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#008 仕事で"ゾーン"にはいる – 社員の「好き」を応援する"社会実験"

先日来、気の向くままに、企業の統合報告書を読み込んでいた。前々回の投稿(#006)で取り上げた人的資本経営に関する各社のストーリーに触れたかったからだ。

統合報告書とは、企業の財務情報と非財務情報を統合したレポートのこと。投資家やその他ステークホルダー向け資料として作成される。

現時点では任意開示であるものの、経済産業省から「価値協創のための統合的開示・対話ガイダンス-ESG・非財務情報と無形資産投資-」が公表された2017年以降、その数は増加傾向にある。人的資本の情報開示義務が2023年3月31日以降に終了する事業年度にかかる有価証券報告書から適用されるようになったことから、その補完情報資料としての役割も期待される。

出典:経済産業省「日本の企業情報開示の特徴と課題」(2024年5月)

有価証券報告書が「規定演技」であるのに対して、統合報告書は「自由演技」ともいわれる。当該企業の価値創造の仕組み、その実現に向けての戦略や独自の取り組みを窺い知ることができる。

そんな統合報告書で、抜群におもしろいコンテンツに出会った。筆者にとっては、セレンディピティといっていいレベルの偶然で予想外の素敵な発見である。それは丸井グループの壮大な社会実験のことだ。


「好きだから、あげる。」 新たな消費文化の先駆け

丸井といえば、赤いカード。「マルイのクレジット、便利です。」のTVCMは今もなお耳に残る。

この頃、つまり70年代後半から80年代半ばにかけては、高度経済成長期からバブル期への移行期。モノ消費からコト消費への転換期でもあった。ただ、「好きだから、あげる。」、「ひとりよりふたり。」、「そろそろ次のこと。」などの当時のマルイ百貨店の一連の広告コピーには、その後のトレンドとなる「意味の消費」の萌芽が感じられる。

振り返れば、糸井重里が手がけた西武百貨店の「不思議、大好き。」や「おいしい生活」も同時期の広告コピーだから、百貨店が広告代理店とタッグを組んで新たな消費文化を席捲していたのが偲ばれる。

小売りと金融を融合したビジネスモデルへ

現在の丸井グループは、当時とは業容を大きく変化させている。直近の統合報告書によれば、グループの総取扱高における小売業の占める割合は約7%に過ぎない。それ以外はフィンテック事業と表記されている。つまり、小売業の10倍以上の規模感のビジネスが育っているということだ。

具体的には、エンベデッド・ファイナンス事業(既存サービスに金融機能が組み込まれたサービス形態)では、エポスカードが連帯保証人となる家賃保証サービス、「残価設定クレジット」による教育分野での個人向けファイナンスプログラム、高額歯科治療を対象とするデンタルクレジットなどを提供。マイクロファイナンス事業としては、途上国の低所得者層に融資をおこなう「応援投資」に取り組んでいる。
 
もっとも、フィンテックビジネスのDNAは創業時から持ち合わせていたのかもしれない。家具を「月賦」で販売するビジネスモデルでスタートした同社は、1960年に日本で初めて「クレジット」の概念を私たちの消費行動に持ち込んだ。こうしたチャレンジは、「信用は与えるものではなくお客様と一緒に創る」とする独自の与信哲学に支えられている。

時代に先駆ける起業家精神、そして、小売りと金融の融合の結果として丸井グループの現在の姿がある。

ビジョン2050:社会課題解決実現企業へ

では、丸井グループは、不確実な時代において、どのような未来を思い描いているのだろうか? 

同社のビジョン2050では、「私らしさを求めながらもつながりを重視する」、「世界中の中間・低所得層に応えるグローバルな巨大新市場が出現する」、「地球環境と共存するビジネスが主流になる」との予測にもとづき、次のような世界観が示されている。

ビジネスを通じてあらゆる二項対立を乗り越える世界を創る

「共創経営レポート2023」

国や人種の違いによる対立。超富裕層対中間・低所得層の構図。生産・消費活動と地球環境保護のせめぎあい。このような二項対立を乗り越え、すべての人が「しあわせ」を感じられるインクルーシブな社会を実現すること。そのために、フィンテック×小売×未来投資を軸とする知識創造型の社会課題解決実現企業となること。これが丸井グループのビジョンである。

企業文化2.0:失敗を許容し挑戦を奨励する文化へ

こうしたビジョンの実現に向けて、丸井グループは企業文化の変革に取り組んでいる。

「自ら考え自ら実行する」ことを標榜し、2005年にスタートした企業文化1.0。その特徴は「手挙げ」にある。グループ横断の全社プロジェクトへの参加や、中期経営推進会議といった学びの場から異動や昇進・昇格までが社員の自発性に委ねられているという。

すべての社員がイキイキと能力を発揮することによって、イノベーションが生まれ、ビジネスが進化し、企業価値が向上する。このような好循環を生み出すための土台づくりである。

さらには、自らが実験台となり社会実験を行う企業となることを目指して、「失敗を許容し挑戦を奨励する」企業文化2.0へと進化させている。行動KPIとして、チャレンジに向けた打席数試行回数などを設けているところに特色がある。

その鍵となるのが働き方と組織のイノベーション。同社の具体的な取り組みが「共創経営レポート2023」では6ページにわたって紹介されている。

社員一人ひとりの創造力を全開にする 

この壮大な実験は、経営会議での次のようなやりとりからはじまったという。

社長:「私は、社員がフローに入れる会社にしたいのです。」
産業医さん:「ああ、フロー状態ですね。私もずっと研究してきました。」

「フロー」とは「時を忘れ、我を忘れて」 没頭する感覚のこと。深い喜びや楽しさをともなう状態でもある。ポジティブ心理学者のチクセントミハイが研究成果として理論化している。スポーツの世界では「ゾーンにはいる」と語られる現象があるが、あれのことだ。

社会課題解決と利益の両立を実現する企業となるためには、ビジネスのブレークスルーが求められる。過去の延長線上では達成できない。この高いハードルをクリアするためには、仕事でのフロー体験を通じて一人ひとりの「創造力」を全開にすることが不可欠である。

このように考えた同社は、前述の経営会議のやりとりからわずか3ヶ月後の中期経営推進会議において、ビジョン2050の実現に向けた中核的な取り組みとして社員に向けて発表している。

11回も登場するチクセントミハイ

では、なぜそのことが筆者にとってセレンディピティ、偶然で予想外の素敵な発見と感じられたのか?

まずは、その意外性。なにしろ、チクセントミハイ、である。もしあなたが彼の名前をタイプしたら、「蓄銭と未配」と変換されても不思議ではない。その認知度は、一般の人々の間ではおそらく5%ぐらいだろう。ニッチな存在といっては失礼だが、決してメジャーではない。その研究成果を5000名規模の組織が企業文化変革の切り札として実装しようとしているわけだから、果敢な決断であり、大胆な実験であるといってよい。

統合報告書の貴重な紙面を割いて、こんなモデルまで紹介しているのだから、読んでいるこちらまでワクワクしてくる。そこには、社員の能力レベルと仕事の挑戦レベルへの視線がある。

共創経営レポート 2023(P54)

これがキャリア自律の文脈で、「計画的偶発性理論」のジョン・D・クランボルツが登場するのならわかる。DE&I(多様性・公平性・包摂性)に関する取り組みで「心理的安全性」に言及して、エイミー・C・エドモンドソンということもあるだろう。終身雇用ならぬ「終身成長」を人財戦略の柱に掲げる旭化成の統合報告書であれば、「人生100年時代」のリンダ・グラットンが引用されてもおかしくはない。ただ、チクセントミハイが11回も登場する統合報告書は他にはない。絶対にない

たとえるなら、ピーター・ドラッカーの「現代の経営」に心酔して、その教えに忠実に組織マネジメントの仕組みを運用する、といったことだろうか。いや、それとも違う。そもそもドラッカーの認知度は高いはずだから、ここまでの意外性はない。

う~ん、そうだな・・。エドワード・L・デシの「自己決定理論」に惚れ込んで、モチベーションの問題に切り込む。内発的動機づけによる職務遂行の実現を目指して、「自律性」、「有能性」、「関係性」の三つの欲求を仕事における中心的なテーマと定める。これらの欲求を満たすことを目的として、仕事のアサインメント(異動・配置)の仕組みをつくる。1-on-1のフォーマットや目標設定の考え方、評価の仕組みを改める。総合的なモチベーション向上という視点からインセンティブを含めた報酬制度全体を再構築する。
たとえるなら、こんなことに近いインパクトがある。

ただ、それだけではない。

「失敗を許容し挑戦を奨励する」文化を目指す社会実験ストーリー

社長の青井さんは、丸井グループが「社会実験企業」であることを巻頭のCEOメッセージで高らかに宣言している。

自らが実験台となり、率先して取り組むことで社会に貢献していく。

社会実験に臨む姿勢が顕著にあらわれているのが、今回の「仕事でのフロー体験をつくる」取り組みである。

経営会議で「いいね!」となったら、「やる」と宣言して、すぐに取り掛かる。まずは「フロー」という概念を社員にも知ってもらおう。フロー体験によってなにが起こるのか。どうやったらフロー状態にはいるのか。そんなことを伝えることからはじめてみよう。次に、現時点でどの程度の社員がフロー状態にあるのか調査してみよう。フローと関連性の高いワークエンゲージメントの視点も加えて分析してみよう。フロー状態に導くためにはどんな人事施策が効果的なのか。できることからどんどんやって、振り返りをして、さらに前に進めよう。

実験の醍醐味は、失敗を恐れなくなるということ。「失敗を許容し挑戦を奨励する」企業文化の醸成を、経営陣がアジャイルな仕事の進め方によって率先垂範している好例といえるだろう。

同時に、この実験は二重構造にもなっている。同社は、より良い未来をつくる指針のひとつに世の中の一人ひとりの「好き」を応援することを掲げているのだが、この「フロー」実験は社員の「好き」を応援することにもつながっているからだ。社内施策の目指すところがビジネスにおける社会課題の認識とも整合しているところが興味深い。

「ありたい姿」が先。意味づけは後から。

同社の実験では「どうありたいか」が明快である。社会問題解決企業になることを目指す。その大きな挑戦を成し遂げるために、仕事でのフロー体験を通じて社員一人ひとりの「創造力」を全開にする。このような強い信念に裏打ちされている。

仕事でのフロー体験の実装への挑戦においてワークエンゲージメントの視点が加わるのも、ワークエンゲージメントが「没頭」、「熱意」、「活力」を要素とする概念であり、フローと親和性が高いだろうという理由からであって、先にエンゲージメントありきではない。

信念があって、情熱がある。「ありたい姿」が先で、意味づけは後から。企業文化醸成に向けてのオーセンティックなアプローチといえるだろう。

「企業業績の向上のためには社員のエンゲージメントが重要なようだから、サーベイでもやってみるか。開示項目にもなったことだし・・」というような、哲学のない、場当たり的な組織開発とは一線を画している。

組織に息づくピープルアナリティクス

社員をフロー状態に導く道筋においては、ピープルアナリティクスの手法が用いられている。ここでも「ありたい姿」が起点となっている。

共創経営レポート 2023(P55)

社員のフロー状態を挑戦レベルと能力レベルの二軸の4象限で考えると、目指すのは右上の象限である。では、現状はどうなっているのか? なにが変わると、右上の象限への移動が起こり得るのか? このような思考のプロセスに基づいてピープルアナリティクスが設計されている。

やりたいことがあって、その実現のための仕組みを探究したいという欲求が湧き上がる。じゃあどんなデータが必要なんだろう? なにをやったら効果が出るんだろう? そんな好奇心の連鎖で分析と思考が進められていく

開示要求がある数字や標準的な人事情報データばかり並べてみたところで、他社並みに行き着くだけ。そこから独自の取り組みが生まれるわけもない。

明確な目的があって、分析が必要とされて、データ収集のためにシステムやツールが利活用される。同社のピープルアナリティクスには、その本来の姿がある。

丸井グループはこうした分析の結果にもとづき、挑戦レベルと能力レベルを高次元で拮抗させるための施策としてグループ間職種変更を進めている。2013年の導入以降、これまでに職種変更をした社員は全体の85%にのぼり、そのうちの86%が自身の成長を実感しているという。

前述の経営会議のやりとりで「ああ、フロー状態ですね。私もずっと研究してきました。」と応じた産業医の小島さんは、それ以降、ここまで紹介した社内施策(実験)をリードし、現在は産業医と取締役執行役員を兼務してCWO(Chief Well-being Officer)を務めている。

6ページの特集の最後は、先年、87歳で亡くなったチクセントミハイのこんな言葉で締めくくられている。

幸福とは、それをめざすものではなく、自分たちがベストを尽くした結果として起こるものです。それは、ときには強いストレスを伴います。しかし、能力を発揮する時に満たされる感情がモチベーションとなって、物事を発展へと導いていきます。行動の中で幸福を感じる体験は、その人に十二分に生きているという感覚をもたらすのです。

Mihaly Csikszentmihalyi

フロー理論が提唱されたのは1975年。その研究成果が、50年の歳月を経て、アジアのとある企業でのイノベーションの創造に一役買っていることを知ったら、ハンガリー生まれの心理学者はどんな表情をみせるだろうか。


さて、ここまで書いてきて5,600字あまり。一回で読んでもらえるボリュームとしてはこれぐらいが限界ですよね。

実は、丸井グループの統合報告書が半端なくおもしろかった理由は、もうひとつあります。次回の後編にてその内容をお届けします。お楽しみに。

参考:

後編はこちら。


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