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note15/夏について/みっつ/タラントを読んで

 夏がくれば思い出す。思い出してしまう。だから、ちょっと冷静にならなきゃ。熱をさまさないと。
 前回、前々回と書いた2022年、2023年の夏のこと。それは記録展として言葉を綴って、終わりました。

「地域とか町内とか。出会ってきた人たちの言葉をずっと考えてきたけれど、やっぱり形にしていくのはむずかしい。頭だけで考えるのではなく、心でも考えることができますように。」

「物語はいつの間にか始まっていて、最後にばかりこだわっていると、なかなかうまく展開できなくなってしまう。途中から入ってくることも、途中でやめてしまうこともありだから、いくつもの物語を織っていこう。」

「町はいつも悩みを抱えているように思う。だけど、それを解いていくには、日々の小さな営みの中からヒントを紡いでいくしかないと思う。いつか届くはずの手紙を書いている。」

 8月のnoteは書かないと乗り越えられないものがある、と思って、書いています。

そして、ちょっと前になるのですが、角田光代さんの『タラント』を読んで、このいくつかの原稿を書かなきゃ、と思ったのです。

 この作品は基本的に、みのりの視点で展開していき、みのりの言葉で綴られていきます。だけど、祖父の清美の「なにもしない」「なにも言わない」というのが、大切な「なにか」を伝えてくれていると思います。
 みのりは変化していきます。動いていきます。もしかしたら、変化しなくても、動かなくても良いのかもしれないけれど、動いてしまいます。周りにいる人の影響を受けながら、自分も「なにか」できるのではないか、やらないといけないのではないか、と考えます。

「なにか」しないといけない。気づいて、動き出さないといけない。そんな「なにか」らしきものは、いろいろなところに潜んでいて、ふと顔を出し、声をかけてきます。そして、安易な正義感を煽り、意識が高いのは良いことだよー、と近づいてきます。だけど、それは清美から伝わる「なにか」と同じものなのでしょうか。

 わかりやすい正しさなんてあるのだろうか。みのりはどれくらい正しさを実感できていたのだろう。気がつけば、なのか。それとも、かなり悩んでそうなったのか。家族(香川)のことを考えることが、友人(東京)のことを気にすることが、いつの間にか、世界に目を向けることになってしまうことに、迷いはなかったのだろうか。それとも、そうなることは必然のように思えていたのかな。どうなのだろう。

 空の広さは自分が住んでいるところに比例しているのかもしれない。もしかしたら、年齢にも関係しているのかもしれない。どこにいても、誰といても、その広さを感じたいと望んでいなければ、小さく、狭く感じてしまうだろうし、そもそも空を見上げることもなくなってしまうかもしれない。

 読んでいると、自分の周りで起きていた、この何年間のいろいろな場面と重なってきました。出会った人たちを思い浮かべると、玲や翔太のような人がいたなぁと思います。いや、そうじゃないかな……自分の中にいる、玲や翔太のようなところを思い出したのかもしれないな。そして、みのりのようなところも。

 知らない、わかっていない、と言われることが、とても悪いことのように思えてしまう。逆に知っていない、わかっていない誰かを見ると、「良かったぁ」と思ってしまう。それって、なんだろう。「知っている人」「わかっている人」になろうとする自分はなんなのだろう。
 これはこうした活動やボランティアなどの意義があることに限ったことではないと思います。自分の仕事を振り返れば、玲のような出会いがつないでいく縁でなにかをやってきたことも、翔太のようにきっかけはなんでも良くて、自分が出ていくための手段としての正義を見つけていたことも、そして、そのふたりのように、熱くなれずに、簡単に動き出すことも出来ずにいるみのりも、ぼくの中にいました。もちろん、それは、悪いことではないけれど。
いまはどうだろう。まだ、みんな、いるのかな。

 みのりが翔太の賞をとった写真を見た時のこと。それは、ぼくのいまなのかもしれない。

だから何に自分がうちのめされているのか、みのりにはわからない。わからないまま、全身から力が抜けた。抜けたまま戻らない。ああ、もうだめだと感覚的にわかった。あの写真の、何がきっかけだったのかはわからない、でもそれまでがまんできたすべてが怒涛のように押し寄せてきた。もうだめだ、がんばれない。今までどおりにはできない。

角田光代作/タラント 

 だから、清美の「なんちゃせんでも、ええ」というのは、とても響いてしまう。そうできないから。なにかしてしまうから。ただ、座って雲を見ているだけの日々を過ごすことができないから。

 そして、作品の終盤。震災が起こります。微妙に時期などは変えてあるけれど、あの震災のことが書かれていると思います。そして、それは当事者、被災者ではなく、みのりの立場で書かれています。
 当事者、被災者とは誰のことだろうと、ずっと考えてきました。この8月の原稿は、そうしたぼくの考え、ずっと気づいていたのに、言葉にできなかったこと、遠慮なのか、配慮なのかもわからずに、遠回しで紡いできた言葉たちを、この作品にふれたことをきっかけに書いてみようと思ったものです。
 自分のやりたいこと、やらなきゃいけないことがわからなかったみのりが、(そもそもやりたいこともやらなきゃいけないこともなくて良いのに)、ボランティア活動の中で起きたあることがきっかけで、考えを言葉にしてくれます。これは、いろいろな時間の中で逡巡してきたみのりが辿り着いた言葉なのではないか、とぼくは思いました。

 自分がここにいるのは善意からではないとみのりは知っている。三月の第二土曜日に大学の教室に向かったのは、ゴールデンウイークから被災地に通っているのは、善意だとは思っていなかった。でも、ついさっきの男性の言葉によって、自分がしていることは善いことになってしまった。だれかを助けようとする「側」になってしまった。
 みのりはそんなふうに感じ、とたんに疲労感を覚える。善いことと思ったとたんに、もうかかわりたくない気持ちになるのはなぜなのだろう。そうじゃないんだと言い訳したくなるのはなぜだろう。

角田光代作/タラント 

 だから、ぼくは閉じてしまおう。そう思った。そして、閉じたことによって、始めることのできる言葉もあるはずだから。

【詩】#33 撃つまえに

なりたいものなど
なかったのに
なれると思っていた
誰に?
 
叶えたい夢などないのに
願いをかけていた
どうして?

仲良しも
大嫌いもいないのに
こわかったから

うまくやっていけると思っていた
だけど
働く準備ができていなかった
部屋を借りる準備ができていなかった
いなくなる準備ができていなかった

誰かが聞いてくれる
誰かが頷いてくれる

あのかなしみが
この光を灯してくれているのがわかる

あなたがふれてくれたことがわかる
ぼくもまた ふれてしまう
たぶん わかる時がくる


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