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時代小説 | 元禄の冬



(1) 


 元禄16年、冬のことである。尿意を覚えて、丑三つ時に厠に向かった。そのとき、月明かりに照らされた男を見た。夜盗か?
 咄嗟に私は物陰に隠れ、不審者の動静を固唾を飲んで見守っていた。男はピクリとも動かない。膠着状態が続いた。これではこちらも、動くに動けない。しかも尿意を我慢するのも限界に近付いていた。思わず地団駄を踏んでしまった。予想以上に大きな物音を立ててしまった。その音に反応した男はこちらを見た。目と目が合ってしまった。

「はい、はうあぁゆぅ、近松殿?」
 私には男の発した『近松殿』以外の言葉を聞き取ることができなかった。

「ゆーりん?あいる・うぇいと・ふぉーゆー」男はニコニコしながら言った。
 今度は皆目理解出来ない言葉ばかりだった。

 とりあえず、厠に往かねば落ち着かぬ。

「汝は異国の武士か?はたまた化け物なのか?然れども、拙者、汝のことを信じるぞ。用を足すまで待っておれ!」

「イェス、さぁ!」男は微笑んだ。


(2) 


 大量の小水を放出せしあと、拙者は異国人の元へ戻った。なかなかの紳士のようだ。ピクリとも動かず、拙者が厠より戻るのを膝をついたまま待っていた。

「我は今からおよそ90年前に死んだ沙翁(シェイクスピア)と申す者なり。『シェイちゃん』と呼んでくだされ」

「なぬ、『シェイ殿』はやや言い難し。『さおう殿』では如何?」

「イェスさぁ、近松殿。我も『ツ』の音はプロナウンスし難し。『もんちゃん』と呼んで良かろうか?」

「良かろう。然らば、拙者は汝を『さおちゃん』と呼ぼう」

 なぜか拙者はさおちゃんと打ち解けるのに然程の時間を要しなかった。


(3) 


 月明かりの下で、さおちゃんと拙者は語り合った。しかし、この寒さの中である。入れ替わり立ち替わり厠に向かいつつ、中断しながらも演劇談義に花を咲かせた。

 さおちゃんの生きた時代や文化について聞いた。拙者は、浄瑠璃の世界観や江戸の風俗について、分かりやすく話した。さおちゃんは彼の国の文芸復興期のことや彼自身の戯曲について熱く語った。

「さおちゃん、拙者も汝のような悲劇をいつか書いてみたい」
「もんちゃん。きっと汝ならいつかきっと書けるに違いない。恋と死、そして士農工商の矛盾を描いた素晴らしい物語になるだろう。しかれども、けだし、物語を紡ぐには、更なる人生経験を積む必要があるだろう」

「かたじけない。さおちゃんがさきほど話してくれた『ハムレット』という作品。いたく心を打たれたぞ。人間の心の闇を深くえぐり出した作品だな」

「さんきゅう、もんちゃん。あい・どうんと・のう・はう・とぅう・えくすぷれす・まい・さんくす、ナリ」

 拙者たちは互いを深く理解し、共感しあった。時空を超えた文芸談義であった。

「もんちゃん、汝の如き精神の持ち主ならば、必ずや人間の心の奥底に到達できる。それは、時代や国を超えて、人々の心に響く普遍的なものになるだろう」

「さおちゃん、貴殿の作品も亦た然り。人間の喜怒哀楽、愛憎、葛藤、それらは我が国と貴殿の国の境界を越ゆる『ゆにばーさる』なものなり」

 夜が更け、東の空が白み始めた。月に変わりて、太陽がさおちゃんと拙者を照れし始めた。拙者たちはまだ語り足りなかったが、さおちゃんが黄泉の国へ戻る時が来たようだ。

「さおちゃんよ、惜別の時か?」
「イェスさぁ。もんちゃん、またいつか会おう。別の時代、別の場所で。もんちゃんはこれから、我輩と肩を並べる傑作を書くことだろう。我はそれを信じておるぞ」

 さおちゃんは薄笑みを浮かべ、ゆっくりと、スーッと、消えていった。拙者はただ一人、物言わぬ空のもとに佇み、深い感動と寂寥感に包まれた。


(4) 


 そのとき、障子の隙間から漏れた朝日で目が覚めた。どうやら拙者は夢を見ていたらしい。しかし、夢の中で聞いたさおちゃんの肉声は、未だ脳裡にこだましていた。

 それからというもの、夢の中の出来事とはいえ、拙者はさおちゃんとの邂逅を胸に刻み、一層文筆に励んだ。夢も現も、過去も未来も、時空も超えた友情は、のちの創作活動に影響を与えたのだった。

 さおちゃんに影響を受けて書いた作品は、現在「心中天網島」として世に知られている。



~おわり~



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山根あきら | 妄想哲学者
記事を読んで頂き、ありがとうございます。お気持ちにお応えられるように、つとめて参ります。今後ともよろしくお願いいたします