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パリが私を離してくれない
2023.09
サンセバスチャンから父親の運転でトゥールーズへ戻り、そこから飛行機でパリに移動してきました。
両親とは最初の1日だけ一緒に行動して、別行動で楽しむことに。
パリにはたったの2泊3日しかなかったので、やりたいことはたくさんあったけど、あえて詰め込めすぎず、3つだけ目標をたてました。
私がnoteを始めた大きな理由の一つに、このパリでの経験があります。
このパリでの3日間で感じたことを一生忘れないでいたいと思ったから、その時の気持ちを書き残したいと、このnoteを始めました。
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①住んでいた家を見に行く
小中学生の頃、3年ほど家族でパリに住んでいました。あの頃の3年が、私は今でも忘れられません。
耳。
飛び交うフランス語。
街の中を走るパトカーのサイレンの音。
バスの運転手のおじちゃんが流すラジオの音。
下の階のお庭から聞こえる鳩の鳴き声。
鼻。
腕に抱えている焼きたてのバゲットの香り。
街のパティスリーから香る甘いメレンゲの香り。
メトロの地下鉄のツンとする匂い。
通学路のアスファルトから香る雨の匂い。
目。
毎週末のように連れっていってくれた美術館で見た数々の名品。
ブローニュの森に生い茂る木々の緑。
セーヌ川に太陽が反射している光。
他にも、キックボードに乗って感じた風、通学路に必ずいるヨークシャーテリアの毛並み、ミニシアターで見た初めてフランス語の映画、バレエスクールにあるトゥーシューズ用の独特のニスの香り。
五感が、身体中が、パリでの日々を十数年経った今でも覚えていました。
住んでいたアパートを両親と見にいった時、「残っていて本当によかった…」と心の底から思いました。
初めてフランス語でおつかいをしたブランジュリー、
キックボードで滑って転けてしまった通学路、
誕生日にもらったパステルカラーの花束、
母親と日が暮れるまで絵を描いたポン・ヌフ、
何度もショッピングにでかけたオペラ(日本語の本が欲しくてジュンク堂やブックオフは毎週のように連れて行ってもらっていた)、
男の子に初めて告白されたバス停、
友達と喧嘩をして気まずくなってしまった広場、
先生から怒られてこの世の終わりかと思った夜を過ごした部屋、
初めて1人で乗ったRFRの駅、
部屋の窓から見えたエッフェル塔。
「地元」や「実家」と呼べるところがなく、成人式も参加できる場所がなかった私にとって、パリは青春が詰まった思い出の場所でもありました。
帰国子女としてフランス語がまともに話せないので、日本に帰国してからしばらくはフランスに住んでいることを隠して過ごすような、そんな生活を日本で送っていました。だけど、自分の人格が形成されたと言ってもやっぱり過言ではないのではないか、とここに帰ってきて改めて振り返ることができました。
人生の一部分、いや大きな部分を占めていたのに、帰国してからは蓋を閉じて過ごして見ないふりをしていたのだと思います。
楽しかった、だけじゃない思春期の多感な時期を、ここで過ごせたこと。両親とこうしてまた来れたこと。
思い出すことで切なくなることもあるけれど、私の人生の中で紛れもなく愛おしい瞬間だった、と振り返ることができました。
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②通っていたバレエスクールの友達(日本人)に会う
幼少時からバレエを習っていた私にとって、パリでバレエを習うことは夢のようなことでした。バレリーナになれるかも、とフランス人に混ざってレッスンを受けました。
もちろんフランス語は何も話せなかったので、先生は英語を使ってコミュニケーションをとってくれるも、その頃の私には先生の言う「Do you understand?」さえもわからず、笑われていること、も感じ取れませんでした。
見よう見まねでレッスンには追いついていると自信はあったものの、この日本人は話すこともできない、というような先生達のやりとりを見て、幼いながらも私は先生達に飽きられているのだ、と感じる日が多くなっていました。
そんな時、救ってくれたのが3つ年下の日本人の女の子。
その子は幼稚園の頃からフランスに住んでいて、インターに通っており、英語もフランス語も堪能、バレエも上手でした。
先生に指摘されたことをすぐ隣で通訳して教えてくれ、彼女が間に入ってくれることで、初めて笑顔で先生とコミュニケーションがとれた日のことをよく覚えています。
生まれて初めて、言語のパワーを感じた瞬間でもあります。
どうせフランスには少しの滞在だし、話せなくても問題ない、と思っていた自分がいたんだと思います。当時の私はフランス語に対する熱意もなく、なんとなくレッスンを受けていたので、反省しました。
すぐに母親に頼んで、英語とフランス語の家庭教師をつけてもらい、猛勉強しました。学校でも最下位レベルのクラスに所属していましたが、すぐに上級者クラスに入ることもできて、それが語学へのモチベーションに繋がっていったのだと思います。
そんな彼女と10年ぶりに、またパリで再会することになりました。
語学レベルは遥かに私が下でしたが、私の方が年はお姉さんなので、懐いてくれているような妹のような存在でした。
そんな彼女が今ではとても美しくて凛とした女性になっていました。
10代前半だった私たちからは想像できなかった世界。
幼かった私たちがこうしてお酒をパリで交わしている。
彼女が住んでいるマレ地区にあるおしゃれなバルでアペロをして、2軒目としてバーで楽しみ、最後はお家まで紹介してくれました。
親元を離れた後でも1人でパリに住んで、ファッションを勉強している彼女はとっても生き生きとして、自分の人生に自信を持っているように感じました。
こうやって好きなことに対して情熱を持って、フランス人と混ざって闘っている姿、かっこよすぎました。
ルールに従って、レールに沿って生きていた私はどんなに楽な人生を歩んでいたんだろう、と。
自分の人生に少し負い目を感じているのが、少しずつバレてしまって恥ずかしいような感覚でした。
それと同時に、何故私は日本に帰ってきてしまったのだろうと思いました。そのままパリにいたら、海外にいたら、今頃何者かになれていただろうか。何かに夢中になれるものを見つけれていただろうか。
海外に住んでいるだけで満足している自分にはなりたくなかったのに、やっぱりそんな気持ちが蘇ってきてしまいました。
でも、自分の意思で、目的を持って闘い続けている彼女はとってもかっこいい。いつか彼女のような人生を送ってみたいと思いました。まずはそんな自分を認めてあげること、これは私にとって大切な一歩だった、と思います。
彼女から「いつかパリに住めたらいいね」と、悟ってくれたような言葉をもらってなんだか照れ臭い。
「これからの人生、交われるといいね!共有しようね!」という最後の言葉に心が温かくなりました。
何者でもない私だけど、何かにパッションを持って生きている姿に憧れて、少しほろ酔いなのもあって帰り道はなんだか自分も生き生きとした気分。
パリにいるだけでそんな気分になれてしまう私はとっても簡単だけど、これが自分にとってすごく大切な時間でした。
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③高校の友達(ベルギー人)に会う
14歳になったある日、フランスからアメリカへ引っ越しをすることになりました。
忘れもしない7月14日。
たまたまフランス革命の日で、空にはトリコロールの色で鮮やかに染まっていました。
英語も拙いまま、アメリカの学校に飛び込んでいった私は、そこで同じく新入生のベルギー人の女の子と仲良くなりました。
英語のレベルも同じくらい、少し困ったらフランス語も混ぜながら。
フランスからアメリカという全く正反対のカルチャーの国に来て、なんとかやっていけたのは彼女の存在があったからだと確信しています。
高校を卒業してからも、日本に遊びに来てくれたり、アメリカで再会したり、誕生日にはお祝いし合ったり、連絡を続けていました。
彼女もたまたまフランスにいるということで、サクッとモンマルトルで待ち合わせ。
何年経っても近況を報告し合ったり、世界中で会える友達が作れたのは、紛れもなく両親のおかげでもあり、先述した語学のパワーのおかげ。
まずはフランスでこうして自分の世界が開いていったんだと思いました。
彼女はプロの映像ディレクター。
私より2つ年上の彼女は、キャリアと結婚で揺れているという悩みを共有してくれました。
なんだかんだ、日本もどの国でも、アラサー女性が当たる壁は一緒なんだな、と。
たったの1時間での会話でも、十分なくらい私たちは繋がっている、とお互いに確認し合えた時間でした。
(当時やっていた交換日記は誰が持ってる?という青春ぽい会話ができて、大人になるってなんかいいなとも思えました。)
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やってみたい
もう一度パリに戻って来れたら
経験したいこと、挑戦したいこと、これからも大切にしたいこと、たくさんの刺激をくれたパリ。
短い期間だったけど、たくさんの感情を生み出してくれました。
次にまた戻ってくるには何かしら「何者」かになっていなきゃ、パリは自分を受け入れてくれないだろう、とも感じました。
パリ滞在の最終日に、両親が一緒にご飯を食べようと誘ってくれ、トロカデロの近くにあるレストランで待ち合わせをしました。
メトロを降りて地上まで階段を登り、上を見上げた瞬間に目に入ってきたエッフェル塔。
その瞬間にピカピカと光り始めました。
「あ、シャンパンフラッシュ」
そう気づいた瞬間、
身体中の全細胞が「まだここにいたい」と叫んでいるかのように、大粒の涙がどんどん溢れました。
何の涙かはわかりませんでした。
その時は、明日にはパリを離れなきゃいけないという現実に、なのかな、と。
胸が潰されそうなくらい苦しくて苦しくて、涙が止まりませんでした。
泣いていたと悟られないようその涙を拭いながら、急いで両親が待つレストランへ走った時。
次は笑みが溢れてきて、「あぁパリの空気を吸ってるだけで満たされてるんだな〜」と心の底から思っている自分がいました。
パリに夢を持ちすぎだ、という人もいるかもしれない。
だけど、こんなにも愛している場所がある。
幸せの涙だと確信しました。
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そこから日本のお友達へ何度も手紙を送った
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タイトルの「パリが私を離してくれない」は、このパリ滞在中に、夫となる人から「パリが貴女を離さないね」というメッセージをくれて、パリへの想いをわかってくれた気がして嬉しかったことを思い出して、付けました。