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連載小説「お弁当屋の笑子さん」 第十二話
第十二話 白いどてら
目覚めると部屋はくらかった。睡眠の質を高めるための遮光カーテンのおかげで、この寝室に太陽の光は届かない。わたしはゆっくりと起き上がり、掛け布団を半分に折った。
「…………寒いわ」
冬仕様の掛け布団がなくなっただけでとたんに冷気がわたしの身体を包みこんできた。思わず身震いし、慌てて近くの白無垢の木製チェアにかけてあった白いどてらを羽織った。これは何年も前に大家の和恵さんからいただいたものだ。
『うちの子たちは海外に行ってるからね。全然帰ってこないんだわ』
そう言って、和恵さんのお子さんたちが昔使っていたというどてらの一つを貸してくれた。中綿がぎっしり詰まってあたたかい、キルト生地のどてら。擦り切れたタグにはグンゼと書かれている。
「おはようございます、大豆ちゃん」
ひとり暮らしには広すぎる部屋に住んでいるパキラに向かって、わたしは囁いた。
「おはようございます。小豆ちゃん」
寒さには弱いであろうミニサボテンには、はぁっとあたたかい息を吹きかけてやった。
エアコンがゆるい音を立てながら部屋をゆっくりと暖めてくれている。
最近は、朝、たとえば洗面所で歯を磨く時、たとえば二個のマグカップに珈琲を淹れている時などに、夫を思い出すことが少なくなっているような気がした。三年前の早朝に、糖尿病を患っているお客様のための低糖質おかずの栄養値を計算し、そのまま息を引き取っていた夫は、ダイニングテーブルにうつ伏せになって冷たくなっていた。力のない手がだらんと垂れ下がっていて、床にシャープペンシルが転がっていた。ペンの芯が折れていたことまで、意識をしようと思えばいまでもありありと思い出すことができる。
だけど、それらを思い出すことに、一体何の意味があるというのだろう。
わたしは自分のマグカップにブラウンシュガーの角砂糖を二個入れた。この塊は大ぶりなので二個でもかなりの甘さになって好きだった。
『君は珈琲が好きなんだね』
夫はそう言っていたが、わたしは珈琲が好きではない。むかしも、いまも。だが、夫には、わたしが何を好きであるかどうかは、お米一粒ほどの興味もないことなのだろう。わたしの後ろに立ち、まっすぐにおろしたながい黒髪に触れていた夫。夫は確かに生きていた。皮肉なことに彼が生きているころは、なぜわたしの髪に触れるのか、触れることにどんな意味があるのか、尋ねることはしなかった。
わたしのほうだって、夫には興味がなかったのだ。
わたしは振り返った。
振り返っても、むろん夫はそこには立っていなかった。
***
「おはようございます。あら、お母さん、その髪……」
吐くと息が白くなる寒い日、今日もねむちゃんとねむちゃんのお母さんがわたしのお店にやって来た。お母さんの髪色が数日前と違っていたのと(今度は紫のメッシュを両サイドに入れていた)、髪全体がゆるくウェーブかかっていて、とても似合っていると思った。
「おはようございます。そうなんです、気がついてくださって嬉しい! 一昨日、染めてパーマをあててみたんです」
「そうなんですね。とても良くお似合いです」
「おかあさん、にあってるよー。ねむもふわふわってしたいー」
「ねむちゃんは、大人になったらね」
髪を二つに分けておさげにしたねむちゃんは、お母さんを見上げてうっとりとしていた。
お母さんがねむちゃんから手を放し、
「誠太さんの飛行機、予定通り飛ぶといいですね」
と、手袋を脱ぎながら言った。
「ええ。たしか出張先は……」
「北海道?」
「そうでした。天気予報を見ると驚きます。気温がこっちと全然違いますから」
五年も経てば常連客同士の交流もあるだろう。わたしのお見舞いがあってから、ねむちゃん母子と誠太さんは、たまに立ち話をすることもあるんだとか。それか、中心にいる和恵さんが、どちらかにどちらかの情報を伝えているか。
わたしの住んでいるアパートに一台の引越し用トラックが停まった。
「あら、引越しかしら」
「ぱんだぁー! ねぇ、おかあさん、ぱんだがかいてあるよ!」
服の至るところにパンダが描かれているスタッフが数人現れて、テキパキと軽やかに作業を開始するのが見えた。そのうち和恵さんも自宅からやって来て、今月中に退去者と入居者がいることを教えてくれた。部屋からどんどん誰かの荷物が運び出されてくる。
「新しい方、怖い人でないといいですねぇ」
ねむちゃんのお母さんがスタッフの男性たちを見てぼんやりと呟いた。すると横で、和恵さんがにっこり笑った。
「私が入居手続きをするんだから、安心おしよ」
「まぁ、確かに。でも初対面では分からないこともありますから。実は毎晩、大音量で踊っちゃう人かもしれないじゃないですか」
「カッカッカ! そりゃあ困ったね。すぐに張り紙を貼らんといけないよ」
和恵さんが腰に手を当て、仰け反って笑った。
「そうそう、怖い人といえば、笑子さんも気を付けてくださいね。ついこの間、ちょっと遠くのスーパーの近くで、ひったくりがあったんですって。電柱に看板が立てかけられていたんですよ、注意喚起の」
わたしは驚きのあまり目を瞠った。たぶん、いや、十中八九その看板が立てられたきっかけは自分だと思ったから。
「……怖い、ですね」
「もう、いやですよね。お年寄りも多いですからひったくられたらどうしようもないじゃないですか。特に夜は暗いですし、できる限り出歩きたくないですけれど、どうしても必要なものがあれば、ねぇ……」
お母さんが頬に手を当ててため息をついた。
「おかあさん! ちこくしちゃうよー」
ねむちゃんが顔をくしゃくしゃにしてお母さんに呼びかけた。「あっ、いけない! 笑子さん、いつものお弁当をお願いします!」そう言って、お母さんが慌てて手に持っていた財布からお札を出した。
お代金と、ねむちゃん専用の空のお弁当箱。受け取って、渡して、レシートをまた手渡した。お母さんは、ねむちゃんの背中にしょった幼稚園のリュックサック(四葉のクローバーの柄のかわいい生地だ)に丁寧に入れながら、わたしのほうを向いてこう言った。
「今度、夜に歩く時は誠太さんに来てもらっちゃおうかしら」
わたしはさらに驚いた。
「誠太さんに、ですか?」
「そうそう、ボディガードとして一緒について来てくださいって」
「まだ、何も起こっていなくても、ですか?」
あまりにお母さんが軽い調子で言ったので、わたしは聞き返してしまった。
「起こってからじゃ遅いので。いえ、まぁご迷惑だとは思いますよ。そんな急に連絡されてもーって。第一わたしは誠太さんの連絡先、知りませんし」
「はぁ」
「でもやっぱり怖い時がもしあれば、わたしはねむちゃんを守らないといけないし、好きなものをあげますからお願いしますって、頼んじゃうかもしれないですね。周りに安心して頼める男性もいないですから……」
わたしは胸の前で両手をそっと握りしめた。
何も起こっていなくても頼っていい、そういう考えに至らなかったことに、わたしは自分でも驚いていた。好きなものをあげるからお願いします、それを言うことがわたしには難しくても、ねむちゃんのお母さんならきっと言えると思った。やすやすと、簡単に。
母子がバタバタと急いで幼稚園に向かって走って行った。
ひったくりに襲われた夜、誠太さんはすごく心配をしてくれた。ただでさえ男の人が怖いのに、バイクで恐ろしい目に遭い、迷ったけれど電話をかけてしまった。誠太さんはすぐに駆けつけてくれた。それに、寒空のなか、警察への対応時もずっと隣にいてくださった。それがどれほど安心できたことだったかを、わたしはあとになってすこしずつ分かってきたのだ。
(誠太さんは手の怪我、すこしは良くなったでしょうか……)
ねむちゃんのお母さんも言うように、誠太さんは優しい人だ。だからこそ襲った相手に怒り、地面を叩いて怪我までしてしまった。
わたしは空を見上げた。
北の方角がどちらなのか、わたしはちっとも分からない。
方角も、流行りも、世間を賑わすニュースなども、全く興味がない。
吐いた息が靄となって、透き通った空に溶け消えた。
夫には感じなかった、誰かを心配する気もち。
夫には考えなかった、誰かに頼りたいと思う気もち。
仕事とは何も関係のないこれらのことが、わたしの日常を侵食する——……。
怖さと、不安と、認めざるを得ない安らかなもの。
ひたひたと確実に迫ってくる。
(つづく)
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