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連載小説「お弁当屋の笑子さん」 第十一話

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第十一話 夜のレモン


 冬。息をはぁっと出せば白くなるような夜。
 深い漆黒の空にポツポツと小さな星が浮かんでいた。空気が冷たいほど星は美しく見える。今日は、そんな日だった。

 胸ポケットに入れていたおれのスマホがブブブと振動し、何だろうと思って画面を見てみると電話だった。そして、思わず二度見した。

「えっ! 笑子しょうこさん⁉」

 腕の時計を見ると夜の七時過ぎ。仕事帰りのためスーツに冬用コートを着込んだおれは、もうすぐ家に着きそうな場所をひとり歩いていた。

「はい、誠太せいたです!」
 慌てて電話に出た。すこしの間、沈黙があり、向こうから笑子さんのか細い声が小さく聞こえた。
 震えていた。
 買いものの帰りに、ものすごく怖いことがあったらしい。

 おれは目を見開き、ナンパか、変質者か、不審者みたいな輩に襲われたのかといろんなケースを思い浮かべたが、まずは彼女の元に駆けつけなくてはならないと判断した。以前笑子さんの見舞いにうかがった時、いつか困ったことがあればと電話番号を交換していたのがついに功を奏した。


 十五分くらい走っただろうか。決して交通量は多くない道路の隅に(辺りは真っ暗で見えにくかった)へたりこんでいる笑子さんを発見した。

「大丈夫ですかっ!」

 彼女の近くには、くしゃくしゃになったエコバッグが落ちていて、レモンが数個散らばっていた。

「誠太さん……お呼びだてして申し訳ありません……! わたし、動転してしまって……!」
「何言っているんですか! 呼んでください! 電話してくださって良かったです!」

 とりあえずレモンを拾い集めた。他に何か買ったのかどうか尋ね、生姜も……と答えたので探したところ、それは電柱の影にぽつんと落ちており、それも拾った。

 いつも気丈な笑子さんがずっと震えていた。
 おれはただの客で、お互いの家がただ隣同士だというだけなので、必要以上に世話を焼くことは躊躇ためらわれた。でも心配で仕方なかった。

「レモンを買いたかったんですか」
 小豆のような濃茶色のコートを着た彼女の隣で、おれはエコバッグと黒革のビジネスバッグを手に持ちながら、言った。
 するとうつむいていた笑子さんが初めておれを見上げた。

「はい、ちょっと、いつものスーパーになくて……」
「そうでしたか。たまたまなんでしょうか……、あのお店、そんなに品揃え悪いほうじゃないと思っていたんですが……」
 いつものスーパーとは四ツ葉スーパーのことだろう。おれも和恵さんも、普段よくそこに行っている。家にチラシも届くし。
「えぇ、レモンはありました」

(ん? どういうこと?)
 おれが困惑していると、笑子さんは続けて言った。

「国産レモンが、なかったので。……無農薬の」

 おれは仰天した。
 産地にすらこだわっている彼女に。
 聞けば、大根と蜂蜜とレモンを重ね合わせたものを仕込みたかったらしい。確かに冬っぽい組み合わせではある、風邪にも良さそうな……。

 ゲホッとおれは咳払いをして、おそるおそる尋ねた。

「笑子さん……。おれが、咳してるのを気にされたんですか?」
「…………」

 おれは数日前からのどの調子が悪かった。昨日は「お弁当 こうそ屋」で酵素玄米こうそげんまい弁当を買う日だったので笑子さんと会話もしたのだが、そんなに咳は出ていなかったはずだ。声は……確かに渋いものになっていたかもしれないが。
 そして隔日で弁当を買う予定のおれは、今朝は買わないで、明日買う予定だった。それと明後日の朝。急な出張が入り、申し訳なさと遠慮もあったけれど、勇気を出して二日連続で弁当を買いますと言ったのだ。

「大根と蜂蜜、そしてレモンをお砂糖と一緒に漬けておくとですね……」
 笑子さんが小さく呟いた。
「え? あ、はい」
「そのうち、じわりと特別なエキスが出てくるんです」
「大根蜂蜜はおれも知っていますよ。田舎の実家で祖父母も両親も、しょっちゅう飲ませてくれましたので」

 おれが言うと、笑子さんはふっと表情を和らげた。

「笑子さんが作ると相当美味しくなりそうですね。レモンは必須なものなんですか?」
「そうですね、レモネードというドリンクに味が近くなって、飲みやすくなるんです」

 なるほど。レモンなしバージョンのあれは、確かにホットドリンクというよりは薬に近い。野菜の味とにおいがするもんな……。と、妙なところでおれは納得した。

「寒さも厳しくなってきましたし、誠太さんやねむちゃんも飲んだら風邪対策になるかと思って、サービスで一杯ずつご提供しようかと……」

「サービス⁉」
 声がひっくり返ってしまった。

 レモンの産地を国産に選んだのは、農薬を気にしていたからだった。
 遠い外国から日本に運ぶには農薬は必要だ。それは知っていたけれど……。

「だって、無料なんでしょう? 飲みものはいかがですかって、お金取るわけじゃないでしょう」
「そうですが、気になるんです。身体にいいお弁当を作っているのに、自分が心からこれはいいものだって思えないものを、召し上がっていただくのは嫌なんです」
「何も今日急いで買わなくても。おれか和恵さんにでも頼めば、遠いスーパーに寄って近日中には渡すことができますよ。いつも週三くらいで弁当も買いにうかがうんですから」

 もう遅いことだがとりあえず言ってみると、笑子さんは首を横に振った。

「明日も買いものには行きます。でも明日ではちょっと遅いと思ったんです。特別なエキスができるのには時間が必要です。今夜作って二晩くらい置いたら、明後日の誠太さんがご出張される朝に召し上がっていただくことが……」
 そう言いながら、彼女はハッとして口に手を当てた。
「いえ、違います。誠太さんが、というわけじゃないんです……! 誠太さんのせいではないんです……!」

 笑子さんは慌てふためいていた。
 彼女が今夜買いものに出たきっかけは、いま言っていた通り、たぶんおれの出張があったからなんだろう。
 謝る必要など、どこにもないはずなのに、
「申し訳ありません……」
 と笑子さんは弱々しく言って、項垂うなだれた。

 誰かの体調を心配してレモンを、しかも産地にこだわって遠くのスーパーに寄り、それで怖い目に遭った。頼まれていないことを勝手にやって、電話して巻き込んで、貴重な時間を奪ってしまった。
 笑子さんが気を病んでいるとしたら、おそらくそんなところだろうか。

「大変失礼なことを申し上げました……」

 笑子さんの両手にポタポタと涙が落ちた。
 両手をぎゅっと握りしめ、必死にあらゆるものに耐えているのがありありと分かった。

「笑子さんのせいではないです。何も」

 悪いのは、彼女を襲った男だ。
 聞けば、後ろからレモンと財布入りのエコバッグをひったくられかけたそうだ。必死で抵抗し、肘や拳で相手を叩いたそうだが女性と男性の力の差は歴然だ。しかも相手はバイクに乗っていた。嘲笑うかのように、バイクの男は走って逃げる笑子さんをゆっくりと追いかけてきた。
 幸い近くを車が通り過ぎたので相手の男は逃げて行ったそうだ。

 おれは腹の底から憎悪が煮えたぎった。

——卑怯者め!

 何もできなかった自分が悔しかった。思わず拳でアスファルトの地面を殴りつけた。

「誠太さん! ……血が」
「……え」

 ふと我に返ると握った拳に血が滲んでいた。
 笑子さんがそっと両手でおれの手を包んでくれた。まるで冷凍庫から出したばかりの保冷剤のように冷たい手が触れ、ビクリとした。そうだ、冷静にならないと。だんだんと痛みを感じてきた。

 それで、おれと笑子さんはまず警察に連絡をし、寒さに震えながら事情聴取を受けた。


      ***

「さぁ、誠太さん。どうぞお入りください」

 ほとほと疲れ切ったおれたちはおなじアパートに帰ってきた。とにかく寒い。おれの部屋と隣の笑子さんの部屋とにそれぞれ帰ろうと思ったら、なんと彼女が自室にあがってくれと言ってきた。困ってしまい、おれは唸った。

「ど、どうされました?」
「うーん……。いや、ここで別れましょう。もう自宅ですから」
「手当てを! わたしの部屋に、救急箱がありますので手当てをさせてください!」

 彼女の目は真剣だった。警察と話をしている間、ずっと気になっていたらしい。いくら気心が知れた間柄とはいえ、おれが笑子さんの部屋にズカズカと入ることは躊躇ためらわれた。

「では、お店で手当をさせてください」

 そう言うと、笑子さんは小走りにアパートの階段を降り、和恵さんのいる隣の建物へとおれを連れて行った。


「お、おじゃまします……」
 初めて入る弁当屋の調理場? 作業場? へ、そろりと足を踏み入れた。
 さっそく笑子さんがてきぱきと手当ての準備をし始めた。

 そこには大きな釜が四つあった。
(一つだけ形が違うから、それが炊飯釜なのか?)
 作業台は何も乗っておらず、ぴかぴかに磨き上げられて清潔そうだった。壁側に吊り下げられた布巾、菜箸などの調理道具がずらりと出番を待っていて、伏せて乾かされたボウルやザル、まな板、それぞれが適切な場所に適切な置かれ方で収まっていた。

(まるでここは笑子さんそのものだ)

 物珍しげになかを見ていると笑子さんに催促された。冷水で砂利を洗い落とされると、たちまち痛みが広がった。固い地面なんて叩かなきゃ良かったと心底後悔したが、あとのまつりだ。

「痛いです」
「我慢してくださいね」

 ガーゼと包帯で丁寧にくるまれた。
 静かな店内にはふたりしかいないはずだが、釜のなかではすこしずつ酵素玄米が赤くなりながら寝ているわけだ。ゆっくりと、時間をかけながら、彼らは出番を待っている。

 しばらくして、笑子さんが立ち上がった。

「珈琲は、普段召し上がりますか?」
「コーヒーですか? はい、おれは好きですよ」
「そうですか。では、淹れますね。ドリップパックですが」

 すこし首を傾げたが、サイフォンやハンドドリップ、コーヒーメーカーではないことをあえて言いたかったのかな? と思うことにした。彼女はこだわりがすごいのだと思う。それはほんとうに尊敬しているし、だから毎日手間暇かけた「お弁当 こうそ屋」をやれているのだ。
 ただおれは、そんなに物事にこだわらない。
 こだわらないから、彼女のこだわりに敏感に反応してしまう。

「どうぞ」
「いただきます! あー……あったかい……」
 マグカップを両手で包むだけでもじんわりと温かさが伝わってきた。

 ゆっくりとコーヒーを啜った。
 だんだんと身体も温まり、おれはコートの前をあけてネクタイもすこし緩めた。

 ぽつりぽつりと言葉を紡ぐ。

「犯人、捕まるといいですね」
 おれは憎らしいバイク男が逮捕される姿を想像して言った。
「どうでしょう。ナンバーも覚えられませんでしたし、警察の方も言ってました。情報が少なすぎるので、捕まえられるかどうかは難しいって」
「ずいぶんあっさりしてますね」

 笑子さんは自分のコーヒーにミルク(わざわざ電子レンジで温めていた)を入れ、スティックシュガーを(なんと三本も)投入したやつを飲んでいた。飲みながら、もう一度手を洗い、レモンを切る包丁とまな板、それから片手鍋で湯を沸かし始めた。

「……すみません。どうしても手当てをしたくてこちらに来ていただきましたが、ここは寒いのでお風邪がひどくなってしまうかもしれなかったですね。……配慮が足りず、ほんとうに申し訳ありませんでした……」

 笑子さんは戸棚から小ぶりのガラス瓶を取り出した。犯人逮捕がどうこうよりも、おれのことばかり心配しているようだった。

「……ゴホッ。いや、笑子さん、謝りすぎです。それより、ちゃんと電話をしてくれて良かったですよ。こんな夜に、ねむちゃんのお母さんや和恵さんには、連絡しにくいでしょうから」
「……そう、ですね」
「あとから、実はひったくりに遭いましたと聞かされるほうがよっぽど辛いです。なので、これ以上謝るのはナシですよ。いいですか?」

 おれが念を押すと、笑子さんはゆっくりとうなずいた。
 いつも笑っている彼女がいまは無表情だ。そのまま彼女はおれに背を向けて、トン、トン、とレモンを薄く切り出した。迷いのない動作、手入れの行き届いた包丁はすんなりと黄色い果物を薄っぺらくしていく。

「ほんとうは、買いものくらい、おれにも頼れるなら頼ってほしいです」
「……和恵さんには、たまにお願いすることもあるんですけれど」
「夜は、あまりに危険です。笑子さんも、和恵さんも」

 二個目のレモンが薄くなった。笑子さんは項垂れた。

「……わたし、あまり人に頼るのは苦手で……」

 そうだろうと思う。お裾分けと一緒だ。何かを頼れば、何かで返さないといけないと思ってしまう。気を遣ってしまう。億劫おっくうで、面倒。

「いつも美味しいお弁当に感謝しています。だから、つい、おれにできることがあれば、頼られたいと思ってしまいました」

 これ以上は言葉を控えなくては。
 ずっと築き上げてきた関係——薄く、軽い、オブラートのような——が壊れてしまう。

「……ゴホッ、ゴホッ。……大根蜂蜜レモン、すこしだけ、たのしみにしてます」

 咳き込みながら言った時には、最後のレモンはとっくに切り終わり、大根もすり下ろし、笑子さんは瓶に材料をみっちりと詰めて蜂蜜をたっぷりと注ぎ入れたところだった。

 やがて、大分時間が経ってから、
「次から夜にレモンを買うときは……誠太さんに頼ることもあるかもしれません」
 と笑子さんが消え入りそうな声で言った。

 おれは目をしばたたかせた。

「……お安い御用です」



(つづく)


次のお話はこちら
(準備中 🍀更新は水曜、日曜の予定です😊)

「お弁当屋の笑子さん」マガジンはこちら↓(全14話)

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