『母影/尾崎世界観』の感想文
今日までの大きな課題を当日の昼頃になんとか終わらせ提出した僕は本屋へ向かった。来週から始まるテストのために1頁でも教科書を読んだ方がいいことは明白なのだが、一つの山を登り切った解放感につられ、気づけば車のエンジンを回していた。
特に買いたい本があったわけではないのだが、なんとなく面白そうな古本を数冊買って、本棚に並べておくだけでもなんとなく楽しいし、どうせいずれなんとなく読むし、なんとなくが横行する脳内でなんとなく古本屋へ行った。行動にいちいち理由を求められても困る。なんとなくでいいじゃん。なんとなく生きてるし、なんとなく大学へ通っている。そんなもんじゃん人生ってさ。
自動ドアが開くと店内から紙とのりのにおいがした。本屋に入ると中学校の頃の国語のおじいちゃん先生が、新学年の1番最初の授業に「新品の教科書のにおいが好きだ」って言いながら、新品の教科書のにおいをみんなで嗅ぐだけの授業があったことを思い出す。いやもちろん1時間丸々匂いを嗅いでいたわけではなくて授業の進め方とか、ノートの取り方とか小テストの実施方法とかそういうのをアナウンスするのに1時間使ってたわけだけど、僕があの授業で学んだのは「先生が新品の本のにおいが好き」ってことと「僕も新品の本のにおいが好き」ってことだけなわけだから、実質あの授業は新品の教科書のにおいを1時間嗅いでいたといっても過言ではないと思う。少なくとも僕にとっては。
古本コーナーを見ていると、加藤シゲアキの文庫本を見つけた。直木賞候補にノミネートされた今注目の作家であるので、古本で見つけたのは少々ラッキーであった。240円の値段も惜しくない。
あ、そういえば尾崎世界観の文庫本そろそろ出るんだったような気がする。
尾崎世界観の小説は以前にも読んだことがあり、というか出てるやつは全部読んでいて、もっと言うと、クリープハイプ自体がめちゃくちゃ好きで、とにかく尾崎世界観の口からでる日本語が好きなのである。(小説なので実際に口から出ているわけではないのだけれど)発売日はおとといだったらしく、そのまま新刊のコーナーへ行って即購入。
帰ってきて、3ページだけ読もうと思っていたが、当然止まるわけはなく、ずっと彼の言葉に引き込まれて、あーテストの勉強しなきゃなーとかいう考えは、はるか彼方へ飛んで行った。
やはり、小説というものはいいもので、何がいいんだと聞かれると明確な答えはなくて「映像や音声という媒体とは違って『自分で場面を想像すること』と『自分で読むスピードを変えられること』がいいんだよ」とどこからか聞いてきたようなことを言うんだけれども、実際のところ何がいいかはあまり分かっていなくて『なんとなくいい』の一言に尽きる。人生はそれくらいでいいのかもしれない。
ということで、小説を読んだままの熱量でここまで書いてきたわけだけど、小説の中身については本の裏表紙程度の内容しか触れないつもりだ。だって読書感想文ってそういうものだしね。『読書』した後の『感想』を『文』にするわけで、あらすじを書くわけじゃない。というか、これハードカバーだから裏表紙にあらすじかいてなかった。失敬。
主人公の母親は、マッサージに勤めている。所謂そういうマッサージ店。雑居ビルの一室にベッドが2台。それぞれカーテンで仕切られていて母親が片方の部屋で『施術』している様子を、主人公がもう片方のベッドの上でカーテン越しに見ている描写がたくさん出てきた。
知識としてそういう店があることを知っているし、1年半ほど前に一度だけそういう店で『施術』を受けたことがある。メイドカフェに来たと思ったら、「メイド服の女の子に『施術』をしてもらう」そういう店だったという流れではあるが、行ったことに間違いはない。女性経験が少ない僕はそもそも女性に肌を触れられるというだけでテンパってしまい、60分の施術のうち最初の20分ほど手をもんでもらい、後は楽しく談笑をした。(その後LINEを交換し後日二人で遊びに行ったのはよき思い出。あのバンギャのお姉さんかわいかった。)
人間の3大欲求のうち『性欲』だけ、やたらと隠されていることに疑問を持ったことがある。『食欲』も『睡眠欲』も人間の根本的な欲求で、当然のように日常生活にあふれているのに、なぜ『性』は隠すことが正しいみたいな文化になっているのだろうか。「江戸時代はもっと性にオープンだった」みたいな記述をよく見るが、そもそもおかしいのは現代で江戸時代は人間の本能に正しかったのではないかと思ってしまう
あと、『性産業に従事する女性』が受ける偏見も僕はよくわからない。子供というのは残酷なもので、主人公のクラスメイト達は、主人公の母親の仕事がよくわからないまま主人公のことを差別する。給食の配膳の時に、デザートにハムスターの糞を入れたり、母親の仕事を引用して主人公のことを『変たいマッサージ』と呼んだりする。これも『性』に対するクローズな状態が原因であると思われる。クラスメイトの親が、『マッサージ嬢の娘』として接するものだから、子供がそうなってしまうのは当然のことである。たかだか7,8年生きただけの人間に「差別」の善悪の判断などできるわけがない。20年ちょっと生きている僕が分からないのだから間違いない。
問題なのはクラスメイトやその親ではなく「マッサージ屋で働くお母さんがそのような差別を受けること」と、「母親を理由に娘が差別を受けること」である。『罪を憎んで人を憎まず』とはよく言ったものだが、そのような考え方が怒ってしまう社会について、なんとかせねばならない。
僕の両親、特に父親は、貧乏であったが、「世間の価値観」とは違う「自分の価値観」を持っていて、公園にいるホームレスと仲良くなったりしていた。世間一般から見ればおかしいことだし、幼い頃は僕もおかしいと思っていたが、今になって考えるととても誇らしいと思う。実際に話してみると、ホームレスのおじさんは世間一般が持つ「かわいそうな存在」ではなく、みな幸せに暮らしている。世間と彼らの『幸せ』の基準が違うだけなのだ。
『人よりお金を稼ぐことがよいことだ。お金をたくさん持つことは幸せである。』『性産業に従事する人間およびその周囲の人間はぞんざいに扱ってもよい。』いや、そんなわけないじゃん。
人間は弱い生き物である。弱いから何かにすがりたがる。これは歴史を見れば明らかである。『お金をたくさん持つことで人は幸せになる』なんてものは『免罪符を買えば天国へ行ける』みたいなものである。『性産業に従事する人は差別してよい』ってのは、『ユダヤ人は皆殺ししてもいい』みたいなものである。
いや、そんなわけないじゃん。
大事なのは自分で考えること。相手の気持ちを考えること。「幸せ」なんてものは親や先生やテレビに教えられることじゃないし、差別していい存在かどうか自分で考えること。多分そういうことなんじゃないかな。知らんけど。
もちろん自分で考えた結果『幸せとは我々以外の全ての人間を差別することだ』みたいな考えが出てくるの可能性もあるし、そういう人間が集まった集団は競争社会において強いから発言権が大きくなるのもとてもわかるんだけど、僕は、各々の幸せを尊重できて差別がない社会が来るといいなと思う。
そんな社会が実在するとしたら、それはもう人間である必要性はないし、そもそもそれを社会と呼ぶかどうかも怪しいような気がするけどね。
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