鈴木康太

詩を書いています。『霊園東通り南』(七月堂、2022年)。現代詩手帖やユリイカ等に寄稿。

鈴木康太

詩を書いています。『霊園東通り南』(七月堂、2022年)。現代詩手帖やユリイカ等に寄稿。

最近の記事

絵本開中鏡

夜は居酒屋をやっている、とある定食屋の壁が春画で、その端っこに初代歌川豊国の『絵本開中鏡』がある。女の骸骨と絡み合う男の絵。それがどういういきさつでそうなったか、いったいどういう物語であるのか解説をみればわかるのだが、切り抜かれたその一片の絵では、手掛かりは男の表情をみないとわからない。女の正体が骸骨であることを知った男の恐怖の顔? にはちょっと見えない。恐怖にしては、目じりが静かだ。それに骸骨の肩に触れている男の腕が優しくみえる。僕はこの男がやはり泣いているように思われてな

    • 三角定規座

      ときどき紐だったときのことを思い出す。とても楽しかった。また戻りたい。女だと同じ状況も紐と呼ばれないから、なんか男とはいろんなものになれるのだなとその点、男とは恵まれた存在なのだ。誰かの金で昼によくプラネタリウムに行った。それからそこを出てみるとまた一日が始まって、そんな日常なので、すぐ歳終えた。楽しい時は早く過ぎる。辛い時はよく覚えていない。僕のもっとも辛かった時期は高校のときで、毎晩落武者の夢をみて金縛りにあっていた。友達づきあいしたくなくて、放課後は井戸を見に行っていた

      • 夏のそばに座る

        夏は電車から降りて、駅の隅へ行き、秋を探す。それからまた別の隅へ行き、同じように秋を探す。そんなふうに私は季節を待っている。電車に乗っていたとき、向こうから来る電車に乗っていた秋とすれ違ってしまったのではないかと思う。でもそれは、よく考えてみると、同じ地面だった。秋はもう来ている。秋はベンチの夏のそばに座る。長い間。 #夏の1コマ

        • プレミアム……

          お酒のにおいを嗅ぐだけで酔って眠りについてしまう私に事件が起きた。それは人気のない夜の公園内のカフェでのできごと。私はお腹が空いたので生パスタを食べようとした。隣に座っている男がパスタのおともにビールを飲んでいた。私は最初から、そのにおいをうっすら感じていたがやがて私の瞼は眠気へと落ちていた。起きると、男はいなくなっており食べかけのパスタとビールがテーブルに残っていた。なぜか店員が片づけない。おかしいな、もしかして男は電話とかに出て戻ってこないだけなのかな。そう思っていたら、

        絵本開中鏡

          「Googleアプリを使って部屋で3Dの蛸を見よう」という広告がでた。 noteの毎日更新していた日記も今日までだ。(8/15までやると勝手に決めていた)noteはeが取れると否定となるので、達成できそうなのでちゃんとnoteだ。 昨日の、僕は「孔からでるものは汚い」という主張をしながら、ちょっと待てよ……と気になって土方巽の全集をぱらぱらめくる。土方巽はなんかしっくりこない時の私の気持ちを代弁してくれる(ような気がする) 楽屋はがさつに汚らしくなっていた方がいいようだな

          石の皮膚

          「秩序」の感覚は体にうがたれた孔に的をしぼっている、と鷲田清一は「〈ひと〉の現象学」で書いていた。たとえば、体の穴から不自然に出てくるものは、たいがいが汚い。排泄、鼻水、血、涙。たとえば、社会の穴から不自然に抜け落ちた人は、たいがいが汚くみえる。自分自身汚くなったと自覚した(秩序から外れた)とき、なんでこんな、ボロボロ人間になんてなっちゃったんだろう、と後悔の連続だ。……石になりたい。石には孔がないから。もし孔があっても、向こうの景色をうつすだけだから。そもそも石には「死」は

          ブランクーシ

          ブランクーシの「接吻」を観に行った。もともと、図書館で図録をみて知っていたが、白い……と思わず見惚れてしまった。立方体で発泡スチロールみたい。くっついた顔がおもしろく、つながれた手の指は思ったより小さく見え、カップルの手のつなぎ方というよりは、まるで胎児の右手と左手に分裂するまえの一つの手のように見えた。そして人間の体の中でたくさんの機能を要する「手」がちいさく表されることで、像は静かにみえる。そういえばジャコメッティが「エクリ」のなかで、ブランクーシの彫刻が錆びたり傷がつい

          ブランクーシ

          つくる

          映画『フィッシュマンズ』をみていて、佐藤さんが言ったであろうという言葉がぼくの心とリンクした。佐藤伸治は、自分の聞きたい曲がこの世にないから音楽をやっていると言っていた、と誰かが話していて、ああぼくもそうだな、と。読みたい詩がないから、自分でつくろう、と。 佐藤さんみたいに骨身をけずってつくる。

          飼えない

          逢ふことの絶えてしなくはなかなかに人をも身をも恨みざらまし (中納言朝忠 出典『拾遺集』恋) わたしたちは愛している人間の状態を、つまり、愛と言うものがそれをもっている人間にどのように意識されるか、あるいは愛する人間がどのような気持ちでいるか、ということをさまざまな仕方で記述し、描写しようと試みてきた。愛は感情であり、気分であり、生命であり、情熱であるとされる。しかしこれらの規定は、あまりにも一般的であったので、わたしたちはより正確に愛を記述しようとしたのである。愛は欲望で

          名前

          忘れ物が多くて、冷蔵庫の上のメモをまた置き忘れてしまう。メモには、たぶんかわいそうな台風について書いていた。でも書いたことをほぼ忘れているので憶測でしか書くことができない。 台風が生まれると名前がつけられる。っぽい その名前はたいてい女性名。っぽい。かわいくみえるから? そして、その台風発生場所の近くの地域の女性っぽい地名。っぽい 人が大量に死ぬような甚大な被害をもたらすと、名前を消される。っぽい マリア、は消されなかった。っぽい いっそ気まぐれに現れてくれれば、名前を付けら

          銀朱

          占いに頼らないと生きていけない。僕は、いつも起きるとその日の行っていい方角とラッキーカラーを調べる。アイコンにしているのですぐ調べられる。たいてい職場の方向が凶方向にいてうんざりしてくるが、たまに吉のときがあり、どんなことがあるのだろうと期待している。日盤と時盤というものがあり、時盤は約2時間おきに吉方向が変わるので、休みの時は2時間おきに行き先を変えている。 今日のラッキーカラーは銀朱で、銀朱とは、黄みの強い赤色のことで、 銀朱の色名は「続日本紀」に記載があり、弥生から古墳

          夏バテ

          昨日美容院に行ってやたら私の髪を紐でしばっているなこの人、と思っていたら、そうかパーマをかけにきたんだと理由がわかり、ああこの人も暴かれそうな息をしているのだなとなぜだかほかのことを考えてしまった。というのも、この人、というのは九州出身の美容師さんで、東京にもう8年もいるのにいまだになまりが消えないおもしろい動きのはぎれだった。腕もいいしいっそこのまま私の頭をキャンバスにしてくれたらいいのにと思っていたが、私も美容師さんも食欲が優って延々と食べ物の話をしていた。途中からほかに

          電車で

          すれちがう人たちは別に高貴でもなんでもないので、その体と私の体を結び付けても高すぎる坂になることはなかった。雑踏は嫌だったけど、すぐにひっそりとして片隅でひとり電車を待っていた。花火だか雷だかどちらともいえない音が鳴り、その合図で電車に乗った。 子どもがよく草の雫に向かって指さしをするように、目で電車の力の跡を追っていると、とある駅に停車した。電車の窓からはダンススクールが見える。透明なガラス窓に「〇〇ダンススクール」と霧の糸より太い線で書かれているその中では、社交ダンスをし

          花火嫌い

          単純で陳腐にまとめられる気持ちが、形になったときリアルをこえて唯一無二になるときがあって、ときどき私を震え上がらせる。 たとえば「あらざらむ」という未然連用形とか、ショパンの装飾音とか。 昔から平地で遊んでいた私には、そのふたつはちょっとしたでこぼこで、向こうから曲がった時間の中をとことこと歩いてやってきたものだった。 そしてその、時を超えた和泉式部の、「あなたに会いたい」というだけの言葉が「a/ra/za/ra/mu」と塵になりながら私のごはんのふりかけになったり、ショパン

          太宰治『グッド・バイ』

          もし、図書館の本が肉だったとする。借りるとき、体から引き裂かれる本。私は、それを窓際の席に持って行ったり、肉を開いて文字を追ったり、窓口か自動受付機にて借りる為の手続きをしたりする。「期限守ってくださいね」となぜか言われる。平べったいところに置くとセンサーで受付を完了してくれる。私は、肉をぶらさげ出口という口をすりぬける。 牛や豚とか動物性の肉じゃないから、そんな腐りにくい肉を持って遠出できる。私は、その本を持って旅をする。 グッド・バイ。 太宰治の未完の小説。 さよう・なら

          太宰治『グッド・バイ』

          相撲の思い出/行司

          花のあるやうを知らざらんは、花咲かぬ時の草木を集めて見んがごとし。 ― 世阿弥『風姿花伝第三 問答条々』より ぼくは子供のころ、おばあちゃんと相撲を観るのが好きだった。 おばあちゃんは、当時(?)の相撲の中で「千代の富士」がイケメンだからという理由で好きだった。 ぼくは「寺尾」と「舞の海」をおもしろいなと観ていた。おばあちゃんとぼくは、好みが全然違った。「千代の富士」はイケメンだけど弱いようにみえた。(弱くなりかけていたのかな、でも当時のぼくは「貴ノ花」とかに負けている姿し

          相撲の思い出/行司