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◆読書日記.《大芦治『心理学をつくった実験30』》

<2023年9月14日>

<概要>
パヴロフの犬、ミルグラムの服従実験、マシュマロテスト、セリグマンの学習性無力感...。心理学の魅力は、精緻に練り上げられた実験手法と、それがあぶり出す人間の知られざる一面にある。「心」とそれにまつわる人間の活動を科学的に解明することをめざした近代心理学は、その当初から実験研究を重視してきた。本書では、そのなかから広く知られ、大きな影響力を持った30の実験をセレクト。それぞれの実験を心理学の流れのなかに位置づけ、その内容と影響を紹介していくことで、心理学という学問の歴史とその広がりを一望する。
<著者略歴>
大芦治(おおあし・おさむ) :1966年、東京都生まれ。1989年、早稲田大学第一文学部心理学専修卒業。1996年、上智大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得退学。倉敷芸術科学大学講師、千葉大学助教授などを経て、現在は、千葉大学教育学部教授。博士(心理学)。心理学および教育心理学専攻。主な研究テーマは、動機づけ、無気力に関する理論的研究、教育心理学の成立過程。著書に、『無気力なのにはワケがある――心理学が導く克服のヒント』(NHK出版新書、2013年)、『心理学史』(ナカニシヤ出版、2016年)、『タイプA行動パターンに関する心理学的研究――研究の展望と統合的な発達モデルの検討』(風間書房、2019年)、『新・動機づけ研究の最前線』(共編著、北大路書房、2019年)などがある。

Googleブックスより引用

 大芦治『心理学をつくった実験30』読了。

大芦治『心理学をつくった実験30』(ちくま新書)

 西洋思想の認識論的な分野が19世紀から発展した生理学・物理学・化学の影響を受けて、そこから分離して誕生した「心理学」という学問がどのように発展して現在に至っているのか、実験心理学の主要な30の実験の内容を解説しながら理論の流れと共に紹介する「実験で見ていく心理学史」である。

 著者も言っているように、この手の心理学の実験を紹介している入門的内容の本というのは良く知られた代表的な心理学の実験をコラム風にまとめたものが多いのだが、それでは個々の実験の理屈は分かっても、各々の研究が心理学全体の考え方にどう影響しているのか、それがなぜ心理学の中で重要で注目された実験だったのか――そういった「理論の流れ」が分からないために「心理学史」として見れば体系的な書かれ方がされていなかった。

 本書はそういったコラム風の心理学の入門書の不備を補い「大学の「心理学概論」、「基礎心理学入門」といった授業科目のテキストとしても使用できるものとなっている(本書P.259より)」という意図のもとに執筆されているので、書かれ方は丁寧で分かり易く、なおかつ内容は割と本格的。情報の纏まり方がとても良い。

 本書を読んで思ったのは、「心」というものを「科学」として扱うのは非常に難しい事なのだな、といった事だった。

 最近ぼくがソシュール等の関連で紹介した言語学の分野でも、長らく人間が言語を操る際の「心」の問題というものには立ち入らなかった。「心」などというアヤフヤなものは「科学」ではないからだ、というのがその理由でもあった。

 フロイトが創始した精神分析学が他の「科学」分野の研究者から、「あれは科学ではない」と言われて否定されるのも、実験の及ばないブラック・ボックスである「無意識」というものを、精神分析学が扱っているからだった。

 心理学も似たような所があり、けっきょく心理学も「実験」をする方法が発見された当初は「科学」的であるという事に非常に拘っていた部分が見られる。

 本書では、実験心理学の立役者として紹介されているヴィルヘルム・ヴントは当初医師をしていて、それから生理学者に転向した人だったと書かれている。
 その彼は当初「哲学的なテーマ」を生理学の実験を用いて検証する学問として「心理学」を構想していたのだそうだ。

 その初期の心理学の実験方法というのがなかなか興味深い。

 学者が、外からの刺戟が一切入らない個室に身を置き、実験装置によって提供される刺戟を受けて、その内容を報告するという方法を採っていたのだという。

 たとえば、バニラアイスクリームを食べたときの心理状態の例を表記すると、

 バニラアイスクリーム=冷たい+甘い+バニラのにおい+やわらかさ+黄色

 となるのだそうだ。ちなみに、この冷たい、甘い……といったものが意識内の要素であり、この要素を結びつけようという意識内の作用を統覚という。
 今日、人の心の中でこのような化学変化が実際に起こっていると考える心理学者は、まずいないだろう。著者がいいたいのは、これが化学のアナロジーであるということだ。前述のようにメンデレーエフが元素の周期表を作ったのが1869年、つまりヴントが正式に実験心理学を始めるちょうど10年前だったということを考えると、その歴史的な意義は理解できるはずだ。哲学から抜け出し、最新の自然科学と肩を並べようと躍起になっていた当時の実験心理学がどんなものであったか、その一端がわかるのではないかと思う。

本書P.19-20より引用

 19世紀末というこの時代のヨーロッパというのは、啓蒙主義思想が科学文明の発展によってその成果が目に見えて世界を変えていた。
 そういった明確な成果が上がっていたからこそ、その時期のヨーロッパの科学者は、科学に対する強い信頼感の様なものがあったのではないだろうか。
 だがそれと同時に、あらゆる学問に関わる学者がこの「科学的である事」に関する執着を強くしていたのではないかとも思うのである。

 それが心理学初期の行動主義心理学の実験の考え方からも伺える。

 例えば「パブロフの犬」の実験でも分かる通り、当初心理学は「外的刺激を受けた生物がどういう反応(処理結果)を出すか?」という、機械の様な反応を扱うインプット‐アウトプットの研究から始まったと言って良い。

本書P.30の挿図より引用

 つまりは、「人間的な心」というアヤフヤなものを対象にするよりも「客観性」を重視し、更にはその成果によって生物や人間の行動を予測し、コントロールする事が可能なのではないかという「実用的」な期待があったからこそ初期の心理学者にそういった行動主義心理学の考え方が広がって行ったようなのである。

 しかし、そういった生物を機械の様な一元論的「外的刺戟‐反応」のシステムとして捉える考え方にも限界が出てくる。

 心理学の実験が発展してくると、そういった外部からの観察のみで説明できる刺戟-反応システム的ロジックでは説明できない行動が観察できるようになってくるからである。

 そういった問題が、例えばエドワード・C・トールマンのネズミの潜在学習の実験などによって露わにされるわけである。

本書P61の挿図より引用

「外的刺戟‐反応」では説明しきれない結果は、けっきょくその間に「心」という要素を仮定しなければ成立しないわけである。
 心理学ではこの場合の「心」を「認知」といい、その後「認知心理学」が主流となる事になる。

 こういった心理学の発展の流れというものは、この学問分野を理解するには非常に有効だと思っていて、それによってこの「心理学」という分野がどういった考え方に基づいて成立し、発展していったのか分かる。
 要はその本質的な部分を理解できるとぼくは思っているのだ。

◆◆◆

 で、上にも書いたとおり、本書を読んで感じたのは「心」というものはやはり、科学として扱うには非常に難しい問題を抱えているという点である。「難しい」というよりかは、「繊細」と言ったほうが良いかもしれない。

 そういう繊細なものにしては、心理学の知識というものは、ちょっとあまりに一般に広まりすぎているのではないのか?と思わないでもないのである。

 実験心理学における「身体を通して心を操作するというその実験的手法」は、人の心を理解する手段として正しいのか?という点は、心理学の隆盛に反して拭いきれない問題としてあるだろう。

 ぼくがまず感じたのは、心理学という科学が以前ご紹介したガレス・レン&ロードリ・レン『サイエンス・ファクト 科学的根拠が信頼できない訳』で説明されていた科学の問題点について、これほどこれほど良く当てはまる分野もないのではないかという事であった。

 科学は硬い岩盤の上にあるわけではない。科学の理論の大胆な構造は、いわば沼地の上に建てられているようなものだ。つまり<沼地に杭を打ちこんで建てられた建物>で、その杭はどんな自然の基盤にも、「既定の」基盤にも届いていない。私たちが杭を打ちこむのをやめたからといって、それは強固な地盤に届いたからというわけではない。ただ単に、さしあたってこの構造が倒れない程度には、杭がしっかり刺さっているという点で満足したにすぎないのだ。

ポパー『科学的発見の論理』の一節より

 更に言えばこれも以前にご紹介したダレル・ハフの『統計でウソをつく法』で提示されている問題も多く絡んでくると思われる。実験結果の相関関係の問題、因果関係の問題、等々。

 ぼくとしては人間の心というものは、言わば複雑系のようなものなのではないかと思うのである。
 心理学がいくら人間の平均的な認知の働きを研究しても、人間の個人差というものは如何ともしがたい。

 例えば、心理学では花形領域である発達心理学においても、研究対象がどういう環境で育ってどういう両親の元で育ってどういう人間関係の元に育ったかという所は大きな問題であろうし、またどういう時代に生きてどういう教育を受け、どういう文化を教授して来たのかという条件も、研究結果に大きく関わってくるだろう。また、遺伝的な条件もあるだろう。そういう被験者の条件をどれだけ整えるかという事だけでも非常に難しい。

 心理学の実験を受ける被験者のうち「まったく同じ条件の人間」というのは、一人もいないのである。

 そういった「人の心」を理解する方法として、心理学の実験方法が果たして正しいものなのかどうか。
 ぼくには本書を通して読んでも、どうにもその辺の確信が得られなかった。ポパーが言うような「沼地の上に建てられている」科学の不安定さを感じずにはいられないかったのだ。

 勿論、現代の心理学はそういった個人差を埋めるためのあらゆる方法を採ってはいる。
 が、その方法についても統計学的な誤りであったり研究者の先入観であったり引用する研究書の誤りであったり実験環境の不備であったり実験デザインの不備であったり……と、幾らでも不正確な結果が出る可能性がある。
 心理学がいくら「科学」に拘っても「人の心」という、その拭いきれない「あいまいさ」というものはどこまでもついてくるのではないのだろうか。

 無論こういった学問は、無いよりあったほうが良いというのは大前提である。

 だが、ぼくとしては一般人にも広まっている心理学的な知識とそれに寄せられる信頼といったものと、心理学にまつわる「あいまいさ」「繊細さ」とのギャップを大きく感じずにはいられないのである。

 心理学的な知識というものは、ひょっとしたら今社会に広く知られ使われているほどには、簡単に扱っていいタイプの知識ではないのではないか?

 例えば著者は本書では、アメリカの心理学者ルイス・ターマンが1921年から開始した児童のIQと、その児童が成長していくに従って見られるIQの変化や成人した時の社会的成功との相関関係を追った調査を紹介しているが、その際は高IQ児童が将来社会的成功を得る可能性を示したという研究を紹介している。

 しかしこれは、ぼくが以前紹介したダレル・ハフの『統計でウソをつく法』の冒頭で、「エール大学卒業生の年間平均所得は、2万5111ドルである」というタイム誌の記事の問題を指摘したのと、まさに同系統の統計的間違いを犯しているのではないか?とも思えるのである。

 このような複数人の同じ研究対象の児童を数か月、あるいは数年間追跡調査をする心理学の「縦断的研究」は時間も資金も必要で、その上「対象者が年数を経る間に脱落してしまい、その脱落した対象者の中にこを意味がある結果が含まれていたのに、それがデータとして拾えないという場合もある(本書P.201より)」という問題も抱えている。

 この研究を行ったターマンは、IQは遺伝子的なものだと硬く信じていたそうだし、ターマンのIQの追跡調査は彼の信念を裏付けするようなものだった。――が、これもガレス・レン&ロードリ・レン『サイエンス・ファクト』で、そういう研究者の信念というのは、時として研究結果を歪めてしまうものだと指摘されている。

 また本書では、後に「心の知能指数」として有名なEQが心理学でもてはやされるようになると、このEQが将来の社会的成功に関係しているという研究結果も出てきたと紹介されている。

 はたして、何をどこまで信じれば良いのか?

 更に、これらの問題については著者が、妙に思わせぶりな意見を記しているのが、ぼくとしては印象に残っている。

 一方、われわれの日常に目を転じてみれば、"地頭が良い"という言葉を聞くように、むしろターマンの結果を率直に指示するような意見も目立つようになってきているように思える。これらの結果を見ていて感じるのは、実はわれわれの知らないところで、ある種のイデオロギーが実験心理学という科学的手法を隠れ蓑にして、社会の根幹をなす部分を動かそうとしているのではないかという恐れだ。もちろんそれが杞憂であることを願うのだが……。

本書P.207より引用

 本書は心理学の入門としては非常に良く情報が纏まっていて優れているのだが、そんな本書の著者も心理学という分野には、ポジティブな展望を持っていないようなのである。
 詳しくは書いていないが、「身体を通して心を操作するというその実験的手法の限界に突き当り、20世紀の終焉とともに衰退の兆しを見せつつある(本書P.255より)」とさえ言っている。

 本書は教科書的に出来ている内容ではあるものの、ほとんど目立たず、著者のこういった、あまりポジティブではない意見がちらほらと見られるのがぼくとしては気になる要素であった。

 今でも一般的には人気のある学問である心理学に対する著者のこの見立ては、ぼくには割とショックだったのだが、本書の内容を理解すると、ここまで言っている著者の考えもわからないでもない――と、そう思えてくるのである。


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