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薄っぺらいもの・01
世界は薄っぺらいものに満ちています。薄っぺらいのに厚いものに、です。
薄いと厚いは矛盾しません。辞書を開くと、短い見出し語に長い語義や説明や例文があるのと似ています。
短いほど長かったり長いほど短かったりするのですが、目をうんと細めて見ると、よく見えます。
ぎゃくに目を大きく開くと、見えすぎて見えなくなり気付きません。
薄いは厚い。長いは短い。小さいは大きい。見えるは見えない。
きれいはきたない、きたないはきれい。
よいはわるい、わるいはよい。
Fair is foul, and foul is fair.(『マクベス』ウィリアム・シェイクスピア)
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薄っぺらいものは大昔から自然界にあったはずです。思いつくのは葉っぱです。
葉っぱは英語ではリーフ(leaf)ですが、ルーズリーフやリーフレットというかたちで日本語に入っています。
おびただしい数の葉っぱが、いまも至るところにあります。ただし葉っぱは厚い感じがしません。
現在目に付く薄っぺらいものは、なんと言っても紙です。ルーズリーフもリーフレットも紙だと気付いて、なるほどと感心します。
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紙はぺらぺらしていますが、そこに文字がのっかると、とたんに厚くなります。重くもなります。
文字がのっかっている紙を厚いとか重いと感じるのは、おそらくヒトだけですが、これはインクの厚みや重みのせいだけはないと考えられます。
なにしろ、文字ののっかっている紙を人が飽きもせずに眺め、大切に保存し、写しを取り、あちこちに配っているのですから、薄っぺらいだけではないことは確かでしょう。
厚いどころか、きっとぶ厚いのです。人にとっては。
重厚と言ってもいいでしょう。薄くてぺらぺらしたものをただ眺めたり大事にするほど、人は暇ではないと思われます。とりわけ現代人は。
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ぺらぺらの紙にのっかっているのは文字だけはありません。広い意味での「絵」ものっかっています。
「絵」には手描きのものをはじめ、光学機器で写したり映したもの、印刷されたもの、そして機械が描いたものがあります。
文字や絵がのっかっているのは紙だけはありません。広い意味での「板」にのっかっています。
広義の「板」とは、黒板や看板や画板をはじめ、スマホやパソコンの画面のことです。
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人は薄っぺらいものにのっかっている文字と絵を眺めているようです。
「ようです」と人ごとのように書いたのは、そうした見慣れた光景を目の当たりにして目を疑うことがあるからにほかなりません。
よく考えると不思議でならないのです。これは夢ではないかと思うこともしきりにあります。
ヒトにとって身近なヒト以外の生き物たち、たとえば犬や猫や金魚や馬や牛や豚や鶏は、ヒトが板に見入る光景を不思議に、あるいは不気味に感じているのかもしれません。
私はときどき猫が不快にしているらしい気配を感じます。そんなときには、板を手にして逃げます。
ひょっとすると「薄っぺらいもの」に乗っかるどころか乗っかかっているのは、ヒトなのかもしれません。
もしそうなら、その姿はさぞかし鬼気迫るものに見えるでしょう。
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春の朝 葉っぱに踏まれ 目を覚まし
(つづく)
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