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何事においても行き過ぎは良くない

古代ギリシャ人達の考え方が哲学として今でも受け継がれて、現代でも多くの人の心を掴んでいるのは、恐らく古代のギリシャ人達が人間の本質的な弱さの様なものを見抜いており、現代の人間がまんまとその弱みに漬け込まれているからであろう。

例えば、我々が古代哲学を学ぶ際に一番古い哲学者として必ず登場するソクラテスは『無知の知』を説いた。

彼は実は何も残していない。

我々が知っているソクラテスに関する事実のほとんどは弟子のプラトンによって書かれたものだ。

つまり、文章としても何も残っていないわけだが、それだけでなく考え方や概念としても何も残していないのがソクラテスだ。

彼はどこまでも謙虚な男で、『俺たちは本当は何も知らないんだぜ』ということを問答法を使って証明しただけである。

しかし、現代の世界では、自分はなんでも知っていると思い上がることがいかに危険かを誰もが感じているはずだ。

まるでこの危険を察知していたかのように、彼は死刑になってまでそのことを証明しようとしたのだ。

ソクラテスだけでない。弟子のプラトンは、哲学の基本である『存在』に関する考え方を大きく変え、ニーチェの登場くらいまでは彼の考え方が哲学界を席巻していたわけだ。

プラトンの弟子であるアリストテレスも『万学の祖』と呼ばれた天才であり、現代でも彼の言葉に感動する人間は数えきれないほどいるだろう。

彼は、現代でこそ、その欠如が露呈したことによって重要性が叫ばれている『理性』の重要性を既に見抜いていた。

他にも古代ギリシャの知識人は山ほどいるわけだが、彼らは現代の我々が抱える人間の問題を見抜き、その問題への策を講じていた。

そんな古代ギリシャの倫理学の一つが、今回のテーマでもある『何事も行きすぎるな』である。

ギリシャ語では『メーデン・アガン』というらしい。

そして、このメーデン・アガンの原則を守る人たちのことを『ソープロシュネー』と言った。ソープロシュネーは『中庸』ということであり、この中庸は自制や節度を意味していた。

アリストテレスはこの『中庸』を大切にしており、多すぎるのも少なすぎるのも良くないと考えていたし、

ソープロシュネーのない人には倫理的な欠陥があり、誠実さに欠けていると考えられていたそうだ。

僕自身、何度か自制心や誘惑については書いているが、まさにそんなタイムリーな問題にも古代ギリシャの人たちは取り組んでいたわけだ。

しかし、決してストア派のように、聖人君主のように、全ての私利私欲を禁ずるというものでもない。

ソープロシュネーは決して自己否定でもなく、少なすぎる自己コントロールと行きすぎたコントロールのちょうど中間を見つけ出すことなんだそうだ。

つまり、ソープロシュネーとは、

『自分の欲望を把握しており、さらに欲望を把握していることに喜びを感じている』

『なぜ意志の力は当てにならないのか』

という意味である。

そう考えるとメタ認知っぽくもあれば、認知療法っぽくもあり、現代の考え方に通づる部分は多くある。

ただ、彼らの何が優れているかと問われれば、恐らくこれらの人間の本質的な弱さとその解決策を大学の博士号も優れた科学技術もなしに見出していたことだろう。

先人から学ぶとはよく言ったものだ。

何事においても行き過ぎは良くない。


最後まで読んでいただきありがとうございました。

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