◆読書日記.《網野善彦『歴史を考えるヒント』》
<2023年5月13日>
網野善彦『歴史を考えるヒント』読了。
日本の中世史が専門の歴史学者・網野善彦が新潮社のセミナーとして「歴史の中の言葉」というテーマで話した講座の書き起こし講義録。
著名な歴史家が「日本」という国名はいつどうやって決まったのか?や「関西」と「関東」といった地域名の誕生についてだとか、あるいは「募る」「自由」「落書き」等と言った日常語まで、その「日本の歴史の中の言葉」の意味を教えてくれる内容である。
……という事で、今年はぼくの中での課題本を言語学者フェルディナン・ド・ソシュールの『一般言語学講義』としている関係で、近ごろ言語学の分かりやすい解説本を読んでいたのだが、言語学からソシュールへと自分の学習段階を進める前に、ちょっと読みやすそうだからと思って読み始めた歴史の本が、偶然「言葉」についての本でもあったというオチがついた。
何気なく手に取って読み始めた本が、最近の研究テーマと偶然一致していた……というのはぼくのなかでは割とあるあるネタだ。
本書では冒頭から面白いテーマで話始める。
著者は大学で歴史を教えていた頃、次のような問いを学生に投げかけてみたところ、ほとんどの学生が答えられなかったという。――
【問題】われわれの国「日本」という国の名前が決まったのはいつの時代だったでしょうか?
【答え】飛鳥時代後期。
702年に中国に到着した遣唐使が当時の周の皇帝・則天武后に対して「日本」からの遣いであると言ったのが歴史上、最初に公に現れた「日本」という国名の最初と言われているそうで、それ以前は「倭」と言っていたのがこの時代に変わったという。
だから、「日本」という国名はその以前の年に決まったのだろうと言われている。
で、そのような重要な事が日本で決められたのはいつか?となると、日本初の体系的な律令法であると言われている「浄御原令(きよみはらりょう)」が施行された689年で、これは著者の網野善彦によれば「現在の大方の学者が認めるところ」なのだという。
つまり、それ以前に「日本国」という国は存在していなくて、それまであったのは「倭国」という国だったわけだ。
著者の指摘が面白いのは、例えば「日本の旧石器時代」や「弥生時代の日本人」という言い方はたくさん見かけるがそれは間違いで、日本の歴史意識を曖昧にさせる悪い表現だという。
そういう表現だと、まるで旧石器時代や弥生時代から「日本」という国が連綿と続いて存在してきていたかのような錯覚を与えてしまうので、そういう曖昧な言い方は注意しなければならないというのだ。確かにそうである。
この話は本書の「枕」としては秀逸で、特にこの「日本」という国号にまつわる話も載っていてこれが傑作なので是非ご紹介したい。
「日本」という国号の意味は「日出づるところ」という意味が背景にあるだろう事は確かなようだが、この意味について「承平私記」「日本書紀私記」に面白い話が載っているのだという。
承平年間(931~938年)に『日本書紀』の講義が行われた際「日本」の意を「日出づるところ」だと説明した所、受講者から質問が来た。
曰く「日本の土地にあってこれを考えてみれば、お日様はこの国の領内から出ているわけじゃないじゃないですか?」というものだったという。
確かに、日本の領内の視点に立てば、日はハワイやグアムの方角から上がってくる。「自分の土地から日が上ってくる」というわけではない。
逆に、ハワイやグアムの視点に立って考えてみれば、日本は「日が沈んでいくところ」だ。
つまり「日出づるところ」というのは、「中国大陸の視点」という立場に立って見て初めて「日出づるところ」だと言える呼称なのだ。
そういう事から考えれば分かるように、「日出づるところ=日本」という国号は、当時の大帝国「唐」を強烈に意識した、対外的な意識で決められた国号だったのである。
そのため江戸時代の神道家などの中には「日本」は中国大陸から決められた国号だから相応しくないと主張する者もいたのだそうだ。
少なくとも、自主的な意味でなく、対外的な見栄えを意識して決められた国号が「日本」という名前の意味であるからして、これを無反省のそのままずっと使い続けていいのか?という事なのである。
伝統的な我が国の呼び名は何も「日本」だけではなくて「倭国」もあったし「秋津島」や「大八州国」「やまと」「豊葦原の瑞穂の国」なんてのもあった。
これは、「日本」という名称の意味もその成り立ちも知らずに伝統だからと言って自主性のない意味の名称をそのまま使っていていいのか、という問題提起なわけだ。
問題はそれだけではない。
例えば「建国記念日」が2月11日と決まった際、学者はこぞって反対したという。
何故か?
『日本書紀』の中で扱われている「神話上のお話」である、神武天皇の即位日をもってして決められた「紀元節」を、あたかも歴史上の事実としての「日本」が建国された日であるとしたかのような扱いで戦後に復活させたからである。
「事実」ではなく「架空のお話」を根拠に、「建国記念日」の日程が決められたと思えば、確かに学者は反対するだろう。
日本人は、自分の国の名前「日本」という言葉がいつの時代にどういう経緯で決まって、それがどういう意味なのか、全く曖昧なまま暮らしており、更にはそれを未だに「神話の世界の話」までごちゃまぜにして認識しているというわけである。
著者がいうには、中国の留学生であったりアメリカの役人だったりと、自分の講義に出席していた外国人には「ご自分の国の名前が決まった年は?」と質問するのだそうだが、即座に答えが返って来るのだという。
著者は「日本人のように、国名が誕生した時を明確に答えることができない国民は、世界でも珍しいのではないでしょうか」とさえ言っている。
自分の国の伝統や「日本的なもの」に対して、たいへんな愛着を抱いているにも関わらず、その内実については認識が曖昧で、詳しい事を聞かれてもハッキリとは分からない。
我が国の「歴史」というものの扱われ方が、このエピソードに色々と象徴されているようにも思えるのは、果たしてぼくだけだろうか。
◆◆◆
日本でも西洋でも、文化的・精神史的に中世という時代でいったん大きな断絶があるらしい。
網野によれば、日本では室町時代中期あたりの前後で、日本の「常識」と呼ばれるものは非常に大きく変わっているという。
日本でわれわれが「古来からの日本の伝統」と言っているものの大半は、この中世「室町時代中期以後」に定着したものなのだそうだ。
それ以前の日本は、現代の常識とはかけはなれた考え方や文化といったものがあったという。
「言語」の変遷というものは、その時代、その地域の人たちの間に共有されていた文化・思想の変遷でもあると思う。
以前の記事でもご紹介した様に、言語学者の丸山圭三郎は「言葉は、それが話されている社会にのみ共通な、経験の固有の概念化・構造化であって、外国語を学ぶということは、すでに知っている事物や概念の新しい名前を知ることではなく、今までとは全く異なった分析やカテゴリー化の新しい視点を獲得することにほかなりません」と言っていた。
これと同じように、過去の歴史の言葉の変遷を理解するという事は、その社会に共通している精神史を探るという事ではないかと思うのだ。
ソシュールは言語学における「歴史」を否定した。
「科学」としての言語学は「生きている言語」に目を向けなければない、と考えたのである。「いま眼の前にある"状態"」としての言語を対象としなければならないのである。
しかし、ソシュールは歴史研究における「言葉」の重要性まで否定していたわけではないし、言語学においても共時的な研究法を方法論として優先していたのだ――というのが丸山圭三郎『言葉とは何か』での説明であった。
言語研究は通時的なものだけでも、共時的なものだけでも駄目だ、と思えば良いだろう。
言葉を単語単体のみ切り出してきてその歴史的な変化を追求する通時的な追求だけではダメなのである。
言葉は必ず社会の中にあって、ある言語体系の中で様々な言葉の関係性の中に置かれて、初めてその意味と役割を持つ事となる。
丸山圭三郎の使っていた図も利用して説明しよう。
ある単語「A」は「状態(1)」の時代では、ABCの三角関係の中にあって(x)という役割が決まっていた。それが時代と共に「D」という言葉が現れて新たな四角の関係性(状態(2))に変化する事で、「A」という"言葉"自体は変わらなくても、その役割、その意味が(y)に変わるのである。
この図で言えば(x)⇒(y)の変化だけを見ていても、全体の移り変わりの変遷を捉えない事には、言葉の理解には及ばないのである。
「言葉の由来雑学」のような雑学本は多くあるが、たいせつなのは「言葉の歴史的変化」だけを追う事ではなくて、その言葉が使われていたその当時の社会的背景や文化的背景といった、その時代における共時態の断面の俯瞰図を理解し、別の時代の俯瞰図と比較する事で違う状態への変化を理解する、共時態・通時態の両方の考え方をも忘れないという事であろう。
「言葉の由来」は、断片的な雑学では捉えきれないものがあるのだ。
冒頭に話した「日本」という国号の話も、同様に理解する必要があったのである。
「日出づるところ」という国名の由来も、当時の大帝国「唐」を強烈に意識した、対外的な意識で決められた国号であった。
当時、「倭」という国名を使って中国大陸に朝貢に行っていた支配層が、小さいながらも律令制を定めて自らの「国」という自意識をもって対外的に自らを主張した。
その国際的な関係性や当時の時代背景があってこそ、自らを「日出づるところ」と称したのである。
そのため、この「日本」という国号はしばらく対外的にしか使われない言葉であった。
例えば、著者によれば、『今昔物語集』に掲載されている話の中には、地獄の閻魔様に「自分は日本から来た」と言ったエピソードが書かれているそうだし、竜宮城の王の前に出た浦島子が「日本の者だ」と言ったと書かれているという。
これは当時「日本」という言葉は、外国、異界に行った時に、対外的に使う言葉として使われていた事を示している。
このように考えてみれば、われわれが「日本」という国号の意味もわからずに、今まで何の疑問もなくずっと使ってきたという事がわかる。国の重要な言葉でさえ、この扱いなのである。
つくづく、言語というものを学ぶという事は、自分らの常識の「外」を知るという事なのだと感じる。
このように「歴史の中の言葉」というものは、ソシュールが言ったように、単に歴史的変化を追っているだけでは駄目なのだ。
当時の社会的な背景がどうなっていて、その当時の言語体系の中でどういう関係性にあってその言葉が使われていたのか、その共時態の視点が抜けていてはいけない。
そういった当時の時代の全体像を造り出しながら、その中の位置づけを探す行為こそが、歴史学の中での「言葉」を理解する方法なのだろう。
だから、「歴史の中の言葉」は、ある意味精神史の一部なのである。
それは、その当時の人々のものの考え方を探る事でもあるし、その当時の常識や価値観が分からなければ、例え「読める文章」であっても、現代の我々には意味が通じないのだ。
実際、古文書によっては、書かれている単語が現代も使われている見慣れた単語であっても、現代の意味と同じ解釈で読むと文脈上意味が通らなくて、現代の我々には意味の通じない単語を見つける事もあるという。
そういった場合、本当に当時その言葉が使われていた際の、その言葉にまつわる感覚を理解しなければならなくなる。
例えば本書では、「落とす」という言葉がその昔「奪う」「没収する」と同義の意味を持っていたとか、著者の説として「切る」という言葉はかつて「世俗の縁を切る」という意味であったといった事を説明している。
これらの言葉も、もちろん当時の文章に「この言葉はどういう感覚か」という事細かな説明があったわけではないので、その当時の社会状況や文章のコンテキスト等から当時の感覚を類推しなければならない「歴史の中の言葉」であった。
「言語」がそれ自体、人間の思考形式であり、それ自身文化であるからには、網野善彦が行っているような「歴史の中の言葉」を学ぶという事は、過去の時代の「時代精神」であり「概念的システム」といったもの、それらの変遷を追求する――という事になるのではないだろうか。
このテーマはある意味ミシェル・フーコーのエピステーメー論にも通じてきそうな話である。
このように考えてきてみると、ソシュールを勉強する前のほんの寄り道という感覚で読み始めた本であったものの――これはぼくの言語学や西洋哲学史のお勉強と絡めても考えらる、なかなかいい寄り道になったものだと思うのである。