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何であれ、人は自分でまいているもの、それをまた刈り取る事になる

この言葉を聞いた事がある人もいるのではないだろうか?

この言葉は聖書の一説である。

簡単に言うと、自分の行いは全て自分に返ってくるという事である。

例えば、あなたが無駄にした時間は、いつかあなたを苦しめる。

あなたがその場の誘惑に負けて過剰に摂取したお酒は、いつかあなたの健康を害す形であなたに返ってくる。

あなたが私利私欲のために騙した人々は、「裏切り」「孤独」という形になって返ってくる。

このように自分がした事は、必ず自分に返ってくる。

僕自身、大学でそれは身を持って実感した。

僕の大学には定期的に課題があり、その課題の提出日は何週間も前から決まっている。

なので、3週間もしくは4週間前から準備をし、課題に取り掛かるのだが、やはり「まだ時間あるし」と本腰は入らない。

そして、ちょっとした甘えから友達と飲みに行ったり、遊んだりしてしまう。

その時は楽しいが、その時間が提出のギリギリにのしかかってくる。

毎度、提出日の前日はオールで書き上げ、朝一に提出をするという生活になっていた。

そして、その度に「あの時飲みにいかんとやっときゃよかった。。。」と思っている自分がいた。

その時は何となくそう思っていたくらいだが、この聖書の言葉を聞いた時に繋がった気がした。

僕は自分で撒いた物を自分で刈り取っていただけなのだ、と。

そして、その時学んだ事は、自分で撒いたものは他の人は刈り取ってくれないという事である。

自ら害した健康を誰かが保証してくれるなんて事はないし、

自ら無駄にした時間を誰かが与えてくれる事もない。

さらに、自分で犯した問題は誰も解決してくれない。

自分の問題の答えは自分の中にしかない。

もちろんヒントはいくらでも転がっている。誰かに話したり、それこそ聖書を読む事で人生のヒントはいくらでもある。

しかし、そこには答えはない。なので、答えを求めて本を読み漁ったり、人の話を聞きにいく人はより悩むのだ。

少し脱線したが、自分が問題を犯せば自分でケツを拭かないといけない。

誰も拭いてくれない。

しかし、誰かがどうにかしてくれると、自分が撒いた物を誰かが刈り取ってくれると思っている人が多い。

これは甘やかされた子供時代に原因がある。

子供の頃は学校で怒られても、喧嘩をしても、物を壊しても、親が頭を下げ、親がお金を払い、親があなたの撒いた物を綺麗に刈り取っていた。

今の時代、それが高校まで続く。18年間、他人にケツを拭いてもらっていた人が急に自分でケツを拭けるようになるとは思えない。

なので、自分の行動が自分にどのような影響を与えるかが理解出来ていない。

いつまでも自分のした事は誰かが責任持ってくれると思っている。

しかし、自分のした事は全て自分に返ってくる。

何であれ、人は自分でまいているもの、それをまた刈り取る事になる。


最後まで読んで頂きありがとうございました。

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