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「~でなければならない」という義務感

「~でなければならない」「~すべきだ」という義務感を振りかざす人が多い。

「お金を稼がなければならない」「良い人でなければならない」「ルールは守られるべきだ」など強い義務感に囚われ、自由を失っている人は沢山いる。

我々はこの「~でなければならない」という考えを必然的に行っている。当たり前のように、あたかもそれが真実かのように。

しかし、本当は面倒な問題を避けるための慣習的な思考にすぎず、決して論理的な思考ではない。

つまり、「~でなければならない」という事は存在しないが、そういう事によって別の問題が起きる事を避けているだけなのだ。

例えば、「生活の為にお金を稼がなければならない」というのも、どうして生活の為にお金を稼がなければいけないのか?という根本的な説明をされると答えられなくなる。

ただ、新しい環境への変化を恐れ、生活を言い訳にして「稼がなければならない」と決めつけているだけなのだ。

我々人間は決めつける生き物である。

根本的に人間は考えることを嫌い、決めつける事で考える事から逃れようとする生き物なのだ。

例えば、SNSの投稿を信じ込み、「この芸能人はこういう人だ」と言っている人は典型的な例である。

彼らはそのほかの可能性を考慮したりはしない。

自分の頭で考えず、五感で感じたものだけを使って決めつけるのだ。

「~でなければならない」という義務感も一種の決めつけでしかない。

実際、考えてみるとそうでもない事の方が多かったりする。

しかし、その決めつけを否定した後に待っている変化や恐怖を経験したくないのだ。

この考え方はDavid Humeの懐疑論の考え方に通じている。

懐疑論は、我々が当たり前だと思っている事に疑問を投げかけ、その当たり前の信念を壊してきた。

過去に疑う事の大切さについて書いたような気がするが、人間の思考は疑う事から始まる。

社会の常識やルール、皆が当たり前だと思っている事が本当に正しいのか、本当にそれでいいのか、疑う必要がある。

それと同様に、「~でなければならない」という思考もなぜそうでなければならないのかを突き詰めるとおそらくその信念は破壊されるだろう。

そして、その義務感はあなたの何かしらに対する恐怖によって作り出された虚像であることが明確になるだろう。

例えば、「すべての人に対して良い人でなければならない」と思っている人は、「良い人」ではなくなる事によって周りから人がいなくなり孤独になる事を恐れているのかもしれない。

もしくは「良い人」でなければ誰かに怒られる気がして、それに怯えているのかもしれない。

どっちにしても我々が抱える義務感は恐怖を正当化する為の物でしかないという事である。

もし、当たり前のように「~でなければならない」「~すべきだ」と思っている事があれば一度疑ってみると良いだろう。

恐らく何の論理も展開されないだろう。

「~でなければならない」という義務感。


最後まで読んで頂きありがとうございました。

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