言語化の難しさ
気づいてしまった…
が、概念的な気づきなので言語にすると齟齬が生じてしまいます…
無理やりアウトプットして整理してみる。
学力観
「知識は集団の中に存在し、それが有機的に結びついていれば個の成員が知識を有しているのと等価」
に寄ってたつと、利他的な行動は「利己的」とみなすことができるという考えです。
というのも、集団内の他者にとっての利益や成長が自分にとっての利益や成長と等価であれば、利他と利己の境界が限りなく不明瞭になるからです。
「自分の成長」を「自分らの成長」と置き換えるとか、「自己と他者」でなく「自己も他者も集団の一部であり集団は自己と他者の一部である」というか…
うーん、やっぱり言葉足らずだなあ。
少し別の角度から。
①自分が不足している部分や伸ばしたい部分を抱えていて、そこを努力で補うとする。
結果、何かを達成したり身につけたりする。
②誰かが不全感を抱えており、そこに他者の援助を必要としている。
周囲が援助した結果、状況が打開される。
「集団」を中心に考えることで、この二つが限りなく同義になると考えます。
「自己」をより拡大して捉える、というか。
これまた先ほどの学力観のもとでは自分ができることと他者ができることは同じ意味だからです。(集団の質が有機的なネットワークを形成していれば)
どういうわけか、①を「自立」、②を「共助」「他者貢献」と分けて語りがちですが、分ける必要もないのかなとすら思います。
「人を助ける」「集団に貢献する」というより、「自分(ら)の課題だからその解決にあたる」という表現がしっくりきます。
だから他者を助けることは道徳的なふるまいなのでもなく、自分にメリットがあるからでもなく、当たり前だからやる、ただそれだけかな、と。
そこに過剰な他者意識が内在していると感謝の強要とか不自然なことになるのでしょう。
最近のトレンドでは①を個別最適な学び、②を協働的な学びと表現しているのと重なります。
これらの一体化を図るのに苦心している向きも見られますが、切り口を変えればそもそも一体のものだから別々に考える必要もないことがわかりました。
こうなると、集団を有機的に維持する管理者の力量と、集団に課された目的や目標が最重要になるはずです。
さて、次のテーマは競争原理の働く環境下での集団の形勢、ほんとうに個は成長しないでいいのか、個の意義、ノブリスオブリージュあたりです。
おすすめの文献があったら情報およせください。