石の皮膚

「秩序」の感覚は体にうがたれた孔に的をしぼっている、と鷲田清一は「〈ひと〉の現象学」で書いていた。たとえば、体の穴から不自然に出てくるものは、たいがいが汚い。排泄、鼻水、血、涙。たとえば、社会の穴から不自然に抜け落ちた人は、たいがいが汚くみえる。自分自身汚くなったと自覚した(秩序から外れた)とき、なんでこんな、ボロボロ人間になんてなっちゃったんだろう、と後悔の連続だ。……石になりたい。石には孔がないから。もし孔があっても、向こうの景色をうつすだけだから。そもそも石には「死」はあるのだろうか。もしあるとすれば、どこからが石にとっての「死」だろうか……いまはただ人間の視点で、いろんな石に会いたい。山葵の生えている清流の底にいる石に話したい。引き潮と満ち潮をどちらも感じられる浅瀬の石に聞いてみたい。石焼ビビンバの石はつらそうだけど話しかけたい。
長谷川等伯の描いた禅画「黄初平図屏風」では、仙人が岩を羊に変身させている。私はそんな仙人が嫌いだ。石は石のままでいさせてあげたい。


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