「黒影紳士」親愛なる切り裂きジャック様5〜大人の壁、突破編〜🎩第4章 7弟 8ジャム
7 弟
「あいつは昔から頭が良い……否、賢かった。
反対でもしようものなら兄の俺でさえ、証拠も残さず殺せるんじゃないかと思うくらいに。
実際によく言っていたんだよ。「今、もしも僕が兄さんを刺して、家に帰って兄さんが居なくなったと騒いでも、誰も 僕を疑わないね。
より残酷に切り裂けば、子供の仕業だなんて思いもしないだろう?」って。
それであいつは何時だって殺せる時は正直に言って、更にこう言うんだ。
「でも、僕は兄さんが大好きだから殺しはしないよ。
こんな風に思い立った事を素直に話せるのは、兄さんだけだからね。」って、何の悪ぶれもなく笑うんだよ。
あいつにとっては、それが脅しに聞こえるかなんてどうでも良かったんだ。
ただ、素直に頭が良すぎただけだ。」
と、メイブリックは黒影の質問に答えたのだが、軽い吐き気のような嗚咽を二度程した。
「かなり最悪だな。そんな昔から洗脳の塊のような奴が、身近にいるなんて。
気分を害するのも当たり前だ。思い出させて悪かったよ。
出来るだけ現在必要な事について聞くようにしよう。」
そう言って、黒影はメイブリックの背中を撫でてやった。
「切り裂きジャックは存在しない。
手を一つも汚さずに弟が作り上げたシナリオの主人公でしかない。
……ホワイトチャペルを舞台に、改革ゲームをしていたんだろう?
君は自分の女性関係と砒素が産む安定的な金の利害の一致で手伝っていた。そうだな?」
そう言うと、メイブリックはハンカチーフを口に当て、数回頷く。
そして呼吸が落ち着いてくると、
「ああ、何時だってあいつの言う通りにすれば全て上手く行った。
俺は厄介者を始末して、不安定だった綿貿易だって、あいつに相談しただけで直ぐに簡単に砒素取引に参入出来た。
あいつは忘れた頃に「どうだった、兄さん」と、結果を聞きに来るだけだ。
結果が良くても喜んだ顔、一つ見せた事はないよ。「やっぱりな……。」そう言って詰まらなさそうに言うだけだ。
弟は人知の範疇を何処か超えちまっているんだよ。そう言う奴だ。」
メイブリックは、何処か不安そうな目で、床を見つめ言ったのだ。
「人知を超えている……ぁはは。そりゃあ無いよ。大丈夫だ。君の弟はサイコパス気質なだけだ。
今は分からないかも知れないが、何れその特殊な生態も明らかになっていく。
天才だからと言って、一般と別に括られた世界に閉じ込めず、普通に接するべきだった。
彼の孤独が彼自身の生命力を奪い、他人の生命すら軽んじる人間にしてしまったのだよ。
恐らく自分の命すら人体か人間という生き物のカテゴリーにしか見えない君の弟は、この切り裂きジャックの恐ろしい計画を立てた時も、感情を何一つ動かさずゲームをただクリアする事だけを考えていただろう。
想定内範囲が広いから喜怒哀楽が薄いんだ。
実験だよ……人間を使ったら、感情は動くのか。
最終的には彼の枯渇しきった心の問題だ。」
黒影はそう、恐れる事は無いと笑った。
自分の命も厭わず目的達成を欲するその人種は、何処か……自分を見ずにただ犯人を追う事を考え、多くを失った自分に似ていて、分からなくもない。
だから妙に笑えたのだ。やはり人は人……どんな天才、逸材と呼ばれようが多くを持ったまま死ねないのだ。
だからこそ、その死が何か多くを持った上で知りたくなる。
唯一、どんな知識を持ってしても自由のいかぬそれが、納得出来ないのだろう。
それは……自分が許した時、受け入れるもので動かすものではないのだ。
それに気付けないメイブリックの弟は、どんな讃美を受けたとしても、黒影から見れば哀れで不幸な寓者に変わりない。
天才とは時に不自由な生き物だ。
そんな事さえ、どうせ分かっているだろうと誰からも当たり前な事程、教わらずに成長してしまう。
「確か今は君の弟は……。」
黒影はそう言いかける。
「ああ、容疑も晴れて今回の失敗を活かして、新天地の実験に躍起になっている。」
と、メイブリックは答える。
「君の弟は確かに誰も殺してはいないが、全員を死に至らしめたと言っても過言では無い。
この一連の事件を始める前に全て用意し、実行される前には国外に出ていた。
いない……それこそが、単純且つ一番見落とされる完璧なアリバイだったからな。
でも、僕にはそれが妙に不自然に見えたのだよ。まるでこれから起こる何かから逃げたように感じた。
事件が始まる少し前に旅立つ……なんてね。
だから兄弟である兄の君に指示を残したのも気付いた。
あの「切り裂きジャックの日記」の数頁前の破れた部分……あれが、指示だった。
それさえ伝えて切り刻み燃やしてもらえば、後は疑われても精々証拠不十分で釈放される程度だ。
今は新天地の宛ら英雄だそうじゃないか。
流石にこの国も他国の英雄を逮捕など出来ない。……当然だ。未解決と言うよりも解決不可能と言った方が正しい。
だから僕は態々日本からこの事件を崩しに来たのだよ。
ノーマークの僕だから出来る事もあるだろうと思ってね。」
と、話すと黒影はにっこりと微笑んだ。
「何を考えている?……そもそもあんたが来るまでは、計画は完璧だった。ホワイトチャペル全体の人々の心理も、マスコミの加熱も弟は予期していた。」
メイブリックは、黒影を注視している。
「僕はどの思想にも属さない。僕の脳は犯人逮捕か真実の追及の為にしか、動いてはくれないのですよ。」
と、黒影はクスッと笑った。
「サダノブ、今の会話に噓偽りはなかったか?それと、確か次の事件は9月10日発見で間違いないね?」
後ろで聞いていたサダノブに目を合わせて、黒影が予定を聞く。
サダノブは事件調書をパラパラと捲り見つけると、
「ええ、噓も無かったし、日にちも間違い無かったですよ。それにしても、先輩?……元から本星に気付いていたんですね。」
と、サダノブは何故言わなかったのかと不思議になった。
「ああ、あの切り裂きジャックの日記とやらを読んだ時点で気付いていた。
あの日記事態にはあまり意味がない。本物かすらわからん物は信憑性等無いに等しいからな。
それよりも肝心なのはあの日記と実際に起こった事を照らし合わせても100%偽物だと言えなかった事実だ。
ならば空想で事件後に書いてもほぼ同じ時代の紙やインクとなり、幾らでも同じような物が書けるのではないか。
だから僕は調べたくなってね。」
と、黒影は初めに切り裂きジャック事件に興味を持った経緯から話す。
何て事は無い。始めは黒影の、唯の暇つぶしの読書だったなんて。
普通なら読者で終わるのだ。……が、黒影は納得がいかなかったらしい。
「現在残された資料を漁った時に、浮かんだんだ。
本星ならば、こんな日記に乗るような奴ではない。強か過ぎるんだよ、犯行が。
それに一度成功したならば同じ犯行を何度か繰り返してエスカレートしていくものだ。それが全くない。
つまり此れら11件全て洗い直さなくてはならなかった。全体を見ては分からないのだよ、この事件は。「ダブルイベント」なんて、まんまと事件が全て繋がって見せるような表明じゃないか。
ある程度効果が出るまで切り裂きジャックの犯行であると思わせなくては、この革命ゲームは成立しなかったのだよ。
それこそ天才の狙いだったのだからな。
初めの数回だけ事件を起こし、更なる事件を誘発させ一人の殺人鬼を作り上げる。
フラストレーションが溜まったこの街に、おあつらい向けのシナリオさ。
そして今流行りのゴシックホラー仕立ての殺人鬼はまんまと新聞の一面を飾り、大騒ぎになった。
警察が大捜索しても見当たらない。……そんなの、内通者が上にいるからに決まっているじゃないか。
警察のような男社会で娼婦がこんなに溢れているのに、誰もお世話になっていない方が不思議だろう?
其処をつつかれたくなきゃ、掌返してお膳立てでもするよ。何処に行ってもそんなもんだろう?」
そう言って黒影は苦笑いをする。
「まぁ、それもそっか。……にしても、先輩本当に切り裂きジャック、好きなんですねぇ~。」
と、サダノブが笑う。
「空想だけだったなら、それこそスリリングなエンターテインメントだったんじゃないか?そうするべきだったとメイブリックの弟にも伝えてやりたいよ。」
黒影は残念そうにそう言うのだ。しかし、気持ちを切り替えたのかその表情も直ぐに消え、事件に対する真剣な表情に変わる。
「そうだ、それで次の事件だけどね9月の10日には腐乱死体で発見されるんだ。だから僕が止めるには腐乱する前だ。
この季節ならば9月1日には犯人に接触しておきたいところだ。
メイブリック、悪いんだがね……9月1日前後に君の弟と会いたい。僕がと言えば、彼は絶対に現れない。
警戒が1%でもあれば、彼は近づかない方を得策とみるだろう。
今後僕は君との接触はしない。何があっても助けにも来ない。僕のいた宿が新しくなっている。
そこの女店主に約束の日にちと時刻が決まったら伝えてくれ。
それと……最後に君への有益な情報をプレゼントする。君がもし今後、この部屋から出たいと思う事があったならば、妻には注意したまえ。特に毒のある妻にはな。」
黒影はそんな約束と忠告をメイブリックに伝える。
「ちょっと待ってくれ!約束は何とかこぎつけるとしても、その妻がどうのとは一体何の事だ?」
と、メイブリックは窓から去ろうとする、黒影の背に言葉を投げ掛けた。
「メイブリック、君が生き抜く為に必要な事を僕は伝えたまでだ。後は君が君自身の示す心で決めれば良い。
それに僕は待たない主義でね。
己の生きる時間には制限があると常に自覚し歩んでいる。ではっ!」
と、黒影は窓枠を軽々とジャンプし出て行った。
「お断りぃ~!じゃ、ありませんでしたね。」
と、サダノブも後に続き、出ると笑顔になる。
だから態と怖がらせたのか……メイブリックが生き抜く為に。
そして今日、これを伝えるまでの時間を繋ぐ為に。
誰かの為に心を鬼にして、悪評も何も気にしない黒影の自由さは、サダノブにとっても時々清々しくさえ感じさせてくれる。
だから疑念も持たずに付いて行けるのだ。
黒影に対しては、思考読みなど必要の無い物にさえ思える。
どんなに読んでも、迷いも喜びも純粋な程に真っ直ぐで、常に真実を照らしている。
「影ある所に……光、あり……か。」
――――――――――――――――
「お帰りなさぁ~い!」
黒影とサダノブが帰ると、甘い香りが家中に漂っていた。
白雪は手にスコーンが沢山入った籠を持って二人を出迎えた。
「只今。いつの間に覚えたの?」
と、黒影は白雪に聞いた。
「隣のマナーハウスの人に教わったの♪」
白雪はるんるんで答えるのだが、サダノブだけは顔を引きつらせている。
「ん?どうした、サダノブ。」
黒影はサダノブのフリーズした笑顔に気付き聞く。
サダノブは黒影に耳を貸すようにと耳の近くに両手を持って行く。
黒影は不思議に思いながらも耳を傾ける。
「先輩!なんか、甘い匂いと焦げた匂いがすると思わないんですか?!また地獄絵図ですよっ!これ、何に見えます?」
と、サダノブが聞くと黒影は、
「ん?スコーンだろう?」
と、何食わぬ顔で言うではないか。
これは白雪の時々起こす「焼きすぎちゃった♪」なのだが、黒影はその焼過ぎの範疇が分からないようで、ほぼ炭でも平気で食べてしまうのだ。
「流石に籠いっぱいは、身体に……。」
と、サダノブは苦笑いするしかない。
「そうだなぁ~。スコーンは腹持ちが良いから、少しずつ頂くよ。」
黒影はそう言って相変わらず真っ黒も気にせず、白雪に只今のキスをして微笑んでいる。
……何、このある意味最強夫婦はっ!
と、思いながらもサダノブは何も言わずに、リビングの椅子に座る。
「なぁ、サダノブも腹減っただろう?」
黒影が気を遣わなくても良いのに、サダノブにもとスコーンを渡そうとする。
……とばっちり!
サダノブは焦って言い訳を考える。
「あっ、俺そう言えば、穗さんとご飯に行こうって言っていたんですよ~。」
と、適当にはぐらかす。
「そうか……もっと早く言ってくれれば、時間に余裕持たせてやったのに。そうだ、穗さんにお土産で何個か持っていくといい。」
黒影はそう提案するが、サダノブは更に悩んでしまう。あまつさえ先輩の奥さんの手土産を捨てるなんて度胸が自分にあるだろうか。否、確実に無い。そんな不義理な事は出来ない!
しかし、この炭……見れば見るほどやばい。
「あっ……そんな気を遣わってもらわなくても……。」
と、遠慮してみるが、
「なんだ、何時もお世話になっているんだから気にするなよ。」
と、黒影が爽やかな笑顔で言うではないか。
そう、サダノブが何も言えなくなるあの、爽やか過ぎる笑顔でだ。
「そっ。そうですか。なんかすみませんね、何時も。」
サダノブは結局袋に分けてもらったスコーンを手に取ってしまった。
――――――――――――――
「……で、貰ってきちゃったんですね。」
と、穗はサダノブに微笑み聞いた。
どうしようと顔に出ているサダノブを怒る気も起きない。
「じゃあ、今日は黒影さんと味覚対決~!」
そう笑って小さな拍手をする。
「味覚対決?」
サダノブは何をする気かと聞き返した。
「そうですよ、私にはもう香りでわかりますけど、これただのプレーンスコーンじゃないみたいです。食べなかったらきっと何味だったかも答えられなくて、困るのはサダノブさんですよ?だから頑張って食べて当てるんです。黒影さんが炭になったとは言え、本当に美味しく頂けているのか、我慢しているだけなのかそれで分かりますよね?クイズだと思えば、少しは齧ってみても良いと思いません?」
と、穗は提案するのだ。
「つまり、先輩が炭を食べられる人なのか、元の味を感じているのかが分かるって事ですよねぇ~。うわぁ~気になるな、それ。」
そう言いながらサダノブは少し齧ってみる。
結構固い……。
「え~何だろう?表面はパサついて炭って感じであまり味はしないけれど、確かに一瞬、ふわっと香った気がしますね。」
と、サダノブはスコーンをじろじろ見ながら言う。
「外側ばかりを気にするからですよ。ヒントは焦げやすいもの。」
8 ジャム
「へぇ~、このイチゴジャムも作ったんだ。」
黒影はすっかりスコーンやケーキ作りに慣れた白雪に言った。
「最初は良く焦がしたけれど、良くなったでしょう?コツを教われば簡単よ。」
と、白雪は自慢げに言う。
「そう言えば先輩、最初白雪さんが俺と穗さんにくれたスコーン何味だったか覚えてます?」
サダノブはそう言えば答え合わせをしていなかったと、黒影に今だ!っと聞いた。
「えっ?……ああ、苺ジャムだろう?ジャムそのものを入れたから焦げやすくなったんだったな?」
黒影は白雪にそうだろう?と聞く。
「そうなのよ。フルーツならなんでも良いって言うからってきり。」
と、照れ笑いをする白雪に、黒影は微笑むのだ。
サダノブがその答えに辿り着くのに、炭のようなスコーンを5つも食べたのに、自然に食べたであろう黒影がちゃんと気付いているのには驚く。
「そっ、そうです。流石だなぁ~先輩、記憶力良いや。」
なんて言いながらも、心では味覚対決に惨敗したのが少し悔しくもあるサダノブなのであった。
そんな長閑な会話の昼下がり、黒影の創った簡易宿泊所の女店主が態々こちらに出向いて、伝言を伝えに来た。
黒影こと「親愛なる切り裂きジャック」宛ての依頼は、元からその宿に寄せられていたので新しくなってもそれには変わらないが、大概はホワイトチャペル自警団からの依頼も含め、夜の巡回の際に受け取っていたので、黒影は驚いた顔をする。
「態々出向いて来ていただけるとは……急用か何かですか?いつもならば就寝されている時間でしょう?」
黒影は女店主に軽い挨拶をして聞いた。
「今夜、21時入港の船にて。M」
それを急ぎで伝えて欲しいって、紳士風の男が言い残して行ったのよ。
と、言うのだ。
「その男は目立つ金の懐中時計の鎖をつけていませんでしたか?
黒影は年の為に聞いてみる。
「そう、そうだわ。確かに金の鎖を見たのよ。」
と、女店主は答えた。
……メイブリックだ。
その日は8月の末日。何とか次の事件までに間に合ってくれそうだと思った矢先の事だ。
風柳が急に血相を搔いて戻ってきた。
「急にバタバタと……お帰りなさ~い、風柳さん。」
と、事務作業をしていたサダノブも人が増えたので、冷茶を持ちながらひょいと玄関へ顔を出す。
「黒影、大変だ!ルナに似た人物を水路で見たという目撃証言が、今さっき入ってきたんだよ。これから捜索に行くが勲(黒影の本名は黒田 勲)も来るだろう?!」
風柳は、黒影が血眼になって探していたのを知っていたので、態々勤務を抜け出して知らせに来てくれたのだ。
「ええ、勿論です!」
黒影は銀の懐中時計を取り出し時間を気にする。
「21時か……早めについておきたいな。よし、19時には切り上げて港へ向かおう。サダノブ行くぞっ、準備しろ!……あっ、態々有難う御座いました。では、そう言うわけで今度ゆっくり飲みに行きますよ。申し訳ない。」
と、サダノブに言ってから、女店主に謝罪をした。
「いいのよ、急いでいる時もお互い様♪」
と、女店主は黒影に投げキッスをすると、悠々と微笑んで去っていった。
「ん~、もうっ!」
白雪は黒影の前に飛び跳ね、投げキッスは見えるわけでもないのに宙を掴もうとしている。
「ほら、調査鞄取りに行かないと……。」
と、黒影は少しかがむと、白雪の腰元を持ってひょいと浮かせる。
「子供扱いしてぇ~っ!」
白雪はジタバタしながらも無造れて黒影を仕方なしに送るのだった。
――――――――PM3時30分
黒影とサダノブ、風柳の三人はルナらしき人物が出入りしていたという、通報者の目撃談を聞いた後現地入りする。
水路は異臭がしたものの冷ややかである。
「耐えられないんですけど……。」
やはり一番に根を挙げたのは、潔癖症の黒影だった。
ルナを追いかけ走っていた時は気にはならなかったが、ゆっくり歩くとどうしても気になる。
口と鼻ををハンカチーフで抑えて、ルナが目撃された付近を歩く。黒影の硬い靴底がカツカツと水路に響き渡る。
「それにしても、半年間も行方をくらませていたのだから、ずっとこんな所だったら誰だって気がどうにかなっちゃいますよ。外はあの単眼が目立つし……夜ぐらいにしか出入り出来ないんですよね?」
サダノブも辺りを見渡しながら歩いて行く。
「僕があの時……。」
黒影は犯人を二人同時に追えず、取り逃がした後悔を珍しく零した。
「じゃあ、そんな小さな後悔で大きな真実を見失った方がマシか?」
風柳はそう言うと立ち止まり、更に、
「捜し出すのは俺が勝ちだったな。」
と、言いながら壁の一部の角に汚れが無い箇所を見つけて引っぺがす。
元から怪力なのだから、鉄板など薄ければ簡単に剝がしてしまう。
ガタンと鉄板を開けた先には小さな空間があった。
その奥が真っ暗で何も見えない。
「風柳さん、外れじゃないんですかぁ~?」
と、サダノブが茶化したが、
「否、違うっ!合っている。下に這った跡があるじゃないか。」
と、黒影は手前からの僅かな光で、下の苔と土の混ざった物の上を、何かが引き摺った線を奥に続いている事に気付く。
「どうします?」
黒影はそれを見るなり風柳を見詰めた。
「こんな狭い所なんて余計に嫌なんだろう?」
と、風柳は黒影の事だから、どうせコートを汚したくないのだと分かって溜め息を付く。
「とは言え、この狭さは俺だってキツイよ。肩が入るかな……。」
風柳がそう言うと同時に、黒影はサダノブの肩をポンポンと軽く叩き、
「この肩なら行けそうだ。」
と、満面の笑みで言うではないか。
「はぁ?部下の扱い悪いですよっ!」
サダノブは自分だって地べたにへばり付く汚れ仕事が嫌で、珍しく反発する。
「じゃあ!僕がこれから入ってくれば良いんだろう?!この中じゃあ一番小柄だからなっ!構わんさ、事件の為なら後で蕁麻疹が出来ようが、テンションガタ落ちでいざ必要な時に使えなくても、ぜぇ~んぶサダノブがどうにかしてくれるんだもんなっ!このオーダーメイドの特殊コートが駄目になったら、中に収容している全ての物も給料から差っ引いても文句言わないよな?!」
と、黒影が言うのだ。
「………………黒影、言いたい気持ちは分かるが、サダノブが可哀想じゃあないか。それに調査するならば、サダノブよりも黒影の方が得意だろう?
コートならサダノブに預かっていてもらえば良いだろう?」
聞いていた風柳は性懲りもなく、黒影がサダノブに何時もの八つ当たりをしているのだが、流石にそれは言い過ぎだと口を挟む。
「旅は道連れ世は情けだよ!」
そう言うと、黒影はロングコートを脱いでサダノブではなく、風柳の胸に押し付ける。
「これで、サダノブも道連れだ♪」
と、黒影は悪魔のようにニヒルな笑みを浮かべた。
「そんなぁ~。」
そう言いながらも、此処で待っていて後で更なる八つ当たりが来なければと、仕方なく付いて行く事となる。
細い通路を匍匐前進するように進む。
暫く行くと裸電球がぶらんぶらんと揺れていた。
「誰か……いたのか?それとも風だろうか……。」
誰も居なかったので、黒影はそう呟いた。
「……やっぱり、此処にいたんですね。」
「……ああ、そうみたいだな。」
二人はまとまられた隅のゴミと、カビ始めたまるで枯れた枝の様なパンを見て言った。
「早く見つけなくてはな。逆によく半年もこんな所で保ったものだ。」
二人がそれを見ていると、後ろに小さな小石がカランカランと落ちてくるではないか。
一斉に二人の視線がその石ころに集まる。
石ころの上にはマンホールへの円柱の空洞がある。
「帰って来たんですかね?」
サダノブは小声で聞いた。
「否、違うと思う。こんなカビかけのパンでもルナにとっては貴重な食糧。僕らに気付いて先に逃げたのかも知れん。」
慎重に黒影は辺りを見渡し話す。
六畳~八畳の湿った空気の漂うこの部屋を黒影は調査を始める。ズルズルと何とかあの狭い通路を引きずって持ってきた調査鞄から、アンティークルーペを取り出した。
何時もならばコートのポケットに常備しているが、先程必要なものは鞄に入れ替えて来た。
「あの細い通路は通気口か何かだった様だな。」
外された鉄格子を見つけた黒影は言った。
「先輩、追わなくて良いんですか?」
と、サダノブがのんびり聞くと、黒影は銀のネックレスに繋げた胸ポケットの懐中時計を手繰り寄せ、時間を確認する。
「まだだ。16時50分。十分に調べる時間はある。
問題は9月10日に発生予定だったトルソー事件を、此処で食い止められるかだ。
この部屋の湿度……人間を腐敗させるには十分だ。
サダノブにはあまり苦手だと思って言わなかったのだがね、さっき僕の代わりに此処に入らなかった仕返しに言うと だ、ご遺体発見時は9月10日であり、注目は検視結果が死亡推定時刻が何と、前日だ。
これがどういう事か分かるか?僕はこれを知った時に、久々にゾッとしたよ。
トルソー事件と呼ばれるだけあってそのご遺体は頭と足の無い腐乱死体で、体中に激しい打撲痕、痣。挙句に腹部は大きく切断された。
つまり、先に致命傷以外を与え腐り果てるのを待って、腐敗臭が厄介になった、または息絶えたからバラバラにして放置した。
第二の推測では先に途中までバラバラにする。
……そうだ、僕が犯人だったら先ずは逃げられないように足だ。両足を切断し、恨みを晴らしながら殴打した。じっくりとね。
そして、とうとう出血多量と腐敗が生きながらに進み死亡。
犯人と被害者はかなり近しい関係にあった為、切り裂きジャックの所為にしたかったが、頭を切り落とすと言う暴挙に出ざるを得なくなった。
此処に来て思った……ルナならば……そこまでしたい人間が一人だけいる。」
と、黒影はいきなり犯人をルナと特定する。
「えっ?でも今までは直接誰も殺さなかったんじゃ……。」
サダノブは人任せに犯罪者を作ったルナが、そう易々と今更自分で殺すなんてと考えて聞く。
「因みに被害者も分かっている。ルナは生まれてからずっと教会の中で暮らしていた。
しかし、この機会に不運だが偶然にも外へ出られた。
そして至極当然の行動に出る。自分を生まれながらにして殺そうとした母親探しだ。
ルナが一生憎んできた人物だろうからな。
生みの親である事の全否定をしているようではないか。
腹部の大きな切り口……はきっとそうだ。
トルソー事件もまた女性機能に損傷無し。犯人は女性だった可能性が実に高い。そして被害者年齢は30~40歳。ルナが20代~30代に見える。親子として成立すると思わんか?
今すぐ会いに行っても刺激するだけで、母親を人質にされたら厄介だからな。人質がいたかどうかを調べよう。」
黒影はあちらこちらを隈なく捜し始める。
「それが分かっていて何故また逃がすんです?前回取り逃がした時だって、あんなに気に掛けていたじゃないですか?」
今回も取り逃がしたら黒影の気持ちの方が心配です、サダノブは聞く。
「ああ、それなら行き場所は一つしかない。しかも、時間まである。本星の切り裂きジャック様のシナリオライターの神に赦しでも請うつもりだろうな。
もう此処生活も限界の様だ。ルナは娼婦だった母を恨んでいるから、娼婦になるぐらいならば自殺でもし兼ねない。
今日、21時になってみなきゃあ、何も分からん。今はその準備だ。」
そう話している間にも黒影は調査を進めていた。
「……血痕……がある。小さいが引っ張られたように伸びている。
これは勢い良く殴った時に、飛んだりした時の飛沫痕だ。
切ったらもう少し斜めになるか滴る。此処に来るまで通路とは考え辛い。色から見ても然程古くはなさそうだ。
……決まりだな。」
黒影はそう言うと、立ち上がり衣服の土を必死に払おうとする。
「先輩、またあの狭い通路を通るんですよ。」
と、すかさずサダノブがまた汚れるのだからと言った。
黒影は一瞬、きょとんとした目で、
「あっ、そうか……。」
と吞気に言うのだ。
「事件以外になると本当に何も考えていないんですから。」
サダノブが気を付けるように言っても、黒影は何時もの様に長閑に微笑むだけであった。
――――――――――
黒影は散々帰りに愚痴を零して、船の到着時間まで一旦、家へ引き返す。
「先輩、相手……一人で来ますかねぇ?」
サダノブが緊張気味に言う。
「ああ、多分。」
と、気楽に黒影は答えてさっさとシャワーを浴びに、浴室へ行ってしまった。
「犯人を捕まえるって言うのに、珍しく緊張感が無いですね。」
サダノブが黒影が居なくなったので、ふと風柳に言った。
風柳を見ると、緊張感が張り詰め何時もの大捕物の前のようである。
「あれ?なんか……違う……。」
サダノブは、黒影と風柳の反応が違うのを不思議に思って言った。
「犯人に同情している場合ではないのだがな……。」
と、風柳は静かに答えるだけだった。
🔸次の↓「黒影紳士」親愛なる切り裂きジャック様 五幕 第五章へ↓(此処からお急ぎ引っ越しの為、校正後日ゆっくりにつき、⚠️誤字脱字オンパレード注意報発令中ですが、この著者読み返さないで筆走らす癖が御座います。気の所為だと思って、面白い間違いなら笑って過ぎて下さい。皆んなそうします。そう言う微笑ましさで出来ている物語で御座います^ ^)