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連載小説「お弁当屋の笑子さん」 第十話
第十話 追憶
ちゃぷんと浴室に水の音がこだました。カモミールの香りの湯を両手ですくい、お風呂の湯からちょっとだけ見えている膝小僧にかけてやる。
「……今日も、一日お疲れ様でした」
わたしはぼんやりとした声で呟き、一日の終わりを耳と口と身体で感じることにしている。これもまた夜の日課だった。朝が早いので夜はいつも九時には布団に入るようにしている。それをもとにお風呂の時間を決めている。お風呂が終わって体温が下がり、自然と身体が眠りに誘われる時間を計算して、わたしは毎日おなじサイクルを営むよう心がけている。
(こんなにもいつもおなじことを。……あの人がいたころはそんなに考えてなかったのにな)
ゆらゆらと揺らめく水面を見つめながら、わたしは思考を深めていった。
あの人――いまは亡き夫が生きていたころは、これほど日々のルーティンにこだわることもなかった。起床や就寝の時間が多少前後するのは常で、それに不安になることもなかった。忙しい日とのんびりした日。どちらも充実した毎日だった。
秋だから? むかしを思い出してしまうのは。
夫と出会ったのは何年前だろうか。
わたしと夫は、いまいるこの地域ではないところで、いまとおなじ「食事」に関わる場所で出会った。
***
「いらっしゃいませ」
「ありがとうございました」
「いつもご来店いただき、誠にありがとうございます」
「またお待ちしております」
感謝と労い。
百貨店の片隅にあるこじんまりとしたカフェで、わたしと夫は出会った。
全国各地に店舗展開している大手カフェの、雇われ店長として現場を仕切っていた夫と、パート・アルバイトで気楽に働いていたわたし。お客様は女性、そしてお金を持っていらっしゃる方が多かった。経済的にゆとりのないわたしには無縁の、上質な服を着て所作も美しい方たち。
「おつかれさまでした」
たまたまある日、休憩中の夫と退勤するわたしが、百貨店すべてのお店の従業員が利用する広いバックヤードで一緒になった。おつかれさま、と夫が朗らかに返し、わたしも仕事モードからオフに気もちを切り替えようとしていたところだった。
目に止まったものが、ゴミ袋だった。
「……店長。これ……は?」
「ん?」
バッグヤードのゴミ捨て場に大きなビニール袋が何袋も置いてあり、ありとあらゆる食材が雑多に詰め込まれていた。焼き菓子、おにぎり、惣菜、パンなど……。
「あぁ、これね。ゴミだよ」
「はぁ」
「売れ残り、衛生面で捨てられるべき物が、ここに集められているだけさ」
わたしは呆然とその袋を見た。夫がそんなわたしを見て、静かに言った。
「聞いた話では、これも一応たべられるものだからね、家畜の食糧になるんだってさ」
「……家畜、ですか」
「そう。すごい量だよね。それが、毎日。建物内にこれだけの飲食店舗があるから仕方ない、と言えばそうかもしれないけど。……おれはもう感覚が麻痺しているのかもなぁ」
夫が肩をもむ仕草をして言った。
「……仕方ないのですか。……でも、もう売ることもできないんですよね」
「そうだね」
「ここに見えるおにぎりも、サンドイッチも、海苔巻きも」
「そう。朝作ったものを、夜に売るわけにはいかないからね」
絶句しているわたしを夫は見て、さらに追い打ちをかけてきた。
「おれたちは、指定の袋に売れ残りを入れ、指定場所に置くこと。それだけを言われている。だからこれらの袋が一体どこに行くのかは、実際見ていないから分からないんだ」
わたしも夫も無言になった。これを良しとしていいのだろうか。見て見ぬふりしているだけなのではないか。そんな自分を苛む心がじわりと滲んだ。
ゴミの一件のあと、夫と初めて遠出をした。夫がレンタカーでちょっと遠い牧場まで連れて行ってくれ、生まれて初めて搾乳というものをした。何とも言えない香りのする牛舎での乳搾り体験。怖がりのわたしは始終おっかなびっくりだった。別室で適切な処理をされた牛乳をいただいたとき、
「おいしい……!」
目を瞠り、わたしは感動した。
身体にいろんな力が漲ってくる気がした。
わたしたちの身体は摂り入れたものでできている。
何を摂るか。何を摂らないでおくべきか。
そんなすごく真面目な話を、わたしと夫は好んで話題にしていた。
それからたくさん話し合い、わたしは夫と同居を始めた。
恋ではなかった。嘘ではない。わたしは男性が怖いのだ。
百貨店を辞めてふたりで遠くに引っ越した。いま住んでいる家、リビングの他に二つ部屋あるアパートを借りるには、住む前に籍を入れたほうが都合が良かった。(なぜなら寝室を別々にしたかったからだ)
「君が安心して暮らしていけるならそれでいいよ」
夫はとても優しい人だった。肌の触れ合いが、朝の挨拶の頬をくっつけるだけでも、何ら気にしなかった。むしろ彼は、情愛がないほうが気楽に生きられるとホッとしていた。
シェアメイト。開業してからはビジネスパートナー。
それが、わたしと夫の最も適した関係性だと思う。
ぴと、頬と頬を触れる。ぴと、あたたかかったり、冷たかったり。
それは、生きている証であり、それで十分だった。
——夫婦で頑張って身体に優しいお弁当を作っています
そんな体裁のための、籍。
それを寂しいと思う人もいるだろう。だけど、それはわたしの気もちではない。たった紙切れ一枚と、夫の淡白な人柄に安心できた。また食事を作ろうと、食に関わる人生を送ろうと、わたしは確かに思えたのだ。
***
「いけない。湯冷めしてしまうわ」
ざぱりと浴槽からあがり、冷えないように暖房を強にした。黒くてながい髪をドライヤーで丁寧に乾かしても、先ほどの思い出が頭から離れない。
秋のせい。むかしを思い出してしまうのは。
ちょっと侘しくて、物悲しい、夫が亡くなってしまった季節。
和恵さんと出会い、ねむちゃんに出会い、ただ健康を追求するだけではなくアレルギー対策と療養食についてわたしたちは目を向けた。
『グルテンフリーにすればねむちゃんは煮物もたべられる』
『いつもの中島様、糖尿病対策の糖質制限弁当だと、喜んでくれるかな』
基本調味料を厳選し、あらゆるおかずの数値を計算し、その人に合わせたオーダーメイドのお弁当を作っていく。
お客様が喜んでいただけるのが救いではあるけれど、誠太さんはそんなわたしたちを見かねて『あまり無理しないでほしい』『自分はこだわりがないので気にしないでください』と声をかけ続けてくださった。全種類とはいかなくとも、たとえば五十個の弁当のうち、三十個は通常の、残りがオーダーメイドの弁当にするだけでも、手間暇は格段に上がった。
ぱったり。
と、その日がやって来た。
『かずえさん……! 夫が、夫が起きてくれないんです……!!!』
放心状態でわたしは陽がすこし顔を出したくらいの時間にも関わらず、和恵さんへ電話をした。
夫は亡くなっていた。
テーブルの上には書き散らかした栄養素の計算式の紙が残され、それを元に考案したレシピが書……いてある途中だった。
最後に会話をしたのはいつだったのか。
追い求めることは、間違っていたのだろうか。
健やかとは、一体……。
はらりと一粒、涙が落ちた。
夫を思い出したくはなかった。ルーティンに沿って動いていれば思い出すことなどないはずだったのに。
慎重に、慎重に、慎重に、過ごしていたのに。
慌てて涙を拭いて時計を見、棚にしまってあった睡眠導入剤を取り出し、半分に割って飲み込んだ。
(だいじょうぶ、わたしは無理していない)
夫の死後、健康についてわたしは見直したはずだ。
無理をすればいいってものではない。
すべての人が喜ぶお弁当など、この世のどこにも存在しない。
奢るな。
間違うな。
迷うな。
そして、目の前のお客様を大切に見る。
夫の叶えたかったことを、わたしなりに追い求めなくてはならない。
「おやすみなさい」
いまから眠ればいつもの時間に起きられるはずだ。
薬を飲むのはいつもはしないけれど、半量なら……。
わたしの今夜はいつも通り。いつもとおなじ手順で幕を閉じる。
(つづく)
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