見出し画像

瑞々しい知覚の多重奏(リディア・デイヴィス『話の終わり』読書メモ)

何度も訪れたくなる小説に出会った。



リディア・デイヴィスの長編小説『話の終わり』は、体験を有機的に分解する。他者のわからなさ。自分のわからなさ。記憶の不確かさ。これらがひとつの恋の始まりから終わりに沿って丁寧に記されることで生々しい実感とともに読者に訪れる。「生々しい」といっても、彼女の描写に体液が滲むような箇所はほとんどない。代わりにあるのは、目前の事実や、どこまでも精緻な感情、生き生きとした自然の写生だ。

何が生々しいのか。何が生々しさを生み出しているのか。ひとつの側面は、切り立ての生花の茎のように瑞々しく鋭利な感情の描写にある。
全編抜粋したいのだけれど、色々なルールに触れるので、仕方なく、お気に入りの3箇所を下に引用してみたい。

けれども彼と別れてから振り返ってみると、あの始まりは、その後に連なる無数の幸福な瞬間の最初の一つだったというだけでなく、すでに終わりを内包していた。私たちが大勢の人々に混じって座り、まだお互いに何も知らないまま彼が私のほうに顔を近づけて耳元でささやいていた、あの時の店の空気の中にすでに終わりは忍びこんでいたし、店の壁も終わりという名の素材でできていたように思えるのだ。

彼がいまいる場所も、その後この家に来ることもわかっていて、それを手を伸ばせば届くところに実っている熟れた果実のようにありありと甘く感じながら夕べの時間を楽しく過ごし、夜が更けるにつれ、彼の車の音を、そして門に向かって歩いてくる彼の足音を、心待ちにしはじめている、そんな日の記憶が自然によみがえってくる。

ではなぜその倦怠が私をあれほど居心地わるくさせたのだろう。空疎さのせいだった。彼と私とのあいだに、周りに、空虚で何もない空間が広がっていた。その中で私は、この男と、この感情とともに閉じこめられていた。空疎さ、それに失望もあった──かつては完全であったものが、こんなにも不完全になってしまったことへの失望が。

秋口に急速に芽吹いた恋の躍動。艶やかな感情が期待に弾むさま。寒さが増すとともに愛が過ぎ、倦怠の訪れに空虚さが漂い出すとき、内側を伝う冷ややかな失望。彼女は恋愛の季節を繊細に投影する。

他方、物語の構造は読者に知覚の生々しさを意識させる。彼を求める「私」と、それを描く小説家の「私」。執筆が進むとともに、序盤の曖昧な記憶を思い出し、以前の記述と矛盾し、事実を加工し、無意識の捏造に気づく。小説家の「私」は記憶に実体を与える過程を詳らかに語り、読み手の私は彼女に生成変化する。かつて分かったと思ったこと、それはある一瞬の後には別の事象に姿を変え、かつて感じたことも別の感情として固定される。文章を追うごとに、私たちの手許にあったはずの記憶も同調し、形を失い溶け出してゆく。

瑞々しい感性が不確かさとともに読者の内に流れこむ体験は、知覚の生々しさを二重に浸透させる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?