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連載小説「お弁当屋の笑子さん」 第十三話
第十三話 赤いどてら
う
そ
だ
ろ
ぉ
ぉ
ぉ
!!!
数日ぶりに出張先から自宅に帰ってきたおれは、叫びたい気もちをぐっと堪えたために口をもごもごさせた。もう夜も遅い。隣室ではきっと笑子さんが翌日に備えて熟睡しているころと察せられた。
おれはシャワーを握りしめていた。
温かい湯はおろか、水一滴すら出なかった。
水道管が凍結したのだとすぐに理解した。水道料金の支払い忘れのはずはない(生活口座に貯金があるのは知っている)。ここ数日はけっこう寒かったのだ。
「あーーー……。くそ、どうする、おれ」
帰宅して手でも洗っていればすぐに分かったのに、なんとこの日だけは寒さとホコリと雑踏の汚れをすぐに何とかしたく、浴室に直行したのだった……。
ちなみにいまは全裸である。
おれはがっくりと両膝を白いタイルにつけ、マンガかアニメみたいに四つん這いになって悔しがっていた。
「もしもし?」
「あ、和恵さん……。すみません、こんな夜遅くに……」
「いんや、まだ寝てなかったから全然いいんだよ。どうしたい?」
和恵さんに(彼女は大家さんだ)相談し、一旦彼女の家に行くことになった。ガラガラと頑丈なトランクを引きずってアパートの隣の戸建てへ向かう。和恵さん宅はすぐ近くなのだ。
「ごめんください……」
水道凍結なんて北国じゃあるまいし、そもそも二階だし、おれは長年ここで暮らしているが、こんなことは初めてだった。
「二階は一階と比べて凍結しにくいんじゃ……」
口を尖らしながら小さく言った。和恵さんはうなずいた。
「あぁ、そうだよ。出張程度で二、三日家を空けたからってそうそう凍らないけどね」
「ちょうど北海道が大雪と暴風で往路が遅延したんですよ。実質家を空けたのは……五日間くらいですかね……」
「そりゃ災難だね。ちょうど一昨日が大寒波さ。おかげで知り合いの業者も凍結対応に追われてヒイコラ言ってるみたいだね」
さらに、一階の住人がおれのいない間に引越ししたとか。水道凍結って、直すのにいくらくらいかかるんだろうか。大寒波をモロに受けてとんでもない出費になりそうだ……とゲンナリしていると、浴室に案内された。
「さぁさぁ誠太くん。お風呂沸いたから入っておくれ」
えっ⁉ と驚いた。業者の手配は……と尋ねると、どのみち今夜は来れないだろうということでおれはなんと和恵さん宅に一泊させてもらえることになった。
「うわぁ……。何から何まですみません……!」
「いい、いい。孫みたいなもんだから」
「孫……」
おれは祖父母によく「誠ちゃん、誠ちゃん」と呼ばれてかわいがられてきた。「誠ちゃん、おやつたべていきなさい」「誠ちゃん、これ晩ごはんのおかずに持っていきなさい」そんな流れで、いまもまた和恵さんに「お風呂に入って泊まっていきなさい」とナチュラルに誘われている。
「カッカッカ! これ、ここに着替え置きな。これは、バスタオル。洗ってあるから安心して使っておくれ」
「あ、はい。ありがとうございます……」
和恵さんは大きな声で浴室の使い方を教えてくれた。タオルも用意し、おれがまず入りたかった風呂を沸かしてくれた。こういうところも田舎のばあちゃんそっくりで、おれは微笑んだ。
古めかしい建物で浴室だけリフォームしたのだろう。真新しい快適なバスルームでのんびりと寛いだ。
「知り合いの爺さんに、明日の午前中なんとか来てくれるよう言っといた」
ほかほかと湯上がりの身体に真っ赤などてらを羽織り、居間に戻ると和恵さんが言った。どてらは和恵さんが用意してくれたもので、着替えのカゴに勝手に入れられていた。
「え! 電話、繋がったんですか……? けっこう夜ですよ」
「どてら、似合うね」
「あ、はい……。にしても、すごい色ですね……」
おれは自身を見やる。鮮やかな赤のどてらが似合う男、誠太、二十七歳。
「いい色だろう? 情熱の赤さ! 直してくれるのは業者じゃなくて一般人ね。普通の爺さんだけど秘密道具をたくさん持っててね。彼に頼めば何でも直してもらえるのさ」
「はぁ……」
「凍結なんてちょちょいのちょいさ」
カッカッカ! と大きな口をあけて和恵さんが豪快に笑った。
持つべきものは修理が得意な知人である。
「誠太くんは明日仕事かい? 私が立ち会うので良ければ勝手に直してもらうけど」
明日の修理の流れを話しながら、おれは心がふわりと温かくなるのを感じた。歩く時に足をすこし引きずっているのは膝が痛いからだろう。それも田舎の祖母と重なり、なんだか無性に帰省したくなった。
年末まであとすこし。
有り難いことに晩ごはんまでごちそうしていただいた。残り物で悪いね、と和恵さんは苦笑していたが、おれにとっては最高の食事だ。お茶碗に盛られていたのが赤い酵素玄米で、たぶんこれは笑子さんが和恵さんにお裾分けしたものと思われた。
おれも笑子さんも、お互いに何かをお裾分けするのは苦手だと思っている。だけど和恵さんには気軽にお裾分けできるから不思議だ。雰囲気がそうさせるのか? おれは和恵さんがとても偉大な存在だと改めて思う。
ごはんに漬物を乗せてたべていると、和恵さんが話しかけてきた。
「ちょっと前、笑子ちゃん、悪い男に襲われたんだって?」
彼女が打ち明けたのか。おれから和恵さんに言うのは躊躇われたので、和恵さんのほうから切り出してくれたのは助かった。
「はい。ひどいことです。ここからすこし離れた場所でしたが、治安が悪くなったものですね……」
おれの言葉に和恵さんが渋い顔をしてうなずいた。
街灯が一箇所消えているらしい。いままで気がつかなかったが、先日の一件があったため、すぐにでも直してほしいと強く思った。
「笑子ちゃんが誠太くんに電話してくれてほんとうに良かったよ」
「そうですね……。和恵さんでは身体に障りますし、まさかシングルマザーのねむちゃん家には電話はしないでしょう」
「そうだ。笑子ちゃんの周りには頼れる男がお前さんしかおらん」
それはどうなのだろうか。笑子さんのプライべートをおれは全然知らない。おれが見ている笑子さんは彼女のごく一部分にしか過ぎないのだ。
和恵さんはちょっと真面目な顔をした。
「誠太の せい は 誠実の せい。
お前さんは、誠実かな?」
筑前煮を口に運びながら、おれは首を傾げた。
「笑子ちゃんのご主人は笑子ちゃんを置いて遠くに行ってしまった」
「そう、ですね……」
「この先、笑子ちゃんがどうするのか、私はそれが心配だ」
「それは……ご本人が決めることでしょう」
「そうだけど、あの子は仕事しかしていない。毎日毎日弁当のことばっかり!」
和恵さんは怒っているのだろうか?
笑子さんの旦那さんは過労死だと聞いていた。弁当を作り続けて、過労で死ぬ。一体、毎日どれほど大変なお仕事を笑子さんは送っているのだろうか。
怒っているのかと尋ねるとそうではなく、和恵さんはただ心配していただけなんだと言い切った。
おれから笑子さんの過去を尋ねることはできない。むかし、訃報を知って店まで大慌てで飛んでいったものの、固く閉ざされたシャッターには、
『臨時休業のお知らせ
◯月◯日に店主が急逝いたしましたため、お休みさせていただきます
お客様には大変ご迷惑を……』
と、簡素な文面のコピー用紙が一枚貼ってあっただけで、おれは何一つ力にはなれなかった。
(それから家に戻って、紙にお店へのメッセージを書いたんだったな……)
記憶の片隅の出来事を思い出した。メッセージを書いた手紙をお知らせの隣に貼った。すると、それから他のお客様もおなじようにメモ紙だったり美しい花模様の便箋だったりで笑子さんへメッセージを贈り始めたのだった。
『おかみさんへ おいしいお弁当を買える日を いつまでも待ってます!』
『しようこおねえさん いつもありがとう』
『大変かと思いますが、お身体をくれぐれも大事にしてくださいね。
家族みんなで待っています』
『酵素玄米のお弁当はここでしか食べられません!』
『いつもおいしく食べてます♡ また食べたいです♡』
気づけば貼り紙のまわりをぐるりと囲むほどに。
……笑子さんの受け取った想いはいかほどのものだっただろうか。
和恵さんにお茶の淹れ方を伝授してもらい、おれが淹れた。風呂やら食事やらこの数時間はとにかく至れり尽くせりだから、お茶くらいは自分がやりたいのだ。赤いどてらの袖口に気をつけながら、おれは急須からトプトプと二つの湯呑みにお茶を注いだ。
再び会話は笑子さんのことに戻った。
「笑子さんほどお仕事に生活の全てをかけられている方には出会ったことがありません」
おれが言うと、和恵さんはため息をついた。
「ほんとうにねぇ……。遊びもしない、お出かけもしていない。買いものだって店のもの。あの子はほとんど店と家で過ごしているんじゃないかねぇ。……ただ、何事もほどほどが一番だ」
「旦那さんとの約束とか、信念とか、あるのではないでしょうか」
サービスで渡そうとしていた大根蜂蜜レモネードなのに、国産のレモンにこだわって、夜に襲われた笑子さんの泣き顔が脳裏に浮かんだ。
「こだわりを持つ。それは悪いことなのでしょうか……」
「良し悪しではない。こだわりを捨てろということでもない」
じゃあ何だろう。
「ゆるぅく、理想と信念を求めるために、手放すこと、大事にすること、それを見極めていく」
和恵さんはどんどん話す。
笑子ちゃんも、誠太くんも、固い、脆い、まぁ若さゆえに仕方がない。
健やかに生きるためにはきっと、いろんな瞬間の余暇をたのしむ必要もあるんじゃないか。
仕事ばかりでは見えぬものもあるはずだ。
「ま、年寄りの戯言だ」
和恵さんは悲しげに、慈しむようにポツリと呟いた。
おれは無言でお茶を啜った。
***
翌朝、いつもと違う洗面所で顔を洗い、台所で朝食の支度をしていた和恵さんを手伝っていると、店舗と住居を繋いでいる引き戸から笑子さんが顔を出した。
「まぁ、誠太さん。こんなところでおはようございます」
昨夜さんざん話題にのぼった張本人に会い、思わず心臓が跳ね上がった。それから吹き出す——こんなところでが妙にツボに入ってしまったのだ。
「お、おはようございます……。朝から賑やかにしてしまいました」
「何やら和恵さんではない方の声が聞こえたもので、ついつい覗いてしまいました」
笑子さんが朗らかに微笑んだ。
「はは、昨夜はちょっと大変なことがありまして。和恵さんに助けていただきました」
「そうでしたか……。ご出張、予定より延びてしまわれたのですか?」
「はい、出先は北海道だったのですが、往路の日に続けて天候が悪くなり、飛行機が欠航になったりしたもので」
「それは……。お疲れ様です」
ぺこ、とすこしおじぎをして笑子さんがねぎらってくれた。いつもの黒シャツ、いつものエプロン、いつもの笑顔、いつもの声。
いつもの日常がそこにはあった。
おれは安堵する。
彼女が醸し出す、いつも、に。
「きんぴらごぼう、すこし召し上がります?」
お店の作業場でタッパーと菜箸を持っている笑子さんが尋ねてきた。きんぴらごぼうはおれが大好きなおかずだった。
突然、おれのなかで何かが溢れてきた。
——この女性を死なせたくない
何も、いますぐに倒れるわけではないことくらい知っている。現に彼女は至って健康だ。この五年間、笑子さんが体調不良だったことは数えるくらいしかない。健康に気を遣った食事を作り、仕事を毎日続けるために、彼女自身だって相当気をつけているに違いない。
でも。
——でも、旦那さんは、あっさりと亡くなってしまった
和恵さんも心配していた。己より年若い者が先に逝ってしまうこと。順番が違うじゃないか。残された者の深い後悔。気づいてやれなかった悲しみ。
——おれは、笑子さんがいなくなるのは、いやだ
じわり、じわりと、ずっと寝かせていた感情が溢れ出してくる。
ただの客のひとりでいいじゃないか。と思うおれ。
一歩、踏み込んだらどうか。と思うおれ。
ただ、とりあえずはきんぴらをどうするかの返事をしないといけない。笑子さんを見ると、箸を持ったまま困った顔でおれの返事を待っていた。
「え、と。あとでお弁当を買うのでいまは……」
おれが辞退を言いかける前に、横から和恵さんが大声を出した。
「笑子ちゃん! それ、誠太くんの好物だろ⁉ 悪いけどこの小皿にちょいちょいっと入れといてくれるかね!」
「あ、はい。……はい!」
慌てて笑子さんが小皿を受け取った。異論の余地なし。おれの朝食に突然きんぴらが登場することになった。
「あとでまた買いに寄りますね」
仕方なく、つやつやの炊きたてごはんや和恵さんお手製のおかず皿などを移動しながら言うと、笑子さんはうなずきながら満面の笑みを浮かべた。
「誠太さん、家族みたい。いつもと違う朝ですが、それもまた、ちょっとたのしいですね」
いつもとおなじ、が絶対なのだと思っていた。
彼女の笑顔を見たおれは。
いまこの瞬間、寝かせっぱなしだった気もちをはっきりと自覚した。
(つづく)
次のお話はこちら
(次回、最終話 🍀更新は水曜、日曜の予定です😊)
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