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連載小説「お弁当屋の笑子さん」 第二話
第二話 ねむちゃん
「おはよう! しょーこおねえちゃん!!!」
元気いっぱいの弾んだ声がして、わたしはそちらを向いた。
「おはようございます」
「おはようございます、笑子さん」
微笑んで挨拶を交わし、ねむちゃんのお母さんには軽く会釈した。ねむちゃんはいつも髪を二本のおさげにしている。毛先がくるんとなっているので、もしかしたら癖っ毛かもしれない。黄色い幼稚園の帽子から垂れ下がるおさげを揺らしながら、彼女がお母さんに手を引かれてやってきた。わたしはお店の番台から外へ出て、走り寄ってきた彼女をぎゅっと抱きしめた。
「しょーこおねえちゃん、なしのにおいがする」
「梨? 果物の?」
「うん、そう! なしのにおい」
梨……、とわたしは訝しく思う。でも、ねむちゃんには以前にも梨の匂いがすると言われたことがあった。うすぼんやりとして、噛みしめた時にしか感じられないほど微かなあの匂い、一体どうやってわたしから出てくるのかしら。
「しょーこおねえちゃん、いま、なんがつ?」
梨の話はすぐに終わり、今度は月の話になった。
「ねむちゃん……。もう、急に何を言い出すの」お母さんがびっくりする。
「いろいろおしゃべりするようになりましたね」
「ほんとそうなんです。話の内容がころころ変わるものだから、相手をするのも大変」
はぁ、とねむちゃんのお母さんが軽いため息をついた。
「幼稚園は、もう水遊びする時期でしょうか」
わたしがお母さんに尋ねたのは、お母さんが絵本バッグと呼ばれる長方形の手提げと、たくさんの四葉のクローバーがプリントされたビニール製のプールバッグを持っていたからだ。
あぁ、そうか、とわたしは納得する。
「もうすぐプールがはじまるんだよ! なつなの! ねぇ、いま、なんがつ?」
クローバーはねむちゃんが大好きな柄だ。おさげにつけたヘアゴムにもクローバーがくっついている。大好きなプールバッグで大好きなプール遊びが始まるんだ。年中さんのねむちゃん、五歳のねむちゃんの、一度きりの夏。
「今日は七月ですよ」とわたしが答えると、ねむちゃんは「せいかーい!」と満面の笑みを浮かべた。一方、お母さんは、迎えに行くころになると遊び疲れて機嫌が悪い日も多くなるの、と苦笑していたけれども。
わたしには子供がいないので、育児の大変さはほんとうのところは知り得ない。でも、ねむちゃんとは彼女が赤ちゃんのころからの付き合いだ。だからお母さんとの付き合いも五年ほどは経っていることになる。
ねむちゃんはわたしの「お弁当 こうそ屋」の常連客だ。
酵素玄米はもとより旬の食材、すべてのおかずが手作りというこのお店オリジナルのお弁当は、健康をかなり意識しているため、値段が割と高いほうだと思われる。ふらっと立ち寄った初めてのお客様は、まずその値段に怯まれる。商品の説明をし、健康になっていただきたいというわたしの願いをお伝えし、それで買っていただけた方は稀。ほとんどは買わずに去っていかれる。
必然的にお客様は常連、それと常連様からの口コミに偏っていく。
でも、それでいいと思っている。大衆向けのお弁当はスーパーやコンビニでいくらでも選べるだろうから。
わたしたちが作りたいのは、誰でも作れるお弁当ではなく、自分たちにしか作れないお弁当。
わたしと、三年前に突然死で不在となった、わたしの夫。
「きのうね、さつまいものあまいやつ、おやつにたべたんだよぉ」
また、ねむちゃんは、たくさんのアレルギーを持って生まれた子だった。
「さつまいもの甘いやつ?」
離乳食を始めた生後半年くらいから、ねむちゃんのお母さんはとても困っていた。すこしずつたべられる食材を見つけようという時期に、乳製品、小麦、卵、ナッツ類のアレルギーがあることが判明した。子供が好きそうな甘いバナナもダメだったという。
もっと言うと動物アレルギー、ハウスダストアレルギーなど、たべものとは違う分野にも反応は出たらしい。室内の調度品も限定され、掃除にも食事にもたくさんの配慮が必要で、ねむちゃんのお母さんはご主人とひどい言い合いが続き……ねむちゃんが二歳くらいのころ、ついに離婚することとなったらしい。
五年前と言えばわたしと夫が「お弁当 こうそ屋」を始めたばかりのころだった。まだアレルギーの知識もすくなかったわたしたちにとって、ねむちゃんとは奇跡の出会いだったと思う。
「さつまいも……ふかしたやつ?」
「ふかした?」
「うーん、やわらかくしたもの……蒸したやつ……って、難しいなぁ」
わたしが突然のなぞなぞに悩んでいると、
「角切りのさつまいもを入れた蒸しパンです」
とお母さんが助け舟を出した。ちなみに小麦アレルギーの彼女がたべられる蒸しパンは「米粉」を使ったものだ。
(確かに、甘いし、さつまいもが入ってる!)
わたしは大きくうなずいた。
この五年間、ねむちゃんと彼女のお母さんは頻繁にうちに来てお弁当を買っていかれた。最初のころはおかずだけ、だんだんと酵素玄米もたべられるようになれば、お弁当を。
幼稚園でたべる昼食用に、お母さんはわたしたちのお弁当を買って持たせることもしていた。あまりにもアレルギーが多すぎるとのことで、ねむちゃんには給食も子供弁当の宅配サービスも利用することができないらしかった。週に五回、働いて、早起きして、アレルギー対応のお弁当を作る。疲れたから休みたい、じゃ済まされない。他の人みたいに既製品のパンにしたり、冷凍食品を使ったりと、手軽な方法を選ぶことも難しい。
食事というものは毎日のことである。
「いつもほんとうにありがとう……笑子さん」
ねむちゃんのお母さんがすこし疲れた表情でお礼を言った。
わたしはしっかりと彼女の目を見て言った。
「いいえ、毎日頑張っておられるのはお母さんのほうです。わたしには……これくらいのことしかできないので」
一旦お店のなかに戻り、ねむちゃん用に特別にあつらえた小さなお弁当を渡した。わたしはお母さんから三つほどおなじ弁当箱を渡されている。ここに特別な食事を詰めて、渡して、空の箱を受け取り、お会計。
五年間ずっと、ねむちゃんだけは他のお弁当とは別に作ってきた。できることなら、お客様ごとに好みがあるはずだから、きちんとうかがって、ひとりひとり特別なお弁当を作ってあげたい。でもわたしにはできない。三十個のお弁当を作ることと三十種類のお弁当を作ることは、全然おなじではないのだと知っている。
「すみません、酵素玄米のお弁当、ひとつください」
顔なじみのお客様がいらっしゃったので思考を切り替えた。スーツに鮮やかな空色のネクタイをしめた、きんぴらごぼうが大好きなお客様。いつもの会話、穏やかなお客様の笑顔、やりとりは数分で終わった。
バイバイするまで待ってくれていたねむちゃんと別れの挨拶をして、母子を見送った。
黄色い帽子がぴょこぴょこ動いて曲がり角に消えるまで、わたしはしばらく見つめていた。
(つづく)
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