『〈責任〉の生成』読書会①-当事者研究の可能性
はじめに
最近、大学時代の友人と3人でオンライン読書会を再開した。大学時代にも読書会をやっていたメンバーである。再開はとても嬉しいことである。
今回扱う本は、國分功一郎・熊谷晋一郎『〈責任〉の生成−中動態と当事者研究』である。
各回一章ずつ読んできて議論するという形をとっていて、先日は第一回として序章を扱った。
当事者研究について
当事者研究について、下記簡単にまとめておく。
当事者研究は、2001年、北海道の浦河町で暮らす、おもに統合失調症と言う精神障害を抱える当事者たちによって生み出された。
その後、当事者研究は、精神障害だけでなく、比較的周囲に見えにくい困難を持っている人たちのあいだで急速に広がっていきたと言うことができる。(p.29)
読書会なので、本の内容のみならず、参加者たちによって議論が交わされた結果の考えではあるが、生きづらさに対する当事者研究の方法の可能性を感じるようになった。
それは、自他ともに明らかな困難を抱えている人はもちろんのこと、自身や他者から見えづらい困難に直面している人についても同様である。
「周囲から見てわかりづらい障害は、自分から見てもわかりづらい」(pp.30)のであり、小さい頃から自分が周囲と同じように振る舞ったり、感じたりすることができず差異を感じてきたが、その原因がわからず思い悩んだり自分を責めてしまう方が数多くいるという。自分のせいかもしれないと言う可能性も否定できず、周囲や社会に配慮を要求するのは並大抵のことではない。(p.30)
自分は何者なのか、どこまでが自分の努力で変えられる範囲で、どこからが変えられない範囲なのか、そういった問いが自明でない当事者たちが、類似した経験を持つ仲間たちと研究する。社会を「変える」手前で、まずは自分たちが何者なのかを共に「知る」ことを目指す、というのである。(pp.30−31)
生きづらさにもグラデーションがある
私たちは、誰しもどこかに不完全さや不自由さを抱えていて、生きづらさを感じていると思う。誰しも何かの点においてはマイノリティなのではないかと思う。そして、その程度にも無限のグラデーションがあり、ここまではマジョリティで、ここから先はマイノリティになる、と言うようにはっきりと割り切れるものでもない。
例「いじめられた経験」の場合
グラデーションがあるという例として、「いじめられた経験」を挙げて考えてみたい。架空のものだが、いじめられた経験がある人同士が安心して集まれるグループがあるとする。
実際に、僕自身は小学校低学年の時にあだ名を付けられて、一部の同級生たちからは、先生の居ないところでそのあだ名で呼ばれていて、それに対して怒って追いかけたり、時には喧嘩していたりした。今思えば、あだ名自体には何の効力もなく、そんなものは無視すれば良かったと思うが、当時嫌な思いをしたり、学校でもどこか堂々とできなくて悔しい思いをしていたのは事実である。
だが、そんな僕が、ひどくいじめられて不登校になったり、その後の人生まで大きく変化してしまったりしたような人たちが集まるグループに入ろうとするかと言えば、入らないだろう。もしくは、入ることを躊躇すると思う。恐らく、居心地の悪さを感じて避けてしまうはずだ。なぜならば、僕はそこに集うメンバーほどに、深刻な問題を抱えていないからだ。もちろん、個人の感じ方の部分が大きいので、僕と似たような体験をしている人でも、もっと強い生きづらさを感じている人は居るかもしれない。
それでも、どこかで同じように生きづらさを感じる人たちと集まって共有したいと思うかもしれない。そんな場合、「変なあだ名を付けられてちょっとだけ嫌な経験をした人のグループ」と言ってそういうグループが存在するだろうか。必要とされているかもしれないが、そういうメンバーを集めるのも大変かもしれない。このように、経験の程度によってやはり差異は生じてしまう。
あらゆる問題につながる
恐らくこれは、他のあらゆる問題についても共通するものである。程度の差はあれど、マジョリティとの差異が生きづらさを感じる要因になっている可能性がある。それが自分の問題なのか、それとも社会で取り組むべき問題か、その間で、気持ちが揺れ動いているのではないか。そして時には自分を責めてしまうのではないか。そんな中、説明できない気持ちを誰かと共有したい、私は何者なのか知りたいと思っているのではないか。
「自らの内面を吐露する」段階
僕は「知る」にさらに先立って「自らの内面を吐露する」という、一見容易だが勇気が必要で躊躇してしまう段階を通過する必要があるように思う。嫌な思いをしたという自らの感覚や記憶、あるいは周囲との違いを認めたくないという段階もあるはずだ。それについては、誰かが類似した経験をしたと言い出すことで、救われるものもある。だが一歩目の行動が、命懸けの跳躍に感じられる人は多いはずだ。否定されず安心して話ができる場であることが必要不可欠なのは言うまでもない。それでも、なかなか周囲に明かせずにいるかもしれない。この現状対して僕に何ができるのか、考えていきたいと思う。
「責任」と「自己責任」について
もう一つ、「責任」と「自己責任」について書いておく。
自己責任論にはもともと関心があって学ばなければならないテーマの一つだ。僕は、権力者側や強者が自己責任と言って片付けることは、暴力だと考えている。
「責任」と「自己責任」を比べた際に、自己責任の特性をイメージだが下記のように考えた。誰もがそう考えるかもしれないが。
自己責任という言葉は、弱い立場に置かれている人々を抑えつけるための都合の良い言葉となっている印象がある。マジョリティから言われたら、何も言えなくなってしまう悪魔の言葉である。この言葉を言われた人は、言い返しようがなく、感じる必要のない罪悪感や重圧を感じうる。そして内面化し、自らを責めるために用いられてしまうようになる。その結果、言われた人は益々萎縮してしまう。こういうことではないか。
「責任」については、『〈責任〉の生成』を読み進めて改めて考えていきたい。
おわりに
続きはまた。読書会が進んだら書いてみようと思う。
参考文献 國分功一郎・熊谷晋一郎(2020)『〈責任〉の生成−中動態と当事者研究』新曜社