らは
共感同感勉強になる尊敬する記事に追記させて頂きますほし
プロフにも書いてますが、 私自身パニック障害と双極性障害をもち10年経ちました。 まず、言いたいことは 障害は障壁ではないこのように、綴った理由は、自分の今までの振り返りで感じた今の心境です。 「障害」は自分自身が生活する上では重荷となるもので、一生向き合っていかなければならない。 確かに身体・精神に障害を持つことで、社会的に「障害」という名を持った「自分」を生きなければならないことを強いられる。 それは、誰しもが対峙する確かなことです。「障害」と診断された時点で、心境
東大でも研究されておりますが ガイア理論が示唆するように地球の海洋は循環しており、そこにはガイアのホメオスタシスの影響で大海洋に並行世界が存在してるのことが明示しているように、これはガイアに限らず、コスモロジーにおける量子力学的・マルチバース理論的にも並行宇宙は存在するのですよ。 無(ゼロ)から宇宙と惑星、地球ができたように真空崩壊で虚数空間も無に還り全て無に帰しても物理世界とは関係なく我々の意識と自我は情報としてひとつの集合体として補完意思となりそれは無から新たなる空間
無(ゼロ)から 宇宙と惑星、地球ができたように真空崩壊で虚数空間も 無に還り全て無に帰す 物理世界とは関係なく我々の意識と自我は 情報としてひとつの集合体として補完意思となり それは 無から新たな空間と世界を創る 箱舟となり、 その舟旅はずっと続くものなのです
認知症の上位資格を持ってて アレなんですけど。 正味なとこ 歴史的に「痴呆症」が、 精神医学的、脳神経学的に 「認知症」へと パラダイムチェンジし 疾患としての「認知症」の概念ができてから「認知症」が多方面・他方面で 金になるビジネスになる世界線に今立ってるのは否めないのですよ。 認知症の中核症状がー!!! BPSDがー!!! 対応策はこれだー!!!! 認知症ケアはこうだ!!!」 って、んなことよりも、 逆に「認知症」から「痴呆」としての認識で接した方が心持ちとしては
まあ、沖縄県民としては、超くだらない案件なのでnoteを綴るか迷いましたが、、 まあ言いたいこと言いますわ。 そもそも、沖縄の方言の由来って奈良時代〜平安時代の万葉言葉から派生してるんすよ。 「方言札」の背景に関して、色んな識者やメディアが取り上げており、それを「差別」と結びつけて、問題を大きくしておりますが、 「方言札」に関わる言論や背景の中に なにも疑問も一切も残さない一つの真実なんて存在しないんですよ 人は主観でしか見れないし、物語れない。 それが正しいとしか語
自分の幸せなんてたかが知れてる 自分の幸せの尺度が分かったから 自分の幸せが儚く脆い事に気づいたから だからこそ 他人の幸せが美しく見える その幸せを願いたくなる 他人の幸せを願う自分に酔ってるのかもしれない。けど、それが自分の幸せなんだって心から思うんです
「生きるって重いことよ、。 死ぬって軽いことよ、。」 精神科病棟の患者さんから言われた何気ない一言がとても心に突き刺さった今日この頃です。
人は「死」に向かって生きてはいない。 生きたその結果が「死」と言われてるだけ。 結末がどうあれ、「ただ、生きただけ。」 ただ、それだけ。 ただ、唯一無二の、一つのイベント。 それ以上でもそれ以下でもない重要なイベント。それをどう捉え、どう繋ぐのはあなた次第。
メディアで多様性の矢面に立って活動していた某タレントが自死した。 その「死」にうじ虫のように寄ってたかって、今まで気にもしなかった連中が、 「残された奥さんや子供が可愛そうなど」の声を高らかに上げてて、正味、反吐が出る。 あなた達は身内ですか? 関係者ですか? 何者なんですか? 自分とは無関係な他人の「死」にまで、自分の感情に任せて勝手に的外れな共感まがいなことして故人の「死」を、残された家族がどうだとか、勝手に妄想感情移入してる時点で、故人含めた家族当事者にとってはい
ふと、日常を生きてるとふと疑問に思うことが多々ある。 人間の脳は10%しか使われてないのは有名な話だ。 脳科学や脳医学においても、脳の領域は未知が大部分を占めている。 皆も体験したことがあるだろう、 眠る時に見る夢、何故、人間は入眠中に夢を見て擬似的体験をするのか? そこに、起因するのは、脳内における神経シナプス伝達の電気信号の活動であり、いわばコンピューターでいうメモリのバックアップや再起動・再起動の情報処理作業が無意識下で行われているとも言える。 また、デジャブ(既視
誰かに、何かに、「期待」してもその先には「絶望」と「喪失」しかないんやで。 だってその「期待値」って、たかが知れてるし人間の尺度やもん。人間や、その人の起こす「期待」なんて砂の城より脆く儚いもんですよ。「期待」するぐらいなら、自分にBETしろよ。
実は去年の12月、自死を図った。 てか、言うなれば一度、死んでます。 睡眠薬をODし、自室のドアノブにネクタイを掛け首に括って眠るように、、、 辛い、苦しいのはもう勘弁してくれと。 でも、気づいたら病院の救急外来に運ばれて意識朦朧のなかで目が覚めた。 「あー、生きてるんだ」ってまず思った 「死ねなかった」じゃなくて、 死ねなかった後悔よりも、生の実感が大きかった。 それから、しばらく考えて、どう生きようか。、、と、。 死ぬことに大した理由はなかったけど、 一度、自
本当に大切なものって、 増えてくんやなくて。 失っていくもんなんすよね。
自分の人生くらいはクリフハンガーで終わらせてくれ