
【書評】山形浩生『翻訳者の全技術』:知的雑食のススメ、あるいは「アマチュア」に何ができるか?
山形浩生の翻訳術、読書論、思考術、勉強法を凝縮した新書『翻訳者の全技術』が星海社から刊行された。
雑文集をのぞく山形浩生の単著といえば、2003年に出版され、すぐ絶版となったバロウズ研究の決定版『たかがバロウズ本。』(450P超の大著!)以来ではないのか。何より、この本のテーマは、山形浩生その人である。読まない手はない。
山形浩生(やまがた・ひろお)
翻訳家・評論家・コンサルタント。1964年、東京生まれ。麻布中学・高校を経て、東京大学理科Ⅰ類に入学。東京大学工学系研究科都市工学専攻修士課程、マサチューセッツ工科大学不動産センター修士課程を修了。野村総合研究所の研究員として地域開発やODA関連調査に携わる傍ら、SF・科学・文化・環境・経済・ITなど幅広い分野で翻訳・評論・執筆活動を行う。累計200冊以上(共訳含む)の翻訳を手がけ、個性的かつ分かりやすい訳文に定評がある。著書に『たかがバロウズ本。』(大村書店、2003年)、訳書にトマ・ピケティ『21世紀の資本』(みすず書房、2014年、共訳)などがある。
『翻訳者の全技術』というタイトルに惹かれて手に取ると、予想と違う内容に面食らうかもしれない。が、山形浩生なら話は別。著者の思考回路や読書論、勉強術に興味があるなら、不満を感じることはないはずだ。本書は、山形浩生の知的生産術を、自伝的な要素も交えて惜しみなく開陳した一冊だ。
無節操な読書術
「日本語を読むのと同じ速さで翻訳できる」という彼の翻訳技術は、かなり特殊なので、普通の人には参考にならないけれど、「なぜ翻訳するのか?」という話は滅法おもしろい。それは翻訳を通じて自らの理解を深め、それを社会に還元し、誰かの役に立てるという考え方だ。山形の場合、その方法もアクロバティックである。誰に頼まれたわけでもないのに、海外の特殊な文献を引っ張り出し、勝手に翻訳し、著作権を無視してネットに放流する。ちょっと倫理的懸念も生じるものの、著者にとっては良い宣伝になるし、多くの日本人にとってはプラスになるし、功利主義的だ。根底にあるのはアナーキーな知的好奇心の広げ方である。
山形の読書領域は特定のジャンルにこだわらない。良く言えば「学際的」、乱暴に言えば「手当たり次第」もいいところ。ただ、その無節操ゆえにジャンルを問わず本や雑誌を濫読することで、インプットのハードルを下げ、それが異なる分野をつなげることに役立っている。たとえば「テクノロジー」と「著作権」といった無関係そうなテーマを組み合わせることで、新しい視点が生まれる。さらに、その分野をいち早く突き詰めれば短期間で第一人者になれる(その分野でガチ勢が出てくれば、三日天下に終わるのだが、狭い分野とはいえ「頂上」を見てみることには意味がある)。
「役に立たない」勉強法こそが学びの本質
ぶっちゃけ、山形浩生の勉強法は、そんな実用的ではない。資格やスキルを得るための学習ではなく、むしろリベラルアーツ的な教養の吸収だ。リベラルアーツは「専門性が足りない」「目的が不明確」と批判されるが、そもそも、リベラルアーツに明確な目的を求めること自体がズレている。何に興味があるかなんて、やってみなけりゃ分からないのだから、とりあえず片っ端から学べばいい。こうした学び方は、縦割り科目で硬直化した日本の学校教育では身につかない。だから勉強の意義がわからない10~20代にとって、山形浩生の無軌道な知的探究は、刺激になると思うのだ。
「アマチュア」に何ができるか? 「アマチュア」だからできること
そんな山形浩生だが、自らを「二流」と称する。これは単なる謙遜ではなく、むしろ「最強の二流」と言うべきか。例外として、バロウズ研究では第一人者の山形だが、それをのぞけば常に「二流」に徹している。本格的な単著が『たかがバロウズ本。』しかないという事実が、それを裏付けている。
「二流」とは何か?それは「アマチュア」であり続けているということだ。プロとアマにはそれぞれの強みと弱みがあるが、アマチュアの強みを論理的に説明する人は少ない。プロは経験と技術を持つが、そのぶん思考が凝り固まり、新しいことに挑戦しにくい。一方、アマチュアは仕事ではないからこそ、好きなことを好きなだけ深掘りできる。「役に立つか?」「需要はあるか?」を気にせず、「知りたい」「やりたい」だけで動ける。山形の翻訳活動もまさにそれだ。普通の翻訳者なら「仕事になるか?」を考えるが、彼は興味のある本を訳して公開する。しかも好きでやっているからこそ、採算度外視でプロ顔負けの成果を出せる。この「アマチュアの強み」は、勉強や創作にも応用できる。結果や効率を気にせず、好きなことを掘り下げる姿勢こそ何かを極める上で重要かもしれない。
人は「よくわからないもの」を高尚だと信じ、哲学や心理学を神秘的なものとして崇めがち
本書は語りおろしの口述筆記であるため、ブログほどの鋭さはないものの、得るものは多い。技術的なノウハウ本ではないが、知的生産のヒント集としての価値は十分にある。「積読批判」や「現地現物」といったテーマは特に印象的だった。
なかでも、「山形訳のわかりやすさ」への批判を分析し、「わからなかったことを理解すると、それが大したことのないものに思えて幻滅する。だから多くの人は、わからないままでいようとする」という指摘が最も印象に残った。人は「よくわからないもの」を高尚だと信じ、哲学や心理学を神秘的なものとして崇めがちだ。けれど、実のところ、それらに過大な期待を寄せすぎていることも、どこかで自覚しているはずだ。
山形浩生は、そうした幻想を容赦なく切り捨てる。たとえば、フロイトは精神分析学の大家として持ち上げられがちだが、現代においては、もはやレガシーでしかない。それどころか、ただのファッション的アイコンとして扱われることも多い。もし今もフロイトの名が残っているとすれば、それは「現実を直視したくない」人々の心理が生み出した共同幻想にすぎない。そこに哲学的な深淵などなく、あるのは取るに足らない与太話ばかりなのだ。
多くの人は、居心地のいい「幻想」を手放したがらない。それを手放せば、自分がそれにどれほど過大な期待を抱いていたかに気づいてしまうからだ。ある意味、それは甘美なモラトリアムを守るための、本能的な防衛反応なのかもしれない。だが、いずれ誰もが幻想と決別し、子ども時代の終わりを迎える。いわば、“大二病”からの卒業だ。視野を広げ、思考の袋小路に迷い込まないためにも、「幻滅」という経験は、成長の通過儀礼として避けては通れないものなのだ。
だからこそ、余計な期待は捨て、雑多に知をむさぼり、自分なりの指針を見つければいい。むしろ、その方が健全だ。個人的には、『13歳のハローワーク』を開いたばかりの中学生にこそ、この本を手に取ってほしい。知識を貪る楽しさと、その自由さを存分に味わえるはずだ。「勉強や読書って、こんなに面白いんだ」と気づけたら、それだけで十分な収穫になる。
これは、そういう本だ。
ちなみに「あとがき」で山形浩生が、そのスタイルゆえに(ときに自業自得もあるが)さまざまな界隈から黙殺され、「自分は過小評価されている」旨を打ちあけていたのだが、そこが本書最大のハイライトだろう。せめて、Windows Meたんぐらいは思い出してあげてほしい。本noteも、その一助となれば幸甚。
