#108 今の自分ってどんな自分?
過去という存在はなかなかに強烈だと常々思う。
過去の黒歴史がフラッシュバックしたり、
自分を否定した過去の言葉が急に蘇ったりして自己否定することもある。
過去の出来事によって自己否定感を持ってしまうのは、人間の一種の機能なのかもしれない。
10世紀ごろに書かれた『落窪物語』を田辺聖子さんが現代の文章でアレンジをした『おちくぼ姫』を読んで、僕はそう思った。
主人公のおちくぼ姫が「もうちょっと自信持てよ」と思えるくらいに、自分を否定していたからである。
『おちくぼ姫』はこんな話
平安朝時代のころ。
とある貴族の中に、両親から虐げられている不幸な娘がいた。
その娘は、邸にある落ちくぼんだ部屋に住んでいることから、「おちくぼ」と呼ばれていた。
ろくな食事も服も与えられず、縫い物の仕事を押し付けられる日々。
これが一生続くのならば、死んでしまいたい。
おちくぼはそう思いながら、孤独に生きていた。
だが、転機は突然訪れる。
都でもひときわ評判の高い、容姿端麗な貴公子の少将が、あるきっかけでおちくぼに恋をしたのであった。
熱烈な少将からの求婚。それにおちくぼはどう応えるのか……。
そして、それによって起こりうるさまざまな問題にどう立ち向かうのか。
最後まで二人の恋の行方から目が離せない「日本のシンデレラ」物語。
過去に囚われる姫の心情
話としては、不幸な娘が容姿端麗な王子様に求婚され、幸せになっていくという、古典的なサクセスストーリー。
10世紀ごろに書かれた話なので、まさしく古典なのだが。
とはいえ田辺聖子さんの文体だからとても面白く、読みやすい小説である。
この物語の中で僕が特に注目したのは、おちくぼ姫の著しい自己肯定感の欠如である。
自己肯定感が欠如するのも当然で、おちくぼは子どもの頃から両親である中納言と北の方から虐待を受けて育ってきたのである。
しかし、貴公子・少将からの求婚を迫られれば、
「ああ、ようやく自分にも春が来た」と舞い上がるのだろう。
と思っていたのが、甘かった。
求婚されても、そして数少ないおちくぼの理解者が応援をしても、
彼女はあまりの自己肯定感の低さに、塞ぎ込んでしまうのである。
「こんなみすぼらしい私なんかに、そんな素敵な方が見てくれるわけがない」と言わんばかりに。
なんとか少将の気持ちが届き、いざ恋人同士になっても、
と常に怯えているし、宮中での仕事で少将が来れなかった日には、
と、まさしく見捨てられ不安を抱くのであった。
今が幸せでも、過去の酷い扱いによって自己肯定感が上げられずにいる。
そして、見捨てられるかもしれない、幸せが終わるかもしれないと不安に思っている。
辛い過去に囚われているおちくぼを見て、強い共感を覚えたのであった。
常に自分を更新することも自己肯定
あるカウンセラーの方に言われた言葉が、今でも強く残っている。
それは、「自分を更新してみましょう」というアドバイス。
おちくぼと同様に、僕も自己肯定感を上げられずにいた。
カウンセリングのときに「なぜ自己肯定できないのでしょう」という質問をいただき、僕はこう答えた。
太っていたところとか、努力ができないところとか。
適応障害の経験も、自己肯定感を上げられない理由の一つかも。
あと学生時代に、女性から嫌われたこともあって、女性の前では全くもって自信を持つことができない。
それを聞いて、カウンセラーはこう言った。
「それって、全部過去のことですよね?」
この一言で、僕は過去の自分に囚われていることに気づいたのだった。
日に日に自分というのは変わっていく。
かつては辛いことがあったかもしれない。
攻撃されたり、虐げられたり、酷い言葉をぶつけられたかもしれない。
けれど今は?
今、自分には何ができているのだろうか?
おちくぼもかつては酷い扱いを受けていた。
けれど、最終的には少将と一緒になっていく。
少将に愛され、少将を愛することができるおちくぼこそ、今のおちくぼなのである。
少将と一緒になったことによって、おちくぼが少しは自分を肯定できるようになっているといいなと思う。
noteを書けている。noteを読めている。
なんとか仕事をこなせている。ご飯を食べられている。
なんとか生きることができている。
どんなことでも、どんな自分でも構わない。
過去に囚われず、今の自分を見てあげる。そしてそれを認めてあげる。
それこそが、自分を更新するということなのだろう。
PCやスマホのアップデートももちろん大切だ。
しかし、定期的に今の自己像もアップデートする必要があるのだと思う。