花火嫌い

単純で陳腐にまとめられる気持ちが、形になったときリアルをこえて唯一無二になるときがあって、ときどき私を震え上がらせる。
たとえば「あらざらむ」という未然連用形とか、ショパンの装飾音とか。
昔から平地で遊んでいた私には、そのふたつはちょっとしたでこぼこで、向こうから曲がった時間の中をとことこと歩いてやってきたものだった。
そしてその、時を超えた和泉式部の、「あなたに会いたい」というだけの言葉が「a/ra/za/ra/mu」と塵になりながら私のごはんのふりかけになったり、ショパンの装飾音はもはや、装飾音が表立っているので、その染料に流されて私の体のどこに挟まっていこうとしたのかわからない。
いつか、私の胸のなかの電車で、窓際から大きな花火が見えて、みんな外の鮮やかさを覗いているのにひとりだけ俯いていた人がいたのを思い出す。彼は、斑の中の水の無害な風を信じているように見えた。その花火は、転んだり笑ったりせず、淡々と打ちあがり、馬鹿みたいに川の水に沈んでいった。「あらざらむ」……こんな瞬間に引っぱられている私は、まだショパンの遺作ノクターンを聴きながら、花、と呼ばれる花火を見あげている。

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