飛んできたボールが取れなかったら。
昨日の夜、布団に横になりながらラジオを聴いていた。そうしたら、ある人から電話がかかってきた。出ようかどうしようか迷って、結局出ることにした。既に何度かかかってきていて、そろそろ出ないともっとかかってくると予想したからだ。
そんなこと言っていないで、すぐに出ればいいじゃないと思うかもしれない。けれどその相手と話すことは、わたしの調子次第では自分をすり減らすことにつながるので、電話に出ることを躊躇ってしまうことがある。
なぜ話すだけですり減ってしまうのか。
その理由の一つには、その電話の相手が、想像と決めつけでわたしのことをこうだと判断するところがあるからだ。
その人が知っているわたしは、わたしのごく一部分だ。そして、わたしについて知っている過去の情報を元にして、現在のわたしを語ろうとする。もちろん話のすべてが間違っている訳ではない。けれど、元にしている一部分だけで、それが全てだとでも言うような話し方をされるので、気力があるときでないと、電話を切ったあとに受けるダメージは大きくなってしまう。
昨晩の電話では、あまりいい会話が出来なかった。お互いに、自分の気持ちを投げ合っただけの会話だった。ボールはミットの中には入らなかった。
わたしは、もっと全体をみて会話をして欲しかった。相手は、わたしのいい報告(相手にとっての)を聞きたかっただけなのかもしれない。
その人は電話の最後に、「そんなに難しく考えるのはやめて、もっと楽に考えなよ」と言葉を残して電話を切った。
難しく考えていたつもりはなかった。これまでのその人との会話から考えると、こう言い残すときは、もうこれ以上わたしと会話をするのが疲れた、というサインだと感じている。
わたしも無意識に自分の想像で会話をしていることはあると思う。その想像がいきすぎないようにするのが難しい。よく会っている人ならまだしも、頻繁に会わない人ならなおさら気を付ける必要がある。
想像しながら会話をすることは大切だ。ただその想像の前提に、「いま自分には相手の姿は見えていない」ということを心に留めておく必要がある。自分が分かっている情報だけで相手の全てを語ろうとすると、会話にずれが生まれる。
昨晩の会話で、今の情報を伝えないわたしにも問題があったのだ。自分のことはあまり話さずに、相手の言葉に敏感になりすぎていた。
聞いて欲しい、分かって欲しい、これが聞きたい、あれはどうなったの。
話したいことや聞きたいことは沢山ある。せっかく話すのなら、お互いに気持ち良く言葉のキャッチボールをしたい。相手が近い存在であるほど、「言わなくても分かるだろう」は強くなる。「言わなくても分かって欲しい」も同様に。
相手の取りにくいボールを投げてしまったら、その後にちゃんと謝れる人でありたい。もし取りにくいボールが飛んできたら。そのときは取れなくても、転がったボールは走って拾いにいこう。