転職体験記
上京し看護大学を卒業後の新卒は、夢見てた東京の某大学病院の救命救急センターへ配属。なぜ救命救急センターに希望したのは、高校3年の頃、夢も希望もなく将来が漠然とした中での受験期間中に、交通事故で頭部外傷にて、くも膜下出血で記憶障害で#逆行性健忘症の診断で中学から高校までの記憶を喪失した。何もかもおぼろげで不安で仕方なく友達だった親友だった友達や彼女との記憶もおぼろげだった、喪失した記憶の中で一番記憶に残ってるのは、事故で救急搬送される最中に声をかけ手を握ってくれた救急外来の看護師さんの声かけと、手を握ってくれたことが今でも鮮明だった。
その体験から、ただただ、自分は救われた命をもって救ってくれた医療の世界に貢献したい思いにかき立てられた。医師ではなく看護師さんになりたいと、心から切実に思った。喪失した記憶の断片を拾ってくように猛勉強に励み看護大学に入り、夢見てた、救命救急センターに入職した。
しかし、期待と希望をもち自分は絶対に救命の看護師になれると信じ、自分にはできると根拠のない自信に溢れていた。
しかし、大学病院ゆえに採血や点滴のライン確保などなどの看護技術は指導してもらえず、ただただHCU(ハイケアユニット)でグラフィックモニターと呼ばれるバイタルサインの観察と患者様のオムツ交換や清拭、体位変換だけで結局何も学べず1年経った頃に、入職先の救命救急センターのスパルタ教育とパワハラでパニック障害と鬱病になった。
記憶喪失からの2度目の挫折で夢も希望も失った。
まず、心療内科で薬のコントロールができた頃、地元(沖縄)に帰り、地元の総合病院の外科病棟に転職した。
そこで初めて、一から採血から吸引、オペ出し、オペ後の看護などなど、やっと地元の病院で看護を学べ後輩もでき5年が経った頃、急に気分の上がり下がりが激しく、自分の感情がコントロールできなくなり、かかりつけの心療内科で診察したところ『双極性障害(躁鬱病)』の診断となり、業務に手が回らなくなり体調不良で休みがちになった。
結局、心身の休養のため一旦退職してしまったが、同僚からは心ある寄せ書きあのあるアルバムを頂いた。
一番、お世話になり、
一番、私をある意味愛してくれた職場だった。
そして、3回目の転職先は特別養護老人ホームだった。アットホームで看護より介護の要素の比重が重かったが、高齢者看護の楽しさを知った。認知症を抱えた利用者さんと関わることの楽しさを知り、私は認知症ケア指導管理士という民間資格を取った。
しかし、順調にみえた思った頃
また、体調不良と気分の変動の波に襲われた。それからはまた、退職し、かかりつけの病院で障害者手帳と障害年金の申請をし、1年間療養した。
3度目の挫折で流石に自分は仕事が出来ない人間なんだと責めるしかなかった。
しかし、知り合いの紹介のつてで介護老人保健施設に紹介され、4回目の転職をした。
そこでは、看取りケア・終末期ケア・ターミナルケアを積極的にされており、私自信、
救命から看取りをする看護にシフトチェンジするなかで、改めて自分の生き方も踏まえて利用者さんの死と向き合うことで、自分の死生観を熟考する機会となり、自分の生と死を利用者・患者さんから学ぶ『患者学』という分野を学んだ。
そのなかで、利用者・患者さんから最期の瞬間まで毎回言われてたのは「お家に帰りたい」その言葉が心に刺さった。そして5年が経った頃に在宅看護・訪問看護での患者様のご自宅でのターミナルケアに興味を持ち、5回目の転職は訪問看護ステーションへ転職した。
そこでは小児から成人、精神疾患、お看取りの患者様がご自宅で療養されているなかで、そこで訪問看護が携わる中で患者様の自己効力感を活かした看護の提起が、如何に看護の本質なのだと知った。
2年後私は、訪問看護ステーションの主任になる予定であったが、法人の上層部との人間関係とのいざこざで結局、別の部署に人事異動の話をされたため、感情的に辞めてしまった。
そして、今6回目の転職先は精神科病院 (認知症病棟)だった。そこは、私のかかりつけのクリニックの法人の病院でした。
今、かかりつけの病院の先生のおかげで躁鬱病の気分の波も体調不良も良くなり仕事ができた今、恩返しの思いで入職に至りました。
認知症病棟では、認知症患者様だけではなく精神疾患も伴った方もおり、忙しない日々ですが、私自身も精神疾患をもってるなか、彼ら彼女ら患者様の思いも共感できるところもあるため、その患者様の苦しみを共感したうえで距離を置きながらも自宅や施設へ自立支援できるように看護援助・認知症ケア・精神的ケアをしている毎日で、私自身、葛藤はありますが、