#141 辛いときこそ食べるのだ
食事は、思いの外人間関係に影響を与えているものだな、とふと思った。
今いる職場の人たちとも、昼休みに一緒に食事をしているときに仕事以外の話をするようになり、徐々に仲良くなっていった。
上司や友達とは、「呑ミニケーション」なんていう言葉はもう死語だけど、一緒に呑みに行ったことで、職場では話さないことを話して親交を深めた。
食事は、人と人を繋げる架け橋になりうるものなのだろう。
もちろん一人の食事も、それはそれで楽しい。
特に一人の場合だと、誰かといるときより味わう余裕が生まれる。
誰かと飲むコーヒーより一人で飲むコーヒーの方が、味をよく覚えているのは自分だけだろうか。
食べる。味わう。
人間が日々当たり前のように行っていることは、心の平穏に大きな影響を与えているのだ。
これは、小説「カフネ」が気づかせてくれたことである。
カフネはこんな話
国家公務員として働く薫子は、疲弊していた。
突如弟の春彦を亡くし、それと同時期に夫から突然の離婚を言い渡された。
両親からも冷たく当たられ、自分は度数の高いお酒に走る生活——。
真面目に生きてきたのに。真面目に働いてきたのに。
必死で頑張ってきたのに……!
そんな中、過去に弟と付き合っていたせつなと出会う。
彼の遺言書の相続先に、なぜか彼女の名が書かれていたからだ。
だが、彼女の態度があまりに淡泊で、失礼だった。
遅刻はしてくるし、それに対する挨拶も謝罪もない。
おまけに春彦の気持ちである遺産を「受け取りたくない」の一点張り。
もう二度と関わりたくないと思うほどに、薫子は彼女に腹を立てていた。
だが、とあるアクシデントにより、薫子はせつなに助けられることとなる。
特に、彼女の作る料理に。
"トマトとツナの豆乳煮麺"や"お手軽ローズチョコパフェ"――
天才的な手さばき、驚異的なスピードで作られる彼女の料理に、薫子は少しずつ元気を取り戻していく。
食事で徐々に近づいていく、薫子とせつなの距離感。
やがてひょんなことから薫子は、せつなの働く家事代行サービス会社「カフネ」でボランティア活動をすることになった。
その活動が、せつなや、弟・春彦の知られざる過去を知るきっかけになっていくのだった。
よりよく生きるには食事は必須
本作にも見どころがたくさんある。
その中でも、薫子とせつなのカフネでの最初の日を取り上げたい。
カフネでの活動というのは、さまざまな理由で生活が苦しい家の人たちに代わって、料理や掃除を手伝うというものである。
この日向かったお家の一つが、シングルマザーの千佳子とその娘・鈴夏が住むアパートだ。
鈴夏は小学5年生。とてつもなく生意気で、大人にも世の中にも反抗したいという年頃の女の子として描かれている。
そんな彼女が、薫子とせつなの仕事を見下しながらこう言うのだ。
貧困家庭で苦しむ子の、反抗とも諦観ともとれるセリフ。
大人の中にだって、こう思って何かを諦めている人もいるのではないか。
これを言われてしまえば、どう返せばいいのだろう。
「そんなこと言うな」という陳腐な回答か、あるいは説教になってしまう気がする。
焦る薫子に、せつなはいつものぶっきらぼうな表情で言うのだった。
と、鈴夏の言うことを諦観で返す。
だが、ここからがいわゆる「せつな節」ともいえるセリフだ。
僕たち人間は、すべからく全員いつかは死ぬ。
日々苦しかったり、何かに悩んでいたりしても、それも絶対に終わる。
ときどき、僕も死について考えることがある。
いつか絶対終わるなら、何のために生きるのだろう、と。
とどのつまり、快適に生きるために生きているのかもしれない。
と、このせつなのセリフを読んで思ったのである。
では、快適に生きるために必要なことは何か。
それは、自分は満たされているという感覚だと、僕は思う。
食事は自分を愛する作業なのかも
この小説の大きなテーマは「愛」だと僕は感じている。
愛すること、愛されること。そして、愛情への渇望。
薫子やせつな、登場人物たちの人生への葛藤を通じて、それらをじんわりと、時には痛烈に感じることができる小説だ。
そして、愛が感じられるシーンには、とても美味しそうな食事が並んでいることも、この小説の特徴であるといえる。
本作では、薫子とせつなはその性格の違いから何度か衝突をする。
しかし、そのたびに食事をし、2人ともどこか素直になるのである。
そんな二人の様子を見て僕は思った。
食べるというのは、自分自身のことを愛する行為なのではないか、と。
食べると元気になるのは、腹が満たされるから。
もちろんそれもある。
だが、同時に自分の心が愛情で満たされるからでもあるのかもしれない。
だから、快適に生きる上では、食事は必要不可欠なのだ。
だから、辛いときに何か食べると、少し心が休まるのかもしれない。
世の中、食べたくても食べられない人もたくさんいる。
だからこそ、食べられることに感謝しよう。
食べられる僕らは、自分を大切にする手段を持っているのだから。