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言葉は嗜好品(言葉は魔法・03)
言葉と文字は人にとって最強の嗜好品かもしれません。なにしろ、さまざまな嗜好品をつかって言葉と文字を呼びだそうとするのですから。
書くときに必要な物
書くときのルーティーンみたいなものが、誰にもある気がします。
まず、これがないと文章を書く気になれないという物、つまり書くときの必需品ついての話から始めましょう。
文房具にこだわる人は多いですね。愛用している筆記具はいとおしいもので、他のものを使う気にはなれないと言う作家やライターさんの意見を見聞きします。
このペンだとよく文章が書けるとか、原稿用紙じゃないと人に見せる文章は書けないとか、パソコンでしか書けなくなっているとか、スマホで書くのが習慣化している、あと愛用と言うか、つねにそばに置いておく三角定規や文鎮やパワーストーンがある、なんて言う人も多いです。
書くために必要な事や状況
いま挙げたのは物ですが、事や状況もありますね。
たとえば、書く前には散歩を欠かさない、シャワーを浴びてインスピレーション(霊感)を受けやすくする、音楽が聞こえないと書けない、逆に音がする環境では書けない、音楽はぜったいにロックそれも60年代のブリティッシュロック、わたしは何てったって演歌、ぼくはあのカフェのあのテーブルに就かないと駄目、愛猫がそばにいないと乗らない、なんて感じでしょうか。
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分かる気がします。書くためにはある特殊な精神状態が必要であったり、脳のある部分が活性化されていないと書けない、というのはおおいにあると思います。
言葉を誘い出す物や事や状況がある、それは個人差があり、人ぞれぞれだというわけです。
こうした行動は験を担ぐとも言いますが、典型的なルーティーンであるとも言えますね。
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もう現役を退かれましたが、五郎丸歩さんのあのチャーミングなポーズみたいに、あの儀式を執り行わないと「何ものか」が助けてくれないのです。物だと、かつての羽生結弦さんのプーさんもそうでしょう。
スポーツ選手やアーティストは、自分しか頼る人がいない超孤独な極限状態に身を置くわけですから、私たち書き手もまた自分をそうした厳しい状況に我が身を置く覚悟があってもいいのではないでしょうか?
書くことは真剣勝負なのです。
・書く行為は、非日常であったり特殊な精神状態下でおこなわれる。
・言葉を誘い出す事物や儀式がある。
・言葉は魔法なのだから。
言葉が降りてくる
言葉が降りてくるとか、言葉が降ってくるとか言う人がいますが、その気持ちも分かる気がします。降りるとか降るは、天や空を意識した言い方ですね。
言葉が出てくるとか、言葉が湧いてくるというのも、よく耳にします。自分の中に言葉が眠っているとか、住んでいるというイメージでしょうか。なかなか能動的で素敵な考えだと思います。
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自分を超越した存在から言葉をいただく、あるいは自分の中にある言葉を出してやる。いずれの場合にも、何らかのきっかけが必要だということでしょう。
・言葉を呼ぶサインや笛が必要になる。
・言葉を呼び出す/呼び込む、きっかけやスイッチが要る。
・言葉は魔法だから。
書くために嗜好品に頼る
え? そんなに苦労しないよ。何となく書けてしまうもん。
そう言う人もいます。じっさいに会ったことがあります。
たしかに、いつでもどこでも苦もなくノートを取り出して、その辺にあるペンですらすら文章を書く人が、かつて知り合いにいました。人と雑談しながらでも手を休めないですから、器用ですね。
その人はおもに詩と文芸評論を書いていて、書くことには苦労していないのに、女性問題でつねにトラブルをかかえていたのが、いま考えるとアンバランスで興味深い人物でした。
ちょっと前に流行った言葉で言うと「こじらせ」なんです。
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いま思いついたのですが、その人はヘビースモーカーというかチェーンスモーカーだったのですが、ひょっとするとあの人の言葉を誘い出していたのは、煙草だったのかもしれません。
たしかに煙草がないと書けない人は多い気がします。
そう言えば、バルザックはコーヒーをがぶがぶ飲みながら書いていたとか……。お酒はどうなんでしょうね。酔っ払って書くのは不謹慎でしょうが、少しアルコールが入った状態で書く人は意外といそうです。
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嗜好品という言葉がありますが、辞書を引いたり、ネットで検索すると、けっこうすごい説明というか、わくわくするような記述があります。
コーヒーや煙草やお酒やお茶だけでなく、清涼飲料水やお菓子まで嗜好品に含める解説があります。こうしたものに人間がどれだけ依存し、それを入手するためにどれだけ奔走し、争いさえ起こしていることか。
嗜好品に加えて香辛料までに話を広げると、歴史、地理、経済、政治までかかわってくる大きなテーマになりそうです。まるでジャレド・ダイアモンド著の『銃・病原菌・鉄』みたいなスケールで、人類が論じられそう。
言葉は魔法。
・無から有を生むのが言葉という魔法。
・そんな言葉を誘い出す嗜好品。
・魔法を生み出す嗜好品。
・嗜好品、恐るべし。
・ヒトにとって言葉こそが最強の嗜好品なのかもしれない。
・自然界では得られない言葉という「嗜好品」を呼び出すために嗜好品をもちいる。
・ヒトはややこしい生き物だ。
・ヒトは言葉に依存・嗜癖している。言葉なしでは生きられない。
・言葉は物神・事神・言神。
・言葉は魔法。
言葉と文字に嗜癖し依存する
言葉と文字は人を錯覚させます。快い錯覚です。一度覚えたらぜったいに手放したくない錯覚でしょう。
1)自分が隔靴掻痒の遠隔操作をしているのではなく、世界と無媒介的(直接的)に触れあっている、と錯覚する。
この錯覚を維持するためには、言葉が言葉だと、文字が文字だと意識してはなりません。
2)自分は「似ている」かどうかを基本とする印象の世界ではなく、「同じ」かどうかの世界に生きている、と錯覚する。
この錯覚を維持するためには、言葉が言葉だと、文字が文字だと意識してはなりません。
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錯覚とは、
そうではないのに
そうである
とすることです。
簡単に言えば、「ない」を「ある」にする魔法なのです。
「ない」を「ある」にする魔法を手に入れば、「ない」が「ある」になるの連鎖が起きます。
これが人の体験している現実なのではないでしょうか。この現実は夢なのかもしれませんが、同じ夢を見ているらしい仲間がたくさんいるのなら平気です。
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とはいえ、「ない」が「ある」で「ある」、「ある」が「ない」で「ある」という捏造が露呈する場合が、人に訪れることがあります。
それは、たとえば次のような形を取って訪れます。
であって、でない
であって、ではない
でありながら、ではなくなってしまう
……であって、……でない
……であって、……ではない
……でありながら、……ではなくなってしまう
「ある」に満ちた日常のなかで「ない」がとつぜん顔を出す感じです。
それは、たとえば、以上のような蓮實重彥の記述する、安岡章太郎的「存在」の身振りにそっくりなのです。
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人は言葉と文字に嗜癖し依存しています。この夢現から覚めたくないのです。
私だって嫌です。この夢から覚めたくありません。
書くために「あれ」に頼る
嗜好品のことを考えていて、すごいことが頭に浮かびました。勘の鋭い人はぴんときたことでしょう。
そうです。あれです。嗜好品から「あれ」に話が飛ぶのは必然ではないでしょうか。
薬のことです。クスリと表記すべきでしょうか。
麻薬をはじめとする薬物の助けを借りて、執筆されたらしい文学作品はたくさんありますね。真偽のほどはよく分からないのですが、そうだと言われている作品を挙げてみます。
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学生時代に『知覚の扉』(オルダス・ハクスリー著)という本が流行っていました。私も持っていましたが、ぺらぺらめくっただけで辟易しました。私には合わないみたいです。
検索するとウィキペディアの解説がありました。丸投げします。
本のデータもありました。
検索して気づいたのですが、この本についての解説記事をブログで書いている人はじつに多いです。驚きました。ファン層が厚そうです。
知覚の扉――。タイトルがいいですね。かっこいいし、詩的で知的でもあります。痴覚の扉。幻覚の扉。
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では、この方面に興味のある方のために紹介を続けます。
トマス・ド・クインシーの『阿片常用者の告白』の新訳が出たのですね。しかも野島秀勝氏の訳ですから信用できると思います。
この著作についても、優れたブログ記事が多いです。
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あとは、ウィリアム・S・バロウズと、フィリップ・K・ディックの名前を挙げるだけにとどめておきます。
フィリップ・K・ディックは一時期よく読んだのですが、いまでは興味はありません。もう読むパワーがないという感じです。
最後に、由良君美の『椿説泰西浪曼派文学談義』を挙げておきます。いまも、この本の斬新な視点は貴重であるし、こうした視点からの文学研究が必要だと私は思います。
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この種の話題になると、スコット・マッケンジーの San Francisco (Be Sure to Wear Flowers in Your Hair)(花のサンフランシスコ)1967 が頭の中で鳴ります。
・ヒトにとって言葉と文字こそが最強の麻薬・魔薬なのかもしれない。
・自然界では得られない、あるいは自分では生成できない、言葉という「麻薬・魔薬」を呼び出すために麻薬・魔薬をもちいる。
・やはりヒトはややこしい生き物だ。
・ヒトは言葉、とりわけ文字に依存・嗜癖している。
・言葉と文字なしでは生きられない。
言葉は物神・事神・言神。
言葉は魔法。
言葉を誘いだす言葉
話をがらりと変えます。
言葉を誘い出す言葉があるそうです。そんなおまじないみたいな言葉があればうれしいですよね。
自動書記(自動筆記)とかオートマティスムという考え方があって、何かに取り憑かれたみたいに文章があれよあれよと書ける状態があるらしいのです。
何かきっかけがあってそうなるのでしょうね。私は経験がないので、そんなことが自分にも起こるといいなあと思っています。
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それは極端な例ですが、ある言葉がいわば誘い水になって、言葉がどんどん出てくることはたまにあります。いや、まれにあると言うべきかもしれません。
noteで見かけたある記事を思い出しました。
誰の記事だったか、忘れたのですが、「おばんです」で始まる記事があって、思わず微笑んだことがありました。
いまもまた頬が緩みました。あれは、いいですね。何だか、ほのぼのとした気持ちになります。方言の挨拶ですね。どこの方言なのでしょう。
駄洒落を言うつもりはないのですが、近所の気さくなおばん、つまりおばさんから挨拶されているような感じがします。
書いていたのが男性なのか女性なのか、はっきりと覚えていないのですが、女性で、それも四十歳以上ではないかと勝手に想像して読んでいました。
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noteでは書き手の性別が分からないことが多いのですが、みなさんはどうですか?
どうやら私は性別を察するのが苦手みたいです。そもそも日常生活でも人生においても人付き合いがきょくたんに少ないのです。生まれてこの方ずっとそうでした。
そのせいか人を覚えるのに苦労します。顔が覚えられないし、名前が覚えられないのです。まして、ネット上だとよけいにわけが分からなくなります。
人を覚える容量がかなり少ないみたいです。
最近でもありました。ずっと男性だと思っていたフォロワーさんがどうやら女性のようだと気づきました。その逆も前にありました。
あとは、性別が不明なまま記事を読んでいる場合も多々あります。
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話をもどします。
「おばんです」の他に「僕です」「こんにちは」「お元気ですか?」「ヤッホー!」という出だしも見かけた記憶があります。
ああやって、一種の景気づけをして勢いをつけているのだろう。そんな気がします。
もっと変わったと言うか、奇抜な出だし(文中や終り方にも癖が見られます)や書くときの癖にも気づいているのですが、個人が特定されそうなのでやめておきます。だいいち失礼ですよね。
「あなたには、こういう癖がありますね」なんて、ふうつは赤の他人から言われたくはないです。私も嫌です。
それにもかかわらず、私はなぜかそういうところにやたらと目が行くのです。性格の問題でしょうね。
こういう書き出しや文中や終り方の癖やパターンは、本人が気づいていなかったり、意識していない場合が多いようです。それでいいのだと思います。
あまり意識すると、かえって書けなくなるかもしれませんね。この記事の冒頭で述べた意識的にする、書くときのルーティーンとはちょっと違うようです。
「言葉は魔法」
ところで、この記事は「言葉は魔法」という連載の一つとして書いています。
このシリーズは即興と連想で書くようにしています。勢いにまかせて、思いつくままに、書いていくという意味です。
どんなふうに書いているのかと言いますと、「言葉は魔法」と書くと、つまりキーボードで言葉を打つと、たいてい言葉が出てくるのです。出てこないときには、時間が経ってからまた試すと、たいてい出ます。
「言葉は魔法」という言葉が言葉を誘い出すみたいなのです。これは一種のおまじないでしょうね。
ちなみに、おまじないは「お呪い」と書くことができますね。「のろい」と同じになるので、避けています。
自分を縛ることで言葉を誘いだす
いまのところは、「言葉は魔法」というおまじまいに加えて、敬体(です・ます調)の文章が、私にとっておまじないみたいな役割をしています。
敬体で書かれた文章を読んでいると、こちらにリズムが移ってきて書く気になることがよくあるのです。物を書くときに使っていているPCの脇には、土屋政雄さんの訳したカズオ・イシグロ作の『日の名残り』と『わたしを離さないで』があります。
また、近くには、渡辺一夫・鈴木力衛著『フランス文学案内』(岩波文庫別冊)と下條信輔著『サブリミナル・マインド』(中公新書)も置いてあります。どれも敬体で書かれていて、こういう本がそばにあると安心するのです。
ただし、内容は読みません。書かれ方をながめているだけです。私は文章の内容やストーリーを読むのが大の苦手なのです。たぶん生来の欠陥なのだと思います。
よく冗談だろうと言われますが、冗談ではありません。奇をてらっているわけでもありません。私の書いているものをお読みなればわかるはずです。
読むことができないもの(内容やストーリーのことです)は書けません。そんなわけで、私の文章は、まばらで、まだらで、すかすかなのです。
*
話をもどします。パターンとかスタイルとか書くときの癖とか型の話をしていました。
定型というのは、文字どおり定まった型です。独自の型やパターンやスタイルやルールのあるジャンルにかかわることは、自分を枠にはめたり、自分を縛ることにほかなりません。
私は散文的な人間で詩歌は作れないのですが、日本の伝統的な定型詩には興味と敬意をいだいています。いまも多くの詠み手がいるのは短歌や俳句ですね。
伝統的な定型詩には先行する膨大な数の作品があります。そうした先人のあるいは先輩の作品を読んで自分でも詠む。「読む」が「詠む」につながる。
考えてみるとすごい話じゃありませんか。自分が大きな伝統の連鎖につながる、つらなる、つまりその一部になるのですから。
もっとも、短い定型詩ですから、同一の、あるいはほぼ同じ作品が生まれるという事態も頻繁に起こるみたいですね。私はそうしたジャンルに身を置いて活動していないので、何とも言えませんが……。想像すると怖いです。
*
やっぱり私は既存の定型詩は無理です。自分でルールを作って自分を縛るほうが身に合っていると思います。
こういうのは自縛と言うのですね。自縄自縛になったり、挙げ句の果てには自爆することもあるみたいです。自爆は怖いですね。寂しいですけど、まだ不発のほうがましです。
いま自分で自分を縛ると言いましたが、たとえばさきほど述べた敬体を使うこととか(ときどき気分を変えて常体をまじえることがありますけど)、以前だと「私」といった人称代名詞を省くなんて縛りを自分に課して書いていたことがあります。
このように、縛りというかルールを課すと、不思議なことに文章が書きやすくなるという経験があります。
きょうは大和言葉をできるだけ使おう。ひらがなを多めに使おう。カタカナは禁止。ジャズのアドリブを意識してばーっと一気に書いてみよう。この記事は常体で書くのだ。○○の文章を意識しよう――。
こんな具合に書き出してみると以外とそれがほどよい縛りになって書けるものです。私の場合には。
最後に
いまはといえば、言葉は降りてくるものでも、やって来るものでも、自分の中から呼び出すものでもなくなりつつあります。
言葉は自分の外でつくるものなのです。正確に言えば、言葉と文字は
・自分の外でつくられるもの
・自分の外でできるもの
になっています。一部の人にとっては、ですが。
*
言葉が魔法であるとすれば、「言葉と文字はその出自に関係なく言葉である」ことでしょう。
誰が書いて言葉は言葉であり、文字は文字です。それにもう一つ加わりました。
「何」が書いても言葉は言葉であり、文字は文字なのです。
「何か」が書いた文字は文字でしょうか? 文字として扱われていることは確かです。
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言葉は魔法。
文字は魔法。
文字は異物。
嗜好品もクスリもルーティンも要りません。
文字(言葉)をつくってくれる機械があれば、もう何も要りません。もう「誰」も要りません。
「何か」が書いてくれるからです。
「何」が書いても文字は文字である時代には、「誰」も要らなくなる。
文字を影にたとえるなら、文字に先立つ人を、文字が見送るという光景です。影におくれるしかない人は、影におくられるのです。
いまや、書くの担い手は、「誰」「誰か」から「何」「何か」へとうつろうとしています。そして、「誰」と「誰か」の目はうつろになりつつあります。
このへんのことについては、以下の記事に書きましたので、よろしければお読みください。
*
こうした事態の進行にには、それ相応の覚悟と対応が必要だという気がします。
ところが、それ相応の覚悟も対応も、まだ人にはわかっていないもようです。
なにしろ、人類初の体験なのですから。
わかる見込みもない気が私にはします(長く付き合っている言葉、とりわけ文字への対応すら人には皆目わかっていません)。
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