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連載小説「お弁当屋の笑子さん」 第七話
第七話 悩める和恵さん
ようやく夏が終わってきたのかもしれん。
ある日の早朝。私は定位置にどーんと座り、いつものチャンネルで今週のニュースを観ていた。
そういえば。ここ最近はすっきりとした目覚めだった。夏特有の、汗でじっとりとした嫌な寝起きではなかった。ぼり、ばり、と国産米百パーセントと記載された豆煎餅をかじりながら、私は数日中の朝を思い出していた。
一日の過ぎるのがなんと早いことか! ついこの前、誠太くんから初夏が旬の野菜をお裾分けしてもらった気がするのに。ついこの前、ねむちゃんが赤ちゃんだった気がするのに。もっと言うと、もうちょっとこの前、というのは数年前だったりするものだから、ほんとうに歳はとりたくないものだ。
そう、私はもうおばあちゃんの歳だ。大抵のことはさらりと受け流せる。三年前に「お弁当 こうそ屋」のご主人が亡くなった時も、悲しく辛い気もちをぐっと堪えながら、笑子ちゃんと『前を向いて生きていかないとね』と、一緒に涙して乗り越えてきた。
「どっこいしょ」
ちゃぶ台に両手をついて、なんとか立ち上がった。膝関節が痛いのは加齢のせいだろう。代謝が落ちているのは重々承知しているので(笑子ちゃんから一日に必要なカロリーの話はきっちり教えてもらっている)、お友達よりかは糖質を抑えて必要な栄養素を重視した健康な食事は心がけているつもりだけど……。
「あとは運動か……」
頬に手を当ててため息をついた。
ちらりとテレビの天気予報を見ると、今日は爽やかな秋晴れだとか(私が認識するまでもなく、世間では『いまは秋』ときっちり言っていた)。さらに『絶好の行楽日和です』とも、若い男性が言っていた。
「うう……散歩、するかねぇ……」
私はたまに笑子ちゃんの買いものをお手伝いすることもある。何か目的さえあれば、散歩という軽い運動もどうにかやれる気がしている。でもいまは午前中で、お店の買いものリストはまだできてないはずだ。しかたなく、行くあてのない散歩をしようと一歩を踏み出した。
ゆっくりと階段を降りて、自宅用の玄関から外に出ると、
「あら、和恵さん。お散歩ですか?」
笑子ちゃんがお客様に手を振りつつ、私に気がついて朗らかに尋ねた。
「えぇ、運動もしないといけないですからね」
「そうですね。今日はお天気もすばらしい日ですから、たのしんで行ってらっしゃいませ!」
あ、こちらのおかずは本日初めて詰めてみたものなんです、とすぐに笑子ちゃんは仕事に戻った。
ながくて艷やかな黒髪を首の後ろでキュッと丸め、ヘアピンでほつれのないよう美しくまとめ上げている笑子ちゃん。今日も黒いTシャツを着て、細い腕でせっせと弁当を袋に詰めたりお会計したりと忙しく立ち働いていた。
——三年。
私は未亡人となった笑子ちゃんを眺め、心のなかでため息をついた。
***
「お弁当 こうそ屋」がオープンしたのは約五年前。ご主人が突然死されたのは約三年前。
笑子ちゃんとご主人は、この土地とは縁もゆかりもないふたりだったが、かけおち同然で(諸事情で……と言っていた)たまたまこの地域に住み始めた。私と出会ったころはまだ弁当屋は営んでおらず、それぞれが別々の職に就き、穏やかに真面目に働いていた。
彼女たちの住むアパートの大家は私で、私は隣の戸建てに住んでいた。それこそむかし、私の主人が一階で弁当屋をやっていたので、主人の亡き後は居抜き物件で借り手のつかないまま放ったらかしになっていた。
笑子ちゃんたちとの雑談で借り手がない話になったのがきっかけなんだろうか。もともと、ある程度の年月が経ったら商売を始めようと考えていたのだろうか。
とにかく、若い夫婦は弁当屋……それも、手間隙かかった高級路線のお店を始めたのだった。
開業当初は『健康志向』ブームも相まって雑誌や取材もあったらしいけれど、そのうちぱったりと表に出ることはなくなった。ただ、顔なじみのお客様の心はガッチリ掴んでいるのね、さすが笑子ちゃん。一人ひとりを大切に想っていらっしゃいますからね。お客様が途切れることはなかったと思う。
「秋深き 隣は何を する人ぞ」
右、左、と足を交互に出して歩きながら、私は芭蕉になってみる。
秋は何だかふいに物悲しくなる。笑子ちゃんのご主人は、一体何だってあんなにも急にどこか遠い場所に旅立ってしまったのか。
笑子ちゃんは真面目だ。まだまだ若いのに、一心不乱に毎日弁当屋を営んでいるのが近くで見ててもよく分かる。彼女の意思は固いのだ。娯楽、余暇、これらをすべて手放して、彼女の日常は成り立っているように見えた。
「固いと 次は どうなるか」
五七五ではなく、四三五。口に出してから川柳にすらならなくてため息をついた。頭まで歳とってしまうなんてほんとうに嫌になる。
「もろくて いつか こわれるぞ」
また四三五。でもぴったりの言葉が口から飛び出てきたと思う。
朝たべた煎餅のようだ。
ばりん、と、いつか壊れてしまいそう。
笑子ちゃんはこの先もずっと、ずうっと仕事だけで生きていくのかしら。
たまの女子会ならぬおばあちゃん会で、高齢の女たちで集まって近況報告や病院の裏事情などを赤裸々に話すことがある。そこではご主人と死別している人もいれば、介護に疲れている人、孫のことや子供たちの配偶者の愚痴など、雑多な話題に溢れていた。
ぎゃあぎゃあと賑やかしに店の一角を陣取って、我先にとおばあちゃんら私たちはおしゃべりをする。終わればけっこうスッキリするものだ。
時代は変わる。それは身をもって知っている。
いろんな生き方があって、だから私みたいな年寄りが若い笑子ちゃんの人生を心配するなんておこがましいって分かってるけれど……。
「誰か頼れるいい人、いないもんかねぇ……」
チチチ……と薄っぺらい水色の空を小鳥が飛んでいった。一匹、二匹に続いてどんどん現れてきた。
「ちょっと……! 一体こんなに小鳥、どこに潜んでいたのよ!」
全部独り言である。思わずつぶやかずにはいられなかった。数多くの小鳥たちが一斉に飛び立ち、私の左側の木から反対の別の木にどわーっと移動した。鳥たちの重みでか細い木の枝がたわんだ。
「先頭の一匹がリーダーなのかしら? それとも、何となく別の木に行きたくなった小鳥に羨ましくなって、他の小鳥たちはぞろぞろ続いていくのかしら?」
群れる生き物と一匹で生きていく生き物。
笑子ちゃんはまるで一匹狼みたいだ。
『酵素玄米を作るには、玄米をただ寝かせるだけではできません』
脳裏に、突然笑子ちゃんの静かな声が響いてきた。
むかし、私が彼女に『なんで小豆を入れるの?』と尋ねた時のこと。
『小豆のタンパク質とお塩のミネラルが合わさることで、より美味しく作ることができるんですよ。それに、寝かせると言っても放ったらかしではだめなんです。時々こうして……』
と笑子ちゃんは言いながら、とんでもなく大きな釜のなかのお米たちを、しゃもじで優しくほぐしていった。
一つではだめなのだ。
「仲間と、時間と、手間暇」
私は確信に近いものを手に入れた気がした。悲しみも辛さも、いつかは乗り越えて行かねばならぬもの。
せめて私が生きているうちに、笑子ちゃんがまた前を向いて固さが取れるように角を取っていくお手伝いをしたい。
ため息を深呼吸に変え、私はやや上を向いて力強く歩き始めた。
「お弁当 こうそ屋」のある私の自宅に向かって。
秋晴れの空気は清々しい。
(つづく)
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