自分ならこうするという意志
「自分とは何か」と心が揺れ動くことを経験したことがないという人はいないと思う。
自分のあるべき姿を想像しようとしても、そこにうまくたどり着かない人も多い。それなのに、何度も「自分とは」と問うてしまうものだ。
そこで現れたのが「自分軸」や「自分らしさ」といった抽象的な表現である。
何となくそれってあるあると思えなくもないが実体はない。それはまあそれでいいのだが、私が言いたいのはもっと実践的な自分の掴み方である。
自分とは何かと問う場合、現在の自分に不満があるからだ、ということは認めておかなくてはならない。
巷ではいろんな人がいろんなことを言う。このnoteにおいてもそうだろう。
いろんな話を聞いているうちに「自分とは何だろう」とさまよい始めるものだ。そんな時、自分とは何かと問うよりも「オレならこうする!」「ワタシならこうするのに!」ということを実践に移すことだ。
料理なら「自分ならこうした方が美味しいと思う!」という感じだ。
ある程度の年齢を重ねれば一つくらいはコレだというものはあるはずだ。
文章好きな人なら「オレならこういった表現が」「ワタシならこういった物語の方が」といった一家言を持っているはずだ。その意見と実践が自分を表している。
ほとんど全てといってよい人が何者にも成れないのだ。そのことを受け入れるなら、私が述べる意味がわかると思う。
自分が生きてきた経験や観察から得た世界観が自分なのだ。それを表す時に自分が現れてくる。
「いやいやワタシはそうは思わない」と言うなら、その意見を実践に移したときに現れるのが自分である。
こんな話はダメなのだろうか。