魂の存在と不滅性
エッセイと言うよりも小論文です。以前、ロジックを詰めてどこまで書けるかと書いてみました😌フランスの哲学者ベルクソンは、魂の存在など神秘主義的な事象にも言及しています🤔特にベルクソンの著書「精神のエネルギー」や「物質と記憶」に影響を受けて書きました。また評論家小林秀雄も彼を語る時ベルクソンを避けて通れないほど影響を受けたようです。所謂、宗教は人間の持つ「仮想機構」の産物であり、人間知性の死に対する怖れの反作用として自ら生み出されたものだと説明されます。宗教では無く本質論的に魂や彼岸の先を考えてみました🕌
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脳死とは完全な死なのだろうか。昨今、脳の構造、働きが科学的に明らかになるにつれ、脳活動の停止は、精神活動の停止、つまり脳死とは人間性の死そのものであるという認識が定まったように思う。私自身も、脳活動の停止である脳死を死と考え、脳活動の停止は、永遠の終わりであろうという漠然とした考えを持っていた。この問題は、既に片付き、決着がついた問題なのであろうか。
この問題は還元するならば、脳と精神の現象とは、並行的な対応関係を持っているという心身並行論という仮説に基づいている。科学的に脳活動が明らかになれば、精神活動というものも詳細に分かるという道を突き進んできた結果生じた結論だと思われる。
心身並行論は、学生時代に、一度、私を捉えた問題なのであるが、その後、あまり深く考えないままに脳活動の停止を死と捉えていたように思う。最近、新潮社より出版された小林秀雄『学生との対話』(1)という本を購入して読み、再度、この問題について、考えるようになった。この本は小林秀雄が、九州に赴いて、全国六十余の大学から集まった三、四百名の学生や青年たちと交わした対話の記録であり、一度、カセットテープやCDに音声として記録されていたものが、今回、文字として起こされたものである。この対話の中で、脳と精神現象との関係について触れた話があるのだが、学生の時に聞いたその後、対話の中身については放置していた。しかし、最近また小林秀雄の本を購入した事で、また新たにこの問題について考えるようになった。
脳と精神の現象が並行関係にあるという心身並行論について考える時、やはり小林秀雄が影響を受けたというフランスの哲学者ベルクソンを読まなければならないだろう。ベルクソンも小林秀雄と同様に、私が学生の時に熱心に読んだ哲学者である。心身並行論についてまた考えるにあたり、ベルクソンの論文・講演を集めた著作『精神のエネルギー』(2)を読み解いた。
科学が観察と実験から明らかにすることは、対象のあいだの何らかの関係である。この関係とはどのようなものであろうか。
科学は、科学的な手段により、物事の関係性を探る学問である。その手段とは、外的な観察から対象を数値化し、その関係を数学的に明らかにしていくことにある。精神を理解する為に、科学が用いる手段とは、脳内の原子・分子の活動を数値化し、それと精神の状態との間の関係を求めれば全ての精神の活動は理解できるという心身並行の厳密な仮説を立てる事である。しかし、小林秀雄の言うように、精神の活動を理解するにあたり、自然は精神の状態と脳の状態という、二つの表記方法を許しているのであろうか。自然の事物は、元来、二つの表記をもたないであろう。この二種の表記が生まれる発端となる哲学は、精神と物質とを明確に二分化したデカルト主義に行き着く。デカルトは、その著作『方法序説』(3)の中で、「われ思う、ゆえにわれあり」と精神と肉体とを明確に区別している。
ベルクソンによると心身並行の関係には、観念論と実在論をいったりきたりする矛盾が含まれており、哲学の錯綜が生じている。われわれの科学と心理学が完全ならば、一定の精神の状態に対応した脳の状態が分かるだろうが、その逆の脳の状態から、新しい何か予見できないものである精神の状態を選ぶ事は、脳の同じ一つの状態に対応するものを、適合する多くの異なった精神の状態のなかから選ぶことになり、それは不可能である。
それでは脳とは、一体どのような器官となるのか。ベルクソンによれば、脳は思考・感情・意識の器官ではなく、意識・感情・思考が現実の生活に向けられるようにし、その結果として効果的な行動ができるようにしている。つまり、脳とは生への注意の器官であると言う。精神の活動にとっての脳の活動の関係は、交響曲にとってのオーケストラの指揮者のタクトの運動の関係である。交響曲は、それを区分するすべての運動をこえる。それと同じように精神の生は脳の生を超える。しかし脳は精神の生から、運動のかたちにして演じうるもの、物質化できるものを取り出し、物質の中に精神が入り込む点を構成する。そのことによって、精神が状況に適応することを保障し、精神をたえず現実と接触させている。例えば、脳の物質に軽い変化を与えてやれば、精神全体が犯されているように見えるのはこの理由からである。
ベルグソンの生きた時代では、脳の中でひとつの場所を指定できるただひとつの思考の機能は、記憶作用であり、語の記憶作用であった。この部分が損傷を起こすと、語の記憶作用に関わる失語症が生じる事が確かめられていた。もしも記憶内容が、ハードディスクやその他の記憶媒体と同じように脳に記憶され、記憶内容が記憶から消えるとすれば、それは記憶内容が収められている解剖学的要素が変化したことになる。
失語症を研究したベルクソンは次の様に語る。脳は、記憶内容を保存するのではなく、それを想起するのに役立つかのように働いている。失語症患者は、必要な時にそれを見つける事ができなくなり、患者は周囲を回っているだけで、明確な点を置くために求められる力が無いように思われる。進行性の失語症では、一般的に語は決まった順序で消え、まるで病気が文法を知っているかのようである。この消える順番には法則性があり、先ず固有名詞、普通名詞が消え、続いて、形容詞、動詞が消える。その理由は、固有名詞は、普通名詞よりも、普通名詞は形容詞よりも、形容詞は動詞よりも想起することが困難だからであり、動詞は直接身振りで表現できるが、形容詞は動詞を媒介することでのみ表現される。名詞は、形容詞と形容詞に含まれる動詞と言う二重の媒介で、固有名詞は普通名詞、形容詞、動詞という三重の媒介で表現される。これには、複雑化される一つの運動の流れがあり、脳はその運動の準備をしており、脳の傷が深ければ、その運動は小さくなり、簡単になるために、語の消失は進むのである。
失語症の研究から導き出されたベルグソンの結論は、もしも記憶内容は脳の内部には存在していないのならば、記憶内容は精神の中に存在し、精神とは何よりも記憶内容を意味しているとの断定であった。ここにベルクソンの力強い確信を感じる。そして、ベルクソンは次のように述べる。人間の精神とは意識そのものであり、意識は何よりも記憶作用を意味している。人間の運命とは何よりも行動することであり、生と行動は未来を見ている。過去の全体はたえずそこにあり、いわばひとつのピラミッドであって、たえず動いているその項がわれわれの現在と一致するところで、その現在とともにわれわれは未来へと進んでいく。
記憶について、インターネットで調べてみると、面白いブログの記事(4)を見つけた。
それは、原子生物であり強い再生能力をもったプラナリアを用いた実験であり、プラナリアの脳を破壊して、破壊する以前の記憶を覚えているかどうかを確かめる実験である。研究チームは、プラナリアが餌を見つけることを覚えたことを確認した後、プラナリアの頭を切り落として、ニ週間かけて再生させ、以前の記憶を覚えているか確認した。するとプラナリアは、餌を安易に見つける事ができた。頭部を切り落とされたにも関わらず、頭部の再生したプラナリアは以前の記憶を覚えていた。この記事の詳細は、よく吟味されなくてはならないだろうが、この結果が事実ならば、記憶は脳に存在しておらず、別の場所に存在するという科学的証明が得られたことになる。これは、ベルクソンの言う記憶は脳に存在していないという主張と一致する。
記憶が脳以外のどこかに存在するにせよ、また集合意識と呼ばれるものがあるにせよ、精神の総体であり、魂とも呼ぶべき記憶が身体の朽ち果てた死後もなお存在しているのならば、魂とはまた不滅であると言えるのではないだろうか。ベルクソンも、精神の生が脳の生を超え、脳が、意識のなかに生じていることのわずかな部分を運動に還元するだけの仕事をするならば、意識が死後もなお残るという考え方は極めて真実味をおびてくるとまさに主張する。これは、われわれにとって、極めて重要な、われわれはどこから来て、何をして、どこにいくのかという問題へのベルクソンのアプローチであろう。
小林秀雄が魂について講演の中で、面白い事を言っていた。「諸君は死んだおばあさんを、なつかしく思いだすことがあるだろう。その時、諸君の心に、おばあさんの魂は何処からか、やって来るではないか。これは昔の人がしかと体験していた事で、平凡なことで、また同じように真実なことだった。」私は、父を数年前に亡くしたのだが、わたしの記憶の中に、父の思い出がある。父の死後もその魂はなお存在しているのならば、私が記憶の中の父を思い出す時、父の魂がやってきて、父の魂とまた触れ合っているのでないだろうか。
三島由紀夫の著作の一つである『豊穣の海』は、時代を超えた個体間で精神や魂の形が引き継がれていく連続性が背後にあるが(5)、ここに見られるような輪廻転生も魂が死後もなお存在しているのならば、個人が過去生を持って現在を生きている可能性もありうるのであり、それは自然な事として、受け入れられるのではないだろうか。
また、世界各国の宗教の中で見られる、死後、魂が裁きを受けるという考えも、記憶の総体、全てを持つ魂が、裁きを受けると思えば、納得ができるのではないだろうか。
魂の存在とその不滅性も、かってしかと知られていた真実なのではなかったのかと思う。ベルグソンを読むことで、生の意味と死の意味を改めて考えるきっかけとなった。
参考資料
(1) 『小林秀雄 学生との対話』国民文化研究会・新潮社編
(2) 『精神のエネルギー』ベルクソン 宇波彰訳
(3) 『方法序説』デカルト 谷川多佳子訳
(4) http://saigaijyouhou.com/blog-entry-599.html
(5) 『三島由紀夫 作品に隠された自決への道』柴田勝ニ