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#23 豊臣秀次の悲しき人生

 皆さん歴活してますか?
こんにちは、歴史探偵Qです。

 今回は、「豊臣秀次」について調査しました。
2月に京都旅行に行き、その際に「瑞泉寺」と
いうお寺に行きました。
この瑞泉寺は豊臣秀次や
秀次の奥さんや子供などの一族の
お墓がある事で有名です。

私自身は秀次の存在は知っていましたが、
何をして何が秀吉の逆鱗に触れたのかが
非常に興味を持ったので
今回調査させてもらいます。
よろしくお願いいたします。

▪️豊臣秀次って?

 まず、豊臣秀次ってだれ?と思った
人もいると思いますので、秀次を簡単に
説明させて頂きます。

 安土(あづち)桃山時代の武将。
豊臣秀吉の甥っ子。

秀吉の一族として若くから秀吉のもとで
一生懸命働き、活躍し17歳の頃には
近江八幡43万石の大名になりました。

 また、秀吉に子供ができなかった為、
幸か不幸か…秀吉の後継者として育てられ、
周りからも後継者として考えられていましたが
豊臣秀頼」が生まれたことで秀次の
人生が狂いだします。

▪️豊臣秀次のジェットコースター人生

 前章では秀次の人生を簡単に紹介しました。
天下人:豊臣秀吉の甥という事で順風満帆な
人生を送っているような感じがしますが……

 決してそんな事はありません。
豊臣秀吉の甥っ子という事で秀次は
非常に厳しく困難な人生を送っていました。

●最初の困難
 →「宮部家への人質」
 宮部家って?と思う方が多いと思いますが、
簡単に言うと浅井攻めの際に浅井側から
調略により織田側に寝返った武将の家です。

寝返ったは良いものの宮部家は身分を保証してもらうための証を欲しがりました。

そこで、当時の浅井攻めの担当者で
あった秀吉が安心材料としてまだ百姓であった
治兵衛(後の秀次)を宮部家へ送りました。

 一応、形式上は宮部家への養子と言う形を取りましたが人質であることは変わりません。

この人質生活は約2年ほど続きました。
浅井攻めが終わり正式に宮部家が羽柴秀吉の
臣下となった為、自分の家来に人質を出す必要がないので羽柴家へ戻ったと言われています。

 秀吉の損得で、考え一つで親をころころと
変えられる戦国時代…
農民だったのにいきなり武家の養子……
自分の身に起こると考えただけでも恐ろしい。
秀次の振り回され人生はまだまだ終わりません。

●2回目の養子
 秀次のジェットコースター人生2つ目は
三好家への養子です。

室町時代後期に京都を治め、
巷では最初の天下人と言われた三好長慶など
を輩出した三好家ですが時代の流れと共に
弱体化、最初は信長に対抗するも後に、
配下になり四国にある領土安堵を
約束してもらいます。

そこで、三好家と織田家の繋がりを強くする為に
三好家担当となった「羽柴秀吉」の甥っ子を
養子にもらいました。それが「秀次」でした。

この時は「三好孫七郎」と名乗っていました。

 しかし、ここで問題になったのが同じ四国
に領土をもつ「長宗我部元親」です。

織田信長は三好家と仲良くなる前に
長曾我部元親と明智光秀を介して所領安堵を
約束していました。
そして四国に関しては切り取り次第
言ってしまった。高知からどんどん勢力を
伸ばし、いよいよ三好家の領土にまで
手を伸ばしてきたからさあ大変……。

ここで信長が取った作戦が「四国征伐」で
自分の息子「信孝」を総大将としましたが…
あの大事件「本能寺の変」がおきます。

一応学術的に明智光秀が本能寺を
起こした説として認められているのが
「四国説」だけらしいですよ。笑

 話は秀次から大きく逸れていきましたが、
要は秀次は三好家にも養子に行っていましたが
本能寺の変後、義父の「三好康長」が
出奔・消息不明となり百姓の倅であった
「三好孫七郎(秀次)」が三好家の
当主となりました。

●秀吉からの期待
 三好家の当主となり秀吉のもとで働いていた
孫七郎(秀次)にさらなる試練が訪れます。

 本能寺の変の2年後の天正12年(1584年)には羽柴姓に復帰することになります。
理由は織田家中の争いに勝ち残り、
近畿地方にいた織田信長の息子「織田信孝」を
倒し天下人の地位を確立した秀吉にとって、
近畿地方に三好家はもう不要となったので
孫七郎は秀吉の都合で戻ることとなりました。

これは、ある意味大出世であり、大きな期待の
現れでもあります。

 しかし、人生山あり谷あり。
ここで孫七郎は大きなミスを犯します。

秀吉と家康の最初で最後の直接対決
「小牧・長久手の戦い」で味方の軍を壊滅させ、自分自身も馬を失い歩いて人に戻るなど
大失態を犯し、秀吉の怒りも相当なもの
であったそうです。

また、幼き頃から秀吉一門の人間として 丁重に扱われて周りが勝手に持ち上げて育てた
結果なのか…おぼちゃま体質になってしまい
一時期は「一族の恥」とまで言われるくらい
秀吉からお怒りを受けていたのですが……

天正13年(1585年)の「紀伊雑賀征伐」
「四国征伐」などで活躍し、汚名返上し秀吉からもお許しを得たそうです。

●人生最高の時 
 その後、羽柴秀次と名を改めました。
そして四国平定後、あの信長が建てた安土城が
あった近江八幡市に自分の居城を築きました。
そして、とうとう「豊臣」の名をもらい豊臣秀次となりました。

 九州征伐、小田原征伐、奥州征伐など豊臣の
名に恥じない仕事をし、とうとう「関白」に
まで登り詰めます。

この裏には、秀吉の嫡男「鶴松」が幼くして
亡くなり、秀吉の後継者としての順番が秀次に回って来て養嗣子となります。

 ここまでに秀次は、農民の子供から
100万石以上の領地を持ち秀吉の養嗣子となり
聚楽第を与えられ関白にまで登り詰めたと
いうか…なってしまったというか…
難しいところですが…

ですが確実に言えることはここが秀次の
「人生の頂点」だったという事です。
ここからは降るだけです……

▪️豊臣秀次の悲しき最後

 関白に就任して3年後…
1593年(文禄2)8月、秀吉が淀殿との間に
秀頼が生まれてから徐々に暗雲が立ち込めます。

 秀頼が生まれた当初は秀吉・秀次、お互いに
気を使ってか表面上は仲良く過ごしていました。

秀次は淀殿にお見舞いの手紙を送ったり、
秀次が体の調子が
悪くなった時は秀吉が朝鮮から虎の骨を用意させ秀次に送ったりもしたそうです。
(虎の骨には滋養強壮の効果があると言われていました。)

 しかし、秀頼が成長するにつれて秀吉は
そう思っていなくても淀殿やその周りの
家臣たちは忖度し、秀次が邪魔になってきます。

秀次のよくない噂や戯言を秀吉に伝えるなど
秀次の評価を落とす事を行われていた
とも言われています。

 その空気を感じてか……
秀次の生活が荒れていったと言われています。

精神的に不安定となり仕事もせず酒に女に溺れ、粗暴で不謹慎の行動が目立つようになり、
「殺生関白」と言われてしまうように
なってしまいました。(諸説あり)

 そのような状況を秀吉が許すわけもなく、
徐々に二人の仲に溝ができていきました。

 そしてとうとう事件が起きてしまいます。
秀次に謀反の疑いがかけられます。

この謀反には色々な説があり、
結局は伏見の秀吉の元へと向かうことに
なるのですが、素直に伏見に向かった説や
徳川秀忠を人質にとり家康を味方にし
豊臣秀吉と戦おうとした説、
朝廷や貴族に金銀を配り味方になってもらい
秀吉に許してもらおうとした説など
色々ありますが……

結局は、伏見に行ったものの秀吉に会うことを
許されず高野山へ幽閉となり、妻妾や子供達も
監禁扱いとなります。

 約1週間の幽閉後、秀次は切腹となります。
享年27歳と太く短い人生となりました。
秀次の最後は非常に悲しい最後となりました……

と言いたいのですが……悲劇はまだ続きます。
秀次の首をみた秀吉は怒りを鎮めてくれません。

監禁していた妻妾や子供たちを処刑することを
命じます。秀吉の側近や大名だけでなく
北政所でさえも助命嘆願を願うものの秀吉の
怒りは収まらず若君4人、妻妾・姫君・乳母など
計39人が京・三条河原で処刑され、
その血で川が赤く染まったという
言い伝えが残っています。

 身内の秀次を見せしめの為に処刑するのは
千歩譲って、しょうがないと理解しようと
思いましたが……一族全員を根絶やしにする
秀吉の恐ろしさがわかる出来事だと思います。

▪️まとめ

 悲しいことに調べれば調べるほど秀次に関する
資料が少ない事がわかりました。

秀吉が身内の汚点として情報を
残さなかったのか……

実際問題、秀次が住んでいた聚楽第や
近江八幡の城は基礎の部分まで徹底的に
壊されて秀次が生きていた証を残さないように・
ないものとするような行動が見られています。
現在も聚楽第の全容がわからない原因と
なっています。

 また、現代においても秀次研究が少ないのも
これは秀次に研究価値がないのか、
研究資料が少ないのか、資料が何処かに
眠っているのかわかりませんがこう言う
秀次(ひと)を研究する事が他の大名の研究にも
繋がると思いますので、研究が進むことを
切に願います。

今年は無理だとしても来年また秀次の墓所のある
「瑞泉寺」に行きたいと思います。
そしていつか豊臣秀次を取り上げた小説を
書きたいなと思うくらい
秀次が好きになりました。

調査報告完了。
ご覧頂きありがとうございました。

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