【福島浪江訪問レポート】 浪江のまちを訪ねて
プロジェクトデザイン研究室・災害復興チームは被災地を自分の目でみて体験するプロジェクトの一環として2022年7月8日・9日に東日本大震災の被災地である福島県浪江町を訪ねた。
東日本大震災から 10 年以上が経過した。沿岸部は主に津波による被害を受けが、私たちが今回訪れた福島県浪江町は、津波に加えて原発による放射線被害も受けた場所である。
津波による被害は時間が経過するとともに目に見える形で「復興」を感じられる。しかし、原発による放射線の影響により浪江町⺠は移動を余儀なくされたため、10 年以上が経っても復興どころか復旧すらも目に見えない。
今回の浪江訪問で実際に感じられたことを以下に述べていく。
波江の中心市街地の現状
高速道路から見下ろす浪江の景色は荒れた田畑の緑で溢れかえっていた。浪江市街地に近づくにつれて車の交通量が徐々に増えてきたが、周りを見渡してもどこか暗い雰囲気であった。市街地であるため建物の数は多いが、その分空き家が多く目立ってしまっていたためである(写真 1)。
この交通量と廃墟の数との隔たりがより一層暗い雰囲気を醸し出していた。
しかし、この雰囲気の中にも新しいおしゃれな飲食店が思いの外多かった。これは福島県が行っている移住促進制度が背景にあると考えられる。起業支援金は最大 400 万円も支給される。新規事業をしたいと思っている人は浪江だと行いやすいのかもしれない。
次に道の駅なみえに訪れた。ここは多くの飲食店やお土産販売などをしている。訪れた当時はいろいろなものがあり楽しかった。後に住⺠の方が、「地元住⺠はあそこを歓迎していないよ、だって地産地消じゃないんだから」と話していた。その時は「そうなのですね」と流していた。しかし、帰り際に道の駅なみえでお土産用の桃を買った。福島県は日本有数の桃の産地であるからだ。満足して家に帰り、桃をよく見るとなんと山梨県産だったのだ!!(写真 2)
ここで「なるほどな」と感心してしまった。これでは確かに住⺠には歓迎されないなと。
帰還困難区域の現状
東日本大震災以来、帰還困難区域に指定されている場所では放射線量が基準量を超えているため、ここで生活を営む人はいない。そのため、⻑い間手入れがされていない雑草が生い茂っている(写真 3)。
また、伝統的な日本家屋もメンテナンスがされていないため屋根の瓦が崩れ落ちており、障子も破れてしまっている(写真 4,5)。
ここに住んでいた人たちは田畑で生計を立てていた人が多く、その広大な田畑の跡地は汚染土壌を保管しておく中間貯蔵施設や太陽光発電場となっている(写真 6,7)。
そのため、放射線量が下がってもここで生活を営んでいた人たちが帰還するのは難しそうであると感じた。
浪江全域に放射線量を測定する機械が設置されているが、帰還困難区域にもかかわらず想像よりも低い数値であったため、思ったよりも危険な場所ではないとその当時は感じていた。(写真 8 では 0.123μSv / h)
しかし、この数値は地表からある程度高い位置で計測されたため、除染していない土壌上での数値はこれよりも数倍大きくなると考えられる。このことから、国が原発被害を小さく見せようとしているとも考えられる。
帰還困難区域に訪れた感想としては、津波被害を受けた地域では遅くても着実に復興へと歩んでいるのに対して、原発被災地では復旧すら全くされておらず「時間が止まった」場所であるようにさえも感じられた。
まとめ
今回の浪江訪問で初めて知ったことは、意外にも新規移住者が多いということだ。通常の災害とは異なり放射線による災害では移動しなくてはいけないため、被災前の住⺠が帰還するのはどうしても難しい。そのため、元の生活を再建する方向ではなく、新たな移住者を迎え入れる方向に力を入れざるを得ないからであると考える。浪江はこのような新規移住者を迎え入れて復興を目指そうとしているのだろう。それは既に計画されている隈研吾さんによる浪江駅周辺の再開発計画にも顕れている。しかし、「有名建築家による新しいものを作り、それで移住者を増やす」という政策を浪江町⺠は本当に歓迎しているのか。復興計画とは被災者を第一に考えるべきものではないだろうか。「本当にそれが必要なのか?」「なぜそれが必要なのか?」という住⺠への充分な説明と、被災者の目線に立った復興資金の使い道をしっかりと考えてもらいたい。
文章:狩野(B4)