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或阿呆の半生【1】

プロローグ


■序論としてお伝えしたいこと

 これから私が語ろうとすることは、私の学生時代における「死に至る病」の回顧録、言ってみれば一種の省察である。振り返れば、中学・高校・大学入学までは首尾良くやった。特に、高校受験から大学受験に至る道のりは、時代や運、人との巡りあわせといった外的要因が、体力や知的好奇心といった内的要因と奇跡的なほどかみ合い、全力集中すると不思議な導きがあるかのように神がかり的なところがあった。

 しかし、その後が全く上手くいかなかった。1994年の難関私立大学合格後、やる事なす事ことごとくダメダメで、程なく破滅的な結末を迎えるに至った。在学中の様々な挫折に加え、バブル崩壊後の平成不況という時代性も相まって抑うつ的になり、終いにはパニック障害を発症した。私は就職氷河期の走りの世代だが、大学新卒時の就職も不本意だった。同世代で似たような経験をされた方々も多かろう。また、大学時代の失敗など、その後の人生如何によっては十分挽回可能であることもまた事実で、それを胸に私も頑張ってきた。

 だが、どうだろう。グローバル化の波が押し寄せるなか雇用慣行の刷新が議論されているが、いまだに学生にとって、基本的に、新卒一括採用が社会の入り口であることに変わりはない。そして残念ながら、そのとき獲得した社会的ポジションが、その後の人生に大きな影響を与え続けてしまうのも事実だろう。したがって、私の学生時代の破局的な顛末を語ることは、今の時代も何らかの有効性があると考えた。少なくとも当時の主観では余りにも破滅的かつ絶望的だった。一種の「黙示録」のようなものである。

 さて、筆者(ペンネームのつもり)の最終学歴は、慶應義塾大学経済学部卒である。偏差値で言えば当時も今も国内私立トップレベルであり、なおかつ創立当初、福澤諭吉が設置した「理財科」を起源とする国内最初の経済学部、慶應の看板学部ということになっている。

 だから何だと言われそうだが、このエッセイでは、失敗談を反面教師に教訓を得ていただくことが目的なので、その反応を見越して、今もって偏差値トップレベルの挫折体験を語ることの有効性を示しておく必要があろう。

 結論から言えば、大学入学を目指す高校生から見ても、卒業する学生を受け入れる社会の側から見ても、いまだに偏差値以外に教育や学生の質を判断できる指標が定まっていないのである。

■なぜ偏差値以外の指標を見つけることができないのか

 この問題を考えるには、グローバル時代の世界標準がどうなっているのか、それとの対比で日本の大学がどのような立ち位置を模索しているのかを考える必要がある。

 日本の産業は製造業を中心に国際競争に打って出てきたが、本来、少子高齢化で人口減少が進展し、相対的に若年者人口が減りつつあるなか、大学こそが国際競争力をつける必要があるはずである。海外トップレベルのハーバードやオックスフォードなどと伍していけるだけの引用研究論文数、留学生数、世界に通用する卒業生数の実績を上げていかなければならない。偏差値といった軛を外し、基礎学力にエッセイ・面接などといった世界標準の選考に近づかないとならない。進級や卒業の絞り込みをして質を上げる取り組みも必要だろう。

 しかし、東西冷戦が終結し、バブルが崩壊してから約30年も経過しているのに、いまだに旧態依然とした偏差値教育が有力である。これはいったい何故なのか。

 大学の在り方に関しては、2002年の学習指導要領の改訂をきっかけに「ゆとり教育」批判の議論が展開され、大学の新入生が分数の計算もできないなどといった「学力低下」の事実が明るみに出たりした時期があった。当時は、こうした事態を憂慮して、基礎学力やリベラル・アーツ教育に焦点を絞った議論が展開されたと記憶している。その頃からすでに、「世界に通用する人材」を育成するように大学教育を変える必要性が指摘されていた。

 それから約20年が経過した。「ゆとり教育」の反省から、2008年改訂の学習指導要領では「ゆとり」でも「詰め込み」でもない、バランスのとれた生きる力の育成が強調された。課題解決力を育む授業をはじめ、2020年度からは小学校の英語・プログラミング学習の必修化など、時代の要請に応えた教育が実施され始めている。大学入試も私の受験時代のような一般入試が主流ではなくなり、時代の要請に応える形で多様化しつつある。

 しかし、そこからは、LGBTQや高齢者、女性、外国人、障害者など、本当の意味での多様なバックグラウンドの人材へ門戸を開くといった意図は感じられない。国内外へ開かれた自由でグローバルな教育の必要性からそうなったというよりも、国内の減少する高校生の争奪戦のなかから生まれた苦肉の策としてそうなっているといったほうがよさそうである。

 確かに、例えば早稲田大学は学部再編をしたりして、グローバル時代に合った変貌を遂げようとしている。筆者の出身大学も、受験科目や選抜方法、カリキュラムの見直しを行い、多様性を認め、グローバルに通用する人材育成の努力をしているようだ。その他も様々な取り組みがあるようだが、詳細については寡聞にして知らない。

 中高年向けで言えば、例えば、立教大学は生涯学習の取り組みを早くから始めていた。早稲田大学もリカレント教育に取り組んでいる。筆者の母校・慶應大学は通信教育課程でそうした機会を伝統的に提供してきたといえる。しかし、今もってそうした取り組みをしている大学は、全体からすれば一部ではなかろうか。また、北欧などのように雇用が流動化していないので、せっかくリカレント教育に励んでも、「お金持ちの趣味」で終わってしまう側面がある。

 留学生の受け入れも時代の要請に逆行している。バブル期までとは違って、優秀な留学生から「日本からもはや学ぶものがない」と言われて、他国の有力校へ逃げられてしまっている。

 つまり、「入試の多様化」と言えば聞こえはよいが、少子化に伴う実質的な供給過多のなか、既得権益を維持するために教育の質を度外視して、あの手この手で学生を入学させるために「多様化らしきこと」をしているだけに思える。なにしろ、2022年度の定員割れは過去最高の47.5%であるにもかかわらず、「大学全入時代」がもうやってくるとの指摘があるからである。

 結果的にファジーな状況のなか、偏差値から脱しきれていない状態が続いている。

■「入試の多様化」という名の自己防衛がもたらす災厄

 この問題を考えるにあたり、人口動態を概観してみよう。よく知られているように、少子高齢化の影響で2008年をピークに国内人口が減り始め、高齢化率が上昇するとともに若年人口が減り続けている。厚生労働省の2022年の人口動態統計によると、出生率も出生数も過去最低を更新しその後の調査によると、子育て世帯は2割を下回った厚生労働省の国立社会保障・人口問題研究所が発表した「将来推計人口」によると、この傾向は今後も続くようだ。

 その一方で、日本経済は内需依存型から脱していない。GDP(国内総生産)を支出面から見た場合の輸出、すなわち「外需」の割合を見てみよう。内閣府の2021年度「国民経済計算」のなかにある「国内総生産(支出側)・名目・年度」によると、国内総生産は約551兆円、財貨・サービスの輸出は約104兆円となっており、輸出の占める割合が約19%となっている。輸入を控除した純輸出は、約7兆円の赤字である。

 人口減少と若年者減、そして内需依存型経済──。今後もこの傾向が続くなら、国内需給は縮小均衡し続けることになるだろう。消費や生産主体の母数が減るだけでなく、相対的に意欲の高い若い人々が少なくなるわけだから、DXやその一つのロボット・RPA(事務作業の自動化)の導入を強力に進めて1人あたりの労働生産性を上げ、GDPの輸出(外需)割合を増やしたり、米国のように労働市場の新陳代謝を活発にしたりしない限り、国内経済は衰退の一途をたどる可能性が極めて高いといえる。

 こうした文脈から本来、大学のあり方を考えねばならないのだ。

 しかし、実際はどうか。主に私立大は、助成金頼みの経営大学無償化によって、市場が歪められてしまっているのではないか。通常、供給過多であれば市場価格が下がるはずなのに、私が大学生だった1990年代よりも授業料が値上がりしている。何故なのか。規制で参入障壁が高く、不完全競争市場ではあるものの、独占・寡占ではないことを考えると、生き残りをかけた価格操作に加え、「大学全入時代」でさらなる「大学の大衆化」が進展し、供給過多以上の需要が創出されているからだろうと思われる。つまり、大学当局は本来、供給過多で淘汰され、グローバル標準に刷新すべく自己改革を遂げないとならないのに、国内市場にしがみつき、なんとか既得権を維持すべく国内市場の開拓に勤しみ、入試の「なんちゃって多様化」を展開し、それに乗じる高校生が「全入」しているという構図が浮き彫りになるのだ。

 これでは、本末転倒だ。本来、グローバル市場で競争して大学の質を上げなければならないのに、時代の要請に逆行することになる。なぜなら、大学が学生に迎合し、学生もたいして勉強しなくても入学できて、卒業もできてしまうからである。

 ミクロ経済学の観点から言えば、厚生の損失と市場の失敗をもたらす。

 厚生の損失(死荷重)というのは、資源配分に無駄があるということだ。市場の余剰分析を行うときの概念で、基本的に完全競争市場の場合はこうした無駄が発生しない。効率的に配分できているということだ。ところが、助成金も大学無償化も財源が税金なので、その分市場価格が引き上げられ、総余剰が減って厚生の損失が発生する。納税者は税金を払っているのに大学当局の自己保身に利用され、却って社会的コストを背負わされているということになる。

 市場の失敗というのは、情報の非対称性による逆選択のことだ。国内大学が時代の要請に応えているようなプロモーションを展開すればするほど、優秀な学生は海外トップレベルの大学へ進学してしまうし、海外からの留学生も逃げていくだろう。優秀な研究者も国内だと基礎研究も独創的な研究も予算がつかないので、米国などの希望が叶う環境へと逃げていく。実際、こうした現象は近年目立ってきている。まさに「悪貨は良貨を駆逐する」だ。

 一つの仮説だが、質が低下する所以ではないかと憂慮している。

 なお、このエッセイでは、大学関係の叙述は事実関係を語るうえで固有名詞(人物名以外)を書かざるを得ないのでそうする予定だが、その他に関することは、諸事情を勘案して、基本的には架空の名称を付して事実関係を追えるようにする予定である。ご了承願いたい。

メメント・モリ

(続く)

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