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🔶私の好きな奈良:弱者救済に尽力した僧 忍性 聖徳太子信仰から奈良と鎌倉への分骨まで


ほぼ完全な形で残る鎌倉時代の石造五輪塔群

タイトル写真は、奈良県大和郡山市にある、石造五輪塔群「鎌倉墓」です。
インドが発祥と言われる五輪塔ですが、日本では平安時代以降、供養塔として考案され広まったと言われています。

この鎌倉墓は8基の五輪塔から成りますが、一部に永仁五年(1297年)の銘が刻まれています。中世の五輪塔がこれほど完全な形で残っている例は珍しく、国の重要文化財に指定されています。

1982年に行われた修理事業の際、第一塔の内部からは鎌倉時代を代表する高僧「忍性」の骨蔵器および遺骨が発見されました。
実は忍性の骨臓器は、同じく奈良の竹林寺、鎌倉の極楽寺からも発見・確認されています。
どういうことでしょうか?

弱者救済で知られる忍性

忍性は鎌倉時代の僧(真言律宗)です。
「良観」という通称でも知られます。
大和国の生まれ(現在の奈良県磯城郡三宅町)で、西大寺を復興した叡尊や、唐招提寺を中興した覚盛らを師としています。

師・叡尊の影響もあって聖徳太子信仰が篤く、太子が四天王寺創建時に採用した「四箇院の制」の復興を図りました。四箇院とは、修行道場である敬田院、病を治す施薬院と療病院、恵まれない人を収容する悲田院のことです。

忍性は、全ての階層の人の救済に尽力しましたが、なかでも弱者の救済に力を入れたことで知られています。四天王寺の西門を、病者や貧者が救済を求めて集まれる「極楽土東門」として石造りに改めたのも忍性です。

また、奈良般若寺の近くに、ハンセン病などの重病者を救済・保護する福祉施設である「北山十八間戸」を建てたことでも知られています。1567年、三好・松永の戦いの際に東大寺大仏殿などと一緒に焼失し、移転・修築されましたが、国の史跡に指定され、第二次世界大戦の際は、被災者が収容されたこともあります。

奈良市 般若寺近くにある北山十八間戸

忍性が創った巨大寺院 鎌倉・極楽寺

忍性は30代半ばから、関東への本格的な布教のため、鎌倉に赴きます。
北条重時(「鎌倉殿の13人」で小栗旬さんが演じた義時の子)らの信頼を得て鎌倉でも人々の救済を続け、極楽寺を開山します。

極楽寺は開山から10年も経たずにいったん焼失しますが、忍性は巨大な寺院を再建します。江戸時代、伝承をもとに盛時の様子を描かれた古絵図によると、中央に興福寺のような東西および中金堂が配置され、北に東寺のような伽藍があり、少し離れて室生寺、熊野本宮・熊野那智大社が配位され、寺域の東には東大寺に相当する鎌倉大仏があったようです。

これは、都のあった奈良・京都を中心とした寺社を極楽寺に集約させた様に思えます。当時、元寇の来襲が伝えられている中、もし九州から西日本全体が占領されることがあっても日本文化が維持できるように、幕府・朝廷の意向を受け、その粋を鎌倉に集めて備えていたと解釈されています。

まさに時代を代表する人物であった忍性。
鎌倉に赴いてから半世紀、近畿と鎌倉を行き来しながら活動を続け、最後はこの極楽寺で87歳の生涯を終えました。

忍性と聖徳太子と額安寺

最初に出てきた「鎌倉墓」は「額安寺(かくあんじ)」の近くにあります。
額安寺は古代の豪族・額田部氏の氏寺でした。

鎌倉時代中期の書物によると、聖徳太子が釈迦の祇園精舎に倣って作った仏教修行の道場「熊凝精舎」がこの地にあったとされます。

寺のホームページによると、聖徳太子の叔母にあたる推古天皇が額に瘍ができた際、熊凝精舎への祈願により快癒したという伝承から、額安(ひたいやすらか)なる寺という意の寺号を賜ったと記されています。
近くには、推古神社という神社もあります。

忍性が出家した奈良・額安寺 「鎌倉墓」の南200m

聖徳太子信仰の篤い忍性は、この額安寺で出家の儀式を行ったとされます。
生家にも近いこの寺は、遠い鎌倉で長く過ごした忍性にとって、自宅の様な感覚だったのかも知れません。

文殊菩薩の化身といわれる行基の遺骨は竹林寺に

忍性は古くから文殊菩薩信仰に篤かったことでも知られています。

奈良時代、日本で初めて朝廷から「大僧正」の位を贈られた高僧「行基」は、東大寺の大仏建立の実質上の責任者として有名ですが、朝廷から「菩薩」の諡号を授けられたこともあって、当時は、文殊菩薩の化身であると信じられていた様です。

行基は奈良・菅原寺(現在の喜光寺)で没したあと、生駒山東麓で火葬され、竹林寺に埋葬されました。
鎌倉時代になり、墓から遺骨と墓誌が確認されています。

ちょうどこの頃に授戒したばかりの忍性にとっては、文殊菩薩やその化身とされる行基はまさに信仰の対象そのものだったでしょう。
竹林寺で修業を行ったことも、没後、自身の遺骨を行基と同じ竹林寺に埋葬して欲しいと願ったことも、僭越ながら理解できる気がします。

おわりに

忍性は本人の遺言どおりに、極楽寺、額安寺、竹林寺の3か所に分けて埋葬されました。それぞれに縁の深い寺院であったことがわかります。
それらが全て調査によって確認されているというのも、ある意味すごい事ですよね。

没後、四半世紀してから後醍醐天皇により、忍性自身も師である行基と同じく「菩薩」の諡号を授けられています。
今もなお、人々の救済のために旅を続けておられるのでしょうか…


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