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「平成31年」雑感12 「無差別大量殺人」を正当化する伝統

▼先日のメモで紹介した、池上彰・佐藤優両氏の対談が、新刊本になっていた。先日紹介したのは、まともな調査をせずに、オウム事件を幕引きにしてしまった日本国家の失敗についての指摘だった。

▼両氏の本は、中公新書ラクレの『教育激変 2020年、大学入試と学習指導要領大改革のゆくえ』。薄くて手軽に読める。おすすめ。

▼この本のなかで、佐藤優氏がルターの話をしていた。これは、彼がオウム真理教に言及するときには何度か繰り返している話で、この歴史を知っているのと知らないのとでは、ちょっと世界の見え方が変わるかもしれない。適宜改行。

佐藤 宗教改革の中心人物だったマルティン・ルターは、1524年に始まった農民たちの封建諸侯に対する反乱「ドイツ農民戦争」の際に、「反乱農民を殺せ」と主張しました。

これ以上、権力に逆らうという罪を犯せば、農民たちの魂は汚れ、世界の終わりの日に復活することができなくなる。今、いったん魂を消してしまうならば、復活は叶うだろう。これは、愛の救済事業であるーーというのが、その理屈です。

池上 まるでオウムの「ポア」ですね。オウム真理教は殺人を「魂を救済する」=ポアすると称して正当化していた。

佐藤 そう、ポアはこれと一緒なんですよ。オウムが狂気だというなら、キリスト教だって狂気の一面を持つのです。〉(119頁)

▼佐藤氏は、どのメディアだったか失念したが、この「オウム真理教」「ルター」の文脈で、「アメリカの日本に対する原爆投下を正当化する論理」も引き合いに出していた。

どれも、論理的には同じなのである。「無差別大量殺人」を正当化しているのだから。

なにも、違わない。オウム真理教の論理は、この文章を読んでいる人たちの、ふだんの生活と近いところに遍在(へんざい)している。

▼そもそも日本では「忠臣蔵」に人気があり、「新撰組」に人気がある。そのことは誰でも知っている。テロと親和性が高くない、とは到底いえない。

それを、ちゃんと総括せずに、「こわい」「怖ろしい犯罪」「とんでもない」といった感想、というか、感情、というか、そういうふわふわしたものしか持っていなければ、後世に何を伝えていいのかわからない社会になる。

というか、もうすでに、そうなっている。(つづく)

(2019年4月22日)

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