも敬体で書かれた小説についてです。たとえばエッセイにおける敬体の話ではありません。
小説では人間関係を物語として書く部分があります。人と人がかかわれば、そこには必ず力関係(力学と言ってもいいでしょう)が働きます。上下関係だけではなく、駆け引きや、相手に譲る譲らないという機微もあります。
また、言葉に裏があるとか、言いたいことを言わない、あるいはほのめかすという意味での嘘もあります。言葉を文字通りには取れない、こうした微妙な感情や力関係は時と場合によって移り変わる流動的なものです。単純化して一様に描けば、作りが陳腐かつ粗雑である駄作と見なされかねません。
日本語における敬語には尊敬語と謙譲語と丁寧語という三つの要素があると言われます。こうした敬語の複層的な機能を生かすための手段として、敬体を用いるという書き方があってもいいのではないでしょうか。
その意味で、英国の階級社会を描いたカズオ・イシグロの"The Remains of the Day"を日本語の達人である土屋政雄さんが――それだけの技量を備えている土屋さんが小説を書かないのが不思議でなりません――『日の名残り』という日本語の「敬体小説」として訳したのは僥倖であったとさえ、私は思います。
私は小説もたまに書きますが、児童向けの作品以外では常体で書いています。敬体で書く自信がないからです。これからも書けないだろうと思います。小説での敬体と、たとえばエッセイでの敬体とは別物であるというのが、いまの私の意見です。
*『痴人の愛』
つぎに、敬体で書く際の注意点を挙げてみます。
よく言われることですが、です・ます調で書くと語尾がどうしても単調になり、それを避けるための工夫が必要です。センテンスを長めにするのも一つの手ですね。
例を挙げましょう。
尊敬してやまない谷崎潤一郎の『痴人の愛』の冒頭から、語尾だけを引用しました。
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こうやって『痴人の愛』の文章を改めてじっくり見てみると、文体を考える場合には敬体と常体という分け方よりも、口語体と文語体というくくり方のほうが適切ではないかと思えてきます。
つまり話し言葉っぽい文章と書き言葉っぽい文章ということですね。前者は読者に宛てた手紙っぽい文章ともいえるかもしれません。
上で見た『わたしを離さないで』の日本語訳もそうですが、『痴人の愛』では語り手の屈折した性格がその口調ににじみ出ている印象を与えてくれます。まさに手紙っぽい文章です(手紙の文体は文語体であるよりも、特定の相手に語りかける文体、つまり口語体の一種ではないかと私は考えています)。
それだけに、読む人は、自分だけにこっそり告白されているように感じるのではないでしょうか。それがぞくぞくわくわくの秘密ではないでしょうか。
ところで、この作品をじっくり書き方に注意しながら読むと、敬体小説ではなく、敬体と常体が同居する文体で書かれていることが分かります。そう感じさせないところが、谷崎の芸なのです。
具体的には、読点を上手に使う、「が、」を頻用しない、時に丸括弧で文を挿入する、体言止めを句点で終わらせずに――なぜなら「。」で終わらせると体言止めが目立つから――文に忍ばせる、適宜に用いられたダッシュ、こんなふうにさりげなく工夫をしています(このセンテンスではその技巧を使ってみたのですが、お気づきになりましたでしょうか)。
ここでぜひ指摘しておきたいことがあります。敬体で書くということは、単なる語尾の処理くらいのレベルの話ではないという点です。とりわけ、小説を敬体で書くとなると、話は込みいり複雑をきわめます。
谷崎潤一郎のこの小説では、主人公とナオミの力関係の揺らぎが、そしてそれだけではなく、主人公と主人公が向けて書いている読者との力関係が、たくみに文章化されている気がします。
ひょっとするとこの小説は読者とのかかわり方のほうに重点が置かれているのかもしれません。
何を言いたいのかと申しますと、谷崎は意識的に敬体を選んだということです。それは読者とある種の関係を持ってつながりたいからなのです。その関係とはおそらく恋愛に似たものでしょう。
愛ではなく恋に傾いた恋愛です。相手に働きかけ自分も変容するという、駆け引きの要素を含む恋愛と言うべきでしょうか。この関係を立てるために敬体を選択するという手だてが必然だったのです。
この小説の主人公は敬体でありその文章ではないか、と言えば言いすぎなのでしょうが、私は自分の中にあるそうした思いを否定できません。
『春琴抄』、『卍』、『瘋癲老人日記』、『鍵』、『猫と庄造と二人のおんな』、『細雪』――、谷崎の文体の変移を思い出しましょう。
谷崎ほど文章の多彩な小説家はいません。谷崎においては、文章と文体が主人公なのです。これは、作品の文体が書く対象と不可分だということとは矛盾しません。
少なくとも谷崎においてはそうです。谷崎における文体とは、読者との恋愛や駆け引きや遊戯を遂行するための手段だったとも言えるでしょう。書く対象、つまりテーマが大切なことは言うまでもありませんが、それ以上に書く相手が谷崎にはさらに重要な要素だったのです。
この記事で私は「敬体小説」などという突飛で馬鹿げた、また軽薄な響きのある言い回しをしてきましたが、さらに荒唐無稽な意見を言いますと、谷崎は「文体小説」家なのです。谷崎の諸作品においては文体が主人公でありテーマでもあるという意味です。
谷崎は読者と戯れるために、つぎつぎと文体――敬体か常体かの選択などは小さな問題であり、方言、手紙、日記、伝聞、会話、話し言葉、漢語調、擬古文というぐあいに、小説の体として選ばれた文章の変転は多彩をきわめていました――を変えてプレイし続けていたのです。
そうです、まさにプレイなのです。play に遊ぶと演じると演奏すると賭けをするという意味があるのはとても興味深いです。谷崎の文体のことを言っているかのような印象を私は受けます。
*敬体で書かれた小説についてのメモ
敬体で書かれた小説といえば、宇野浩二の『蔵の中』に触れないではいられません。私はこの作品を学生時代に後藤明生経由で知って読んだ記憶があります。いまは講談社文芸文庫版で持っていますが、どうも相性がよくないようで再読する気になれずにいます。とても気になる小説なのですが、機が熟すのを待つしかないという心境です。
江戸川乱歩は敬体をうまく使っている作家だと思います。作品全体、あるいは部分的に「です・ます」調や「ございます」調が用いられていることで、乱歩の独特な世界が耳もとでささやかれるような官能性を帯びた語りとして迫ってきます。お薦めは、『鏡地獄』、『人間椅子』(ございます調)、『パノラマ島綺譚』、『屋根裏の散歩者』、『人でなしの恋』(ございます調)なのですが、私がいちばんぞくぞくしたのは、長編『孤島の鬼』の「人外境便り」にある「告白文」です。どれも青空文庫で読めます。
芥川龍之介の作品では、内容に惹かれるという点で『河童』が読みやすいのではないでしょうか。『地獄変』の「ございます調」もいいですね。個人的には『藪の中』の文体がぞくぞくします。
太宰治が敬体で書いた作品としては、『 ヴィヨンの妻』と『人間失格』が印象に残っています。
そういえば、夏目漱石の『こころ』は、上中下と分れていて、「下 先生と遺書」が敬体ですが、情に溺れていない淡々とした記述の端正な文章ですね。この「下」では、「眠り」と「夢」が出てくる「四十三」が好きで読みかえすことがあります。
忘れるところでしたが、「死人にものいいかけるとは、なんという悲しい人間の習わしでありましょう。」で始まる、川端康成の『抒情歌』もなかなか読ませます。
いまいちばん気になるのは、ヘンリー・ジェイムズの『ねじの回転』が、土屋政雄訳で光文社古典新訳文庫として出ていることです。数種ある、この作品の翻訳で、敬体で書かれているのは土屋訳だけのようで興味をそそられます。アマゾンで試し読みをしただけで未読なのですが、もっと体調がよくなり、遠くにある大きな本屋さんで出会いたいと思っています。この作品を読むには、かなり体力が要りそうです。ストーリーよりも土屋政雄氏による日本語の文章を味わいたいのです。
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