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◆読書記録 夏物語(川上未映子)

彼女の小説は好きだ。
大阪独特の抑揚のある話し方、息遣いも感じられるような独特な文体だと思う。

去年8月に購入して、結局読んだのは手術前後だったので11月ごろだった。
今更ながらに記録しておこうと思う。私にとって大事な小説だからだ。

まず読み終わって、「生まれてきて良かったと思うのか、思わないのかは一体どうやって決まるんやろうか」ということを真剣に考えた。
自分の子供にそう思ってもらえるのって、どう言うタイミングでいつなんやろう。そもそも思ってもらえるのか。私は、どうやったっけ。そんな風に考えたことなかった。けど、この作品に出てくる主人公・夏子の姪っ子である緑子のように、もう目を開けていられないほどの苦痛を、無くなってしまいたいと思うような苦痛を感じたことがなかったから、そんな風に考えたことがなかったのかもしれない。
でも、そもそも子供が産まれてなかったらそんな答えのないことを考えることもなかった。

子供を産む、産みたい、産める、産まない、産めないみたいな話には、女性は特に生理が始まるころには徐々に敏感になっていくように思う。
思春期になって、好きな人が出来て、付き合って別れて、気付けば仕事して、好きなことしてる間にも、ずーっと背後には『産むの?産まないの?それとも産めるか産めないかの話なの?』と何者かわからない"何か"からの圧力を感じている。
例えばセックスをするようになってからは、『私はいつかこの人の子供を産んだりするのだろうか』など、考えるようになるかもしれない。それもある種何かの圧力であると私は感じる。

何より、妊娠・出産はタイミングありき、しかも自分ではコントロールができない類のタイミングの話なのだ。

自分が正確にいつ排卵をしているかなんて知らない、そもそも生理は来ているけど何かの病気が実は隠れていて妊娠できないかもしれない(経血の量なんて他人と比べられないから多い少ないなんかで病気なんてわからないし、婦人科の検診は痛いしこわいしできれば受けたくないのだ)、その時にパートナーがいるかもわからない。

でも一方で、自分でコントロールするのが普通と言われてしまうような事柄でもあるのだ。その普通だよという波が訪れるのは、年齢で言うと20代後半から。いわゆる多くの人が考える結婚・妊娠適齢期。親、友人、同僚、世間、様々な人たちがはっきりとは言わなくてもそういうまなざしを向けてくるのだ。
一体どういうわけか、未だにパートナーを見つけ、妊娠出産した者の方が偉いようなそんな空気になる。社内の昇進昇格と同じような、トロフィーをもらうような事柄のように扱われる。これほど生き辛いものはない。

年齢なんて関係ない。私は産みます!と言って、30代後半の女性社員Aさんが、40代の女性社員Bさんに向かって、『○○さんも、一緒に産みましょうよ!』と言ったという。
周りのもっと若い女性社員の中には、素敵です!と言っていた子もいたらしい。
その時のBさんの気持ちになると、本当に吐き気がする。
みんなでやりましょう、なんてよくもまあそんな連れションみたいに誘えたなと思うわけである。Bさんには当時、パートナーは居らずそもそも子供を持ちたい思いはなかったという。Aさんの発言ははっきり言って暴力だ。
そして、その場にいてAさんを賞賛した若手社員へも、お世辞やよいしょでもそこに価値判断をいれてはならないと伝えたい。
このようにトロフィーかのごとく妊娠出産を扱う文化が根付いているのは、明らかに女性の生き方が古くから限定されていたからに他ならないと私は思う。
女性たちの中には、女性として産まれたのだから、子供は産むべきであるという信念を持ち続けている人はたくさんいる。
そんな世の中を、少しずつ大きく変えようとしてきた女性やフェミニストたちが居て、やっと近年になって『産まない自由もある』という風潮が強くなった。とはいえ、女は産む機械と言ってしまう人間がいるように、このテーマにおいて古い信念が深く根付いていることには変わりないので女性の生き方をコントロールするまなざし(語らずとも伝わるもの)はなかなか消えないのだ。

この夏物語では、パートナーがいない(持てない)女性が、精子提供(AID)を通じて1人で子供を産み育てたいと思う気持ちに至るまでの心の動きが繊細に書かれている。
私自身はたまたまパートナーが見つかり、産みたいと思った時に産めただけなのだ。
これは、出会えていない、産めていない、出会えなかった、産めなかった、いう人たちからすれば『産めたくせに何言ってんだ』と思われてしまうこともわかっている。あえて自己批判を棚に上げて想いを綴ると、私ももし出会えていなかったら、AIDを通じて1人で子供を育てていただろうと思う。
ただ、AIDは、精子提供者が匿名であるため、出自がわからないことが理由で心に傷を負ったり、育ててくれた両親との間に溝が生じることがある。
作品の中で、主人公・夏子自身は精子提供をした男性をたまたまだけれど知っている。その人も、AIDで生まれた男性なのだ。
男性不妊を隠したい、受け入れたくないという古い家父長制の下で育った子供は、精子提供を受けたことを親から隠されていることが多い。
だからこそ、あえて伝えるのだ。あなたのお父さんはだれかわからない。それが将来子供にどのように影響するかはわからない。でも、どんな思いであなたに会いたかったのか。私があなたに会いたかったから、産んだのだ。それを知ってもらうのとそうでないのとでは、その子供の受け取り方は違うはずだ。私は絶対にこの子を幸せにしてみせるのだ。と夏子は強く強く、自分に誓うのだ。そして、夏子は自分の子供に出会ったところで物語は終わる。


男性不妊、家父長制、女性差別、生命倫理、生きる権利、産む権利、産まない権利、AID(精子提供)、これらのテーマについて多くの描写から考えさせられる。
また、この読書記録には細かく記載していないが、主人公・夏子とその姉の幼少期の貧困についても考えさせられるものがある。
貧困というキーワードが気になる方にもおすすめです。

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