星野源『よみがえる変態』
源さんの『よみがえる変態』の文庫版。
先の2泊3日の東京旅行と、帰ってきてからの数日をかけて、読了した。
もう、なんて言葉にしたらいいのだろうか。
1994年生まれのわたしは、いま29歳、今年30歳になる。
で、この『よみがえる変態』のもとのエッセイが連載されていたのが、2011年の春ころから。
源さんは1981年生まれだから、ちょうど源さんが30歳前後の頃の日々や風景や思いがつづられているのがこの『よみがえる変態』である。
敬愛してやまない人生の先輩が、ちょうど今のわたしと同じ年齢のころに書いた文章。
わたしは今回、言い表しようもなく、心づよい味方に出会えた気がした。
わたしが特に胸打たれたのは、この言葉だった。
ものごころついた時からわたしの中にある「寂しさ」って、自分のあまりの弱さゆえだと思ってきたし、隠すべきものだと恥じらってきたし、どうにかして消し去ろうとあがいてきた。
それなのに、誰といても、どこにいても、どんなわたしのときも、かたち・色・レベルを変えてずっっっと寂しくて、全然消えてくれなくて。
それが、情けなくて苦しくて弱くてみっともないとずっと思っていた。
でも、「チャームポイント」って。
源さんが、
「寂しさはチャームポイント」
って世界を教えてくれた。
その価値観に出会えたときの、血が一気に全身をかけめぐるような、途方もない水平線の向こうにはじめて陽の光を見るような、いつから歩いているかも分からない真っ暗なトンネルの先にやっと光が見えたような、そんな感動たるや。
寂しさが友達だって?
絶望が親友だって?
不安が栄養だって?
なんて素敵な景色だろうか。
そうか。
もしかしたら、孤独だから寂しいわけじゃなく、寂しさがあるから孤独じゃなくいられるのかもしれない。
救われた、肯定してもらえた、安心できた……この安らぎを、なんと言葉にしたらいいのか分からない。
けれど、結局いつも寂しくて、どこまでも不安で、いつから絶望しているのかも覚えていないくらいぽっかり空いた穴を抱えているわたし自身のことを、少しおもしろがれるような気が、愛していい気がした。
2泊3日の東京旅行のうちに読めたのは、だいたい3分の2ほど。
残りの3分の1、ちょうど文庫版のp.128以降は自宅で読んだ。
そう。源さんが倒れて、生死をさまよい、壮絶な日々を生き抜く様がありありと書かれた部分だ。
源さん、おかえりなさい。
今わたしが書けるのはそれくらいしかない。
30歳前後の源さんの日々を読んで、今まさにわたしが追いかけている43歳の源さんの笑顔や言葉が一層まぶしい。
他の記事でも何度も書いているが、わたしは源さんの音楽や言葉に、救われ、引っぱられ、支えられて、生きている。
とくにこの一週間くらいは、今のわたしと同い年くらいだったころの源さんと共にあった。
リアルタイムの源さんじゃなくて、10年以上も前の源さんをすぐ近くに感じていた。
「最新」とか「リアルタイム」とか「情報解禁」とか「バズ」とか、そういうところに意識をもってかれがちだけれど、何年も前の、いつかの誰かの、音楽や言葉や映像、そうやって残してくれてたものがちゃんと「今のこと」としてこんなに救ってくれることがあるのだと感動した。
目の前の最新情報にのまれず、どんどんさかのぼって深く深くもぐって広い世界を知っていこうとも思った。
寂しさを友達にして、絶望を親友だと思って、不安を栄養にして、孤独をたのしんでやろうではないか。
……まあ、それができるほど自分は強くないのもわかっているのだけれど。
それでもせめて、いっちょ前な意気込みだけでもこうして書き留めておきたいくらいには、元気になってきている。
ありがとう、源さん。
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