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直観を頼りに
スルメのような文章を書きたいと思うけど、肴になりきれない自分がいる。
さかな〜さかな〜と恥ずかしながら言ってみる。
これはリコリス・リコイルに出てきた井ノ上たきなの言葉。
会社では酒の肴を探す輩がいると先輩は怪訝な顔をして言っていた。
直情に生きるとはなんと辛いものかと。肴にされて恥さらしよ。
人の不幸は蜜の味とはこういうことを指すのかもしれない。
一方で文章では水を得た魚のように得意げに文章を綴れたらと思いますけどね。
あとから読み返してみて、あーこの言葉のチョイスどうかなとか。
結局葛藤の渦で投稿すらされない記事が山積していく。
読む人が飽きないかなということを気にしている。
必要な言葉は向こうからやってくるということです。
無理に書かなくていい。
声にならない声を溜めている。
それは叫喚か、慟哭か、呻吟か、懊悩か。
刺激のある文章で痺れたいと思うのも正気の沙汰ではない。
名言は人を助く。言葉の魔力を私は信じる。
ただぷかぷかと浮かんでいたいのだ。
電車で揺られると眠くなるようなそういう感じ。
これは母親の子宮にいるときのような安心感があの心地よさを生む。
それでいいではないか。
勇気を出して死を恐れずして、出てきたではないか。
あの時に体験していたであろう羊水と私は今も対峙している。
わたしは母から聞かされていたが、生まれてくるときに大変苦痛を味わっている。
今まで平穏だった、母の胎内から下界へと離れなければならないが、ここで生命の危機が母子ともに訪れる。
胎内記憶というのはある時期を境に吸い取られた。
覚えていたというのも幻想なのかもしれないが。
あのときの苦痛は忘れた方が良いのかもしれない。
私なりに言うと、文字が吸い取られていくイメージである。
らせん状に天の方へ向かっていき、幼少期に憶えたであろう難読なことが記憶から忘れ去られた。
しかもその文字が天に上がっていくのは二階の寝室で行われたことも覚えている。
それ以降、賢さを失った私はある意味で知識を失った記憶喪失である。
いたずらに明け暮れ、小学校一年で人の傘を壊した首謀者として、担任からこっぴどく叱られる。
そっぽを向いた、国語を嫌いテストを引き出しにしまい込んで、何もやる気が起こらない人に成り下がる。
しかし、読書できなかった私がいたから、今の私はこうして文章を綴れる。
不思議なものである。
小学生のときは羨ましくてやまなかった秀才さんは、今やゲームの虜になってしまい、本を読まなくなっている。
うんと気づくのが遅くて良いのである。
大人になってからこそ、読書は進んで自らが取りに行く必要があると思う。
ゲームの虜にならなかったのは幸いかもしれないけど、如何にして読書の素地を身につけて行くかである。
今からでも遅くない。ただ集中してみる。
今までは机にずっと座っているのが奇跡だと思っていたが、集中に集中を重ねるとそれが出来るようになる。
ぽたの肉体と精神はそうして本の虫へと誘われたのである。
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クマ犬ぽた