アディショナルタイム
ばあちゃんの一周忌があった。
秋という季節も相まって、この数日はなんともいえない気もちでいる。
最近よく感じることがある。
「いま余生を生きている」という感覚だ。
なんかもう、十分なのだ。
いつどうなっても後悔はないし、これ以上何かを切望する気もちもない、だからといって虚無感にさいなまれているわけではないし、日々の暮らしを楽しめているし、泣き笑いもして感動もするし、よく食べよく寝てよく遊んで、ありがたいことに健康そのものである。
だが一方で、我ながらつかみどころがない。
よく言えば思い切りがいいのだが、わるく言えば投げやりなのだ。
心のどこかで「どうにかなっちまえ」と思っている。
すべてを終わらせ、壊し、跡形もなく消え去りたい、誰かの心の中からも消え失せたい。
わたしのことなど、どうか忘れ去ってほしい。
そういう思いで、LINEは定期的にアカウントごと削除するし、SNSだって結局は消してしまうし、仕事も調子のいい時にさらりと辞めてしまうし、なじみのお店にも突然通わなくなるし、夢中になってた趣味にもパタリと触れなくなり、いわゆる「推し」みたいな存在のことも全く追わなくなる。
まあそんなリセットばかりを相変わらずくり返している。
漠然と、
「はやく終わらないかな」
という気もちがずっとある。
でも残酷にも暮らしはつづいてゆく。
それが時にたのしく、だが基本的には辛く、しんどい。
数えてみたのだけれど、わたしはこの30年弱の人生で5回、死んでいる。
身体でなく、心で、もう何度も折れてきたのだ。
それでも何とか生き抜いてきた。
来月で30歳になるわけだけど、無事に迎えられるのだとしたら、それはまごうことなく奇跡だ。
自分で終わりを選ぶ選択肢が、いつだって当たり前にすぐそばにある。
それをわたしは「最悪」の選択とは思わない。
一回限りの片道切符で、唯一にして最大の希望であり、ある種の救い、いうなれば「とっておき」だ。
ただ、わたしにとっては希望でも、たぶん親にしたらいわゆる「最悪」の部類になってしまう。
だから、日々あたり前に胸の中にそういう選択肢があってもそれを選ばないように努めている。
そうして奮い立たせていないとふとあきらめそうになることがあるのだけれど、それでもこうして生きてこれている。
冗談抜きで、生きているだけでえらい、30歳まで生きたなんてすごい、んである。
ばあちゃんの弔いの一連の儀式を眺めて思う。
何においても「生きてるうち」だ。
死んだら極楽浄土に行けるだの、魂がどうだの、念仏をとなえれば救われるだの、そういう話をいくら聞いてもわたしにはよくわからない。
生きてる間に伝えて、受けとって、共に過ごして、感じたり考えたり、その瞬間の輝きを愛おしんで。
生きてるうち。
今のうち、なのだ。
今は余生。
人生のアディショナルタイムともいうべきか。
相変わらず早く終わんねえかなーと思いつつ、もう余生ならどう生きてもいいよな、とも思うのだ。
やりたいことはすぐに、やってみたらいいし、好きなことや心地のいい場所や人たちを大事にしたらいい。
身に合わぬことをやる暇などないし、我慢してまで苦手なものごとにふれるスタミナはもったいない。
いま生きてるだけでラッキーなのだから、楽しまずしてどうする。
……という話を冗談めかして知人に話したら、「若者が何言ってんの」なんて笑われてしまった。
年齢など関係なかろうに。
こういう話、心配もされてしまうし、あまり人にすべきじゃないのかもしれないのだけれど。
そういえば10代の頃から生死についてずいぶんとよく考えるのだが、30歳を目前に自分の死生観がようやく定まってきた感覚がある。
あれこれと分からぬまま考えを巡らせるにはかなりのスタミナを要するが、それが安定してくれるといい基盤となる気がする。
年々、少しずつ自分のことがわかってきて、転んだ時の起き上がり方もうまくなってきている。
そんなわけで30代は人生のアディショナルタイムと思って、慎ましく静かに熱く、たのしんでいけたらと思う。
「とっておき」は、まだ少し先にとっておこう。
苦手な冬が目の前にせまっていると、どうしてもこんなことを考えてしまうのだった。